8.訪問者

生まれて初めて人を殴ったし、自分にこんな力が出せるとは思わなかった。さらにその拳を相手がまともに食らうのだから、驚かないはずがない。

馬乗りになって口付けをしたことで、わたしに思いきり左頬を殴られた時透さんは、上体を起こすとべっと舌を出した。
「危ないなぁ、舌を噛むところだったでしょ」
「いっそ噛んでくれたほうがよかったんですけど」
「ひどい言い方」
時透さんの口の端に薄く血が滲んでいる。一瞬申し訳なさを覚えたものの、わたしを襲うような真似をした男には当然の報いだと思えた。

「なぜ、まだ退かないんです?もう一発殴られたいですか?」
「大丈夫、次は避けるよ」
「…そういうことじゃないんですよ」
平静を装いつつも、わたしは混乱していた。この人はわたしに口付けをしてきた。好きでもない女に唇を重ねるとは、とことん性根が悪いようだ。わたしに嫌がらせをする底のない執着心が恐ろしくてたまらない。

腹筋に力を込め、起き上がろうとするも、時透さんに両肩を抑えつけられ身動きが取れない。どっしりと彼が馬乗りになっているせいで、下半身も動かせない。無言で睨み合う時間だけが続き、いよいよ焦りが募ってくる。
「……わたしを、犯すつもりですか?」
震える声を抑えながら尋ねると、時透さんはキョトンとした。それから、天を仰いで笑い出す。
「なにそれ、僕を誘ってるの?」
そう言ってわたしの首筋に指先を這わせる。
「君が望むならそうしてあげようか?」
口元には笑みがたたえられているのに、目は一切笑っていない。全身に電気が走るように鳥肌が立つ。そして信じられないことに、わたしの目頭は燃えるように熱くなり、あっという間に溢れんばかりの涙が目を覆った。


「……えっ?」
戸惑ったような時透さんの声が降ってくる。視界がぼやけているため彼の表情はわからないが、かなり狼狽えているらしい。
一粒の涙がわたしの目尻から頬に伝った。肩を押さえつけられているから、涙を拭くこともできない。こんな情けない顔を時透さんにさらけ出していることが悔しくて、またとめどなく涙が溢れてしまった。

「…なんだ、君。泣くの」
肩への圧迫感と下半身にかけられていた重さが消えた。時透さんが離れていく足音がして、ゆっくりと体を起こすと、ばさりと顔になにかが投げつけられる。涙の溜まる目をこすってからそれを確認すると、それは清潔な手ぬぐいだった。
「いつまでもそんな顔見せないでよ」
時透さんがぼやくようにそう言った。わたしはその手ぬぐいで涙に濡れた顔を拭く。

それからわたしはその手ぬぐいを綺麗に畳み、傍の小さな漆机の上に置くと、部屋を出た。そのまま寝泊まりしていた和室部屋に行き、荷物をまとめて屋敷を出る。時透さんはわたしを止めなかったし、追いかけてもこなかった。

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それからは、拍子抜けるほどあっさりと”いつもの生活”が戻ってきた。日々任務で鬼の頸を切り、空いた時間で鍛錬を行ない、非番の日には師範に稽古をつけてもらった。誰もがわたしの剣技の向上に驚き、喜んでくれた。階級も、庚(かのえ)から「戊(つちのえ)」となり、炭治郎たちと肩を並べられるようになった。

そんな中で、時透さんついて尋ねてきた人間が一人だけいた。炭治郎だ。
「ナマエ、時透くんのところで頑張ってきたんだな。俺はその努力を尊敬する、ここまで強くなるなんて本当にすごいことだぞ」
任務を終えた帰り道、炭治郎がそう言ってわたしを労ってくれた。彼の優しさが本当に嬉しかったから、わたしも素直に喜びたかったのだけど、”時透くん”という言葉に不自然なほど反応してしまい、変に口ごもってしまう。

「ナマエ…もしかして、時透くんとなにかあったのか?」
なにかあったのには間違いない。離れに連れていかれて、感情的に八つ当たりをされて、その結果馬乗りになって口付けをされた。
けれど、わたしはそれを口に出すことができなかった。炭治郎には言いたくなかった。大事な仲間だからこそ変に心配をかけたくなかったのだ。
「ううん、なにも」
下手な笑い方は炭治郎に通じない。彼は真剣な目で、心配そうにわたしを見つめていた。

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それから丸々2ヶ月は時透さんに会わなかったんじゃないだろうか。噂によると、上弦の鬼がいる可能性の高い長期任務に赴いていたらしく、他の隊士たちもしばらく彼の顔を見ていないようだった。

だから、わたしと炭治郎が休息をとっている”藤の花の家紋がある屋敷”に彼が現れたときは驚いた。もちろん、藤の屋敷にはいつどんな隊士が来るのか、事前にわかるはずはないのだけど、柱たちは通常自分の屋敷で休息をとることが多い。だからなにか目的がなければ、このように柱がふらりと藤の屋敷に姿を現すはずがないのだ。


湯浴みを終え、浴衣姿で廊下を歩いていると、隊服を着た人間が炭治郎と喋っているのが見えた。誰だろう、そう目を凝らしながら歩いていると、その人がこちらを振り返る。

文字通り、体が固まる、という状態に陥った。
足が床に張りついたように動けなくなり、心拍が上昇する。2ヶ月前、時透邸の離れで起こったあの出来事を思い出す。
「時透くん!」
炭治郎の鋭い声が聞こえる。引きとめる彼の手を振り払って、時透さんがこちらにやって来た。わたしは血の気が引くようだった。

「久しぶり」
俯いたわたしを下から覗き込むような格好で時透さんが言った。わたしは口を引き結んだままで、言葉を発することができない。
「やめるんだ時透くん」
いつの間にか炭治郎もこちらに来ていて、時透さんの肩を掴んでいる。
「どうして?僕はこの子に挨拶することすら許されないの?」
「少なくとも俺は、時透くんがナマエに接触すべきではないと思っている」
「じゃあ、その理由を教えてよ」
明らかに苛立っている時透さんに対して、炭治郎は冷静だった。

「時透くん、君はナマエになにかしたんだろう。君の屋敷で稽古を終えてから、ナマエの様子がおかしい」
もう2人とも黙ってほしかった。わたしについてなにも追及しないでほしかった。けれど、時透さんは炭治郎に向けて、口の端を吊り上げるあの意地悪な笑みを浮かべる。

「あぁ、したけど?この子が