7.触発

時透さんを受け入れる気は、今も、これからも絶対にないのだけど、あの無防備な”寝顔”を見てからは、やっぱりこの人も「人間」なんだなぁ、と思うようになった。どれだけひどい言葉をわたしに投げつけても、必死の思いで鬼を討伐する同士には変わりないし、そうやって日々の戦闘の合間を縫ってわたしを育ててくれている。それには感謝しなければならない。

けれど、悪戯にわたしを傷つけようとする姿勢は心の底から軽蔑している。だから、彼から力を認められ独り立ちした暁には、二度と関わりを持ちたくない。いや、絶対に関わりを持ってやるものか……そう心に決めていた。

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「手合わせをしよう」
時透邸での泊まり込み修業が4週目に入った頃、時透さんがそう言った。彼の後に続いて道場に入ると、広い道場の真ん中にポツンと一本の木刀が置いてある。
「さぁ、いつでもどうぞ」
時透さんはわたしからやや距離を取った場所で、丸腰のままそう言った。手合わせと言いつつ、彼は今回も木刀を使わないようだ。以前なら、そんな舐めた態度に腹を立てていたけれど、今はむしろこれをチャンスだと思えている自分がいる。

全集中・常中を身につけたおかげで、瞬時に戦闘態勢に入ることができた。わたしは時透さんの言葉のあと、すぐに床を蹴り上げる。一気に間合いを詰め、足元に木刀を叩き込むも、寸でのところで時透さんが大きく飛び上がる。期待を持たせるように、ギリギリのところで飛び上がるのが、意地悪な時透さんらしい。

わたしはすぐさま態勢を整え直す。彼を”鬼”に見立てて、息をつく間も与えないように連続で攻撃を与えた。
「…今日はやけに、攻撃が低いね」
攻撃をかわしながら時透さんがつぶやく。その通り、わたしは伊之助のように常に低い体勢を維持していた。その方が小柄な時透さんへ攻撃しやすいからだ

今までよりもずっと、集中力も息も続いている。時透さんは汗一滴すら額に浮かべていないけれど、彼に木刀を叩き込むたびに、確実に”手応え”が増していた。

木刀を振るうと同時に彼の足を払う。ほんの少しだけ体勢を崩した時透さんの下に潜り込んだ。「ここしかない」と思った。爪の先にまで力を込めて、木刀を下から上に思いきり斬り上げる。空気を切り裂く音がする。その瞬間、時透さんが大きく目を見開いたのが見えた。


「お見事」
時透さんはわたしから少し離れた場所でにこやかに手を叩いている。
「僕の顔に傷をつけられるぐらいだ、随分と成長したね」
彼の頸に木刀を打ち込むことはできなかったものの、木刀の切っ先は彼の頬を鋭く切り込んだようだ。時透さんの頬には細い切り傷ができ、そこから少しだけ血が滴っている。

「いいよ、認めてあげる。君が炭治郎たちと同じくらいの実力を身につけた、ということを」
わたしは体の中に温かいなにかが広がっていくのを感じた。これは”喜び”だろうか。やっと時透さんから解放されるという”安堵”だろうか。どちらにせよ、強張っていた体が徐々に緩んでいくのを感じた。

「とはいえ、やっと炭治郎たちと同じラインに立てた…ということに他ならないから、君が弱い剣士であることに変わりはないよ。せいぜい鬼の頸を斬って剣技を磨くんだね」
「…はい、ありがとうございます」
最後にしっかりと嫌味を言われてしまったけれど、今までのようなしつこいほどの毒舌は吐いてこない。どうしてか、今日の時透さんは嫌に素直だ。

「それじゃ、屋敷に戻ろう」
時透さんはわたしから木刀を取り上げると、道場を出て行こうとする。そのとき、外で聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「おーい!時透くん、ナマエ、いるかー?」
炭治郎だ。わたしの様子を見に来たんだろう。途端に心が浮き立つような嬉しさを覚える。時透さんから正式に特訓の成果を認められ、やっとこの屋敷から解放される…記念すべきその日に炭治郎がやって来たのだ。早くこのことを報告したい。
そう思い、急いで道場を出ようとしたが、時透さんに左手を掴まれ強い力で引き戻される。

「え?とき…」
「なに嬉しそうな顔してるの?」
「……はい?」
「あいつが来て、そんなに嬉しいわけ?」
時透さんは心底不愉快そうな顔をしていて、怖いくらいに気迫を漂わせていた。先ほどまでの穏やかな様相から一変し、わたしは少しだけ怖くなる。

「あの、時透さん、炭治郎…ですよ」
「わかってるよ。その炭治郎が来て、君は嬉しいんだろ?」
「まぁ、はい…」
「そう、じゃあ会わせてやらない」
そう言って時透さんはわたしの手を引っ張り、道場の奥へと連れていく。そして裏口から出て行き、”離れ”のある方へとズンズン歩いて行った。たしかこの離れは、客室用に用意された建物ではなかったか。

「時透くーん!ナマエー!おっかしいなぁ、たしかにこっちから匂いがするんだけど…」
炭治郎の声が聞こえる。こちらに近づいてきているようだ。すると、時透さんはさらに歩調を速める。そうして、わたしは彼に半ば引きずられるようにして離れへと連れ込まれた。

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離れは客人のための建物ということもあり、小綺麗な和室になっていた。その座敷で、時透さんは腕を組みながら仁王立ちをし、わたしは彼に強く引かれた左手をさすりながら、慎ましく正座をしているのだった。

「今日から君をもとの生活に戻してあげようと思っていたけど、気が変わった。君にはこれからも僕の屋敷にいてもらう」
彼は憤然とした様子でこう言った。思わず「はぁ?」と声が漏れてしまう。
「わたしを認めるって言ったじゃないですか」
「もちろん認めたよ。でも君を僕の屋敷から出してやらない、気が変わったんだ」
「なにを言っているのかわかりませんし、わたしはこれ以上この屋敷にいる意味がありません」
「……君が悪い。あんな顔をした君が悪いんだよ」
時透さんは苛立たし気にわたしに近づいた。片膝を立てて座ると、その怒りに満ちた目でわたしのことを睨む。

「いい加減にしてください。忙しい時透さんにここまで鍛えてもらって感謝はしていますが、あなたの個人的な感情には付き合いきれません」
「君がどう思うかなんて聞いてない」
ああ、またこれだ。この人には理屈も道理も通じない。これじゃあ話すだけ時間の無駄だ。わたしは溜息をついて立ち上がり、部屋を出て行こうとした。けれど、障子戸に手をかけた瞬間、体に妙な浮遊感を覚える。

「ちょっと、誰の許可を得て出て行こうとしてるの?」
いつかと同じように、わたしは時透さんに担がれていた。そう、米俵を担ぐように。
「ま、またあなたは!どうしていつもわたしの邪魔をするんですか!!」
「君が僕の思い通りにならないからだよ」
わたしは降ろしてもらうために必死で抵抗するも、わたしの体を抱える時透さんの腕はびくともしない。そして、彼はそのまま奥の座敷へとわたしを連れていく。これでは、ますますわたしたちの声が炭治郎に届かなくなってしまう。

「お言葉ですが、人間というのは往々にしてそういうものですよ。そもそも、他人を思い通りにすることの方が間違っています」
「へぇ、俺に説教垂れるんだ?」
彼は乱暴にわたしを座敷に降ろす。畳に尻餅をつくような形になり、わたしは腹が立って時透さんを睨み上げた。すると彼は嬉しそうに、にぃと口を横に広げた。久しぶりに見る、あの嫌な笑い方だ。


「ああ…本当に君って僕を恐れないよね。そういうところが、僕をワクワクさせるんだけどさ…」
そして彼は畳に膝をつき、わたしと距離を縮めようとする。
「やめてください、来ないでください。力づくでわたしを従わせる気ですか?」
これ以上、時透さんがこちらに来ないように、右手を突き出し距離を取ってから言った。
「まあ、そうだね。俺、もう我慢するのやめることにしたからさ」
「…そうですか。じゃあこちらも手段を選ばず抵抗しますね」
「抵抗?できるの?」
そう言って、冷ややかに笑った顔が”最後”に見た時透さんの表情だった。彼がわたしの右手を強く引いた瞬間、わたしは彼のみぞおちに向かって足蹴を繰り出した。けれど、その足は空を蹴ることになる。

畳の上を滑ったわたしの体に覆いかぶさるように、時透さんが馬乗りになった。本来その体勢なら、わたしには”天井”が見えているはずなのだが、視界をよぎったのは頬を撫でた黒々とした艶やかな髪。また、目の前に見えているものは、近すぎて焦点が合わない。だから、その『状況』を飲み込むのに、数秒時間がかかった。
―――わたしの唇と、時透さんの唇がぴったり合わさっているという、その『状況』に。




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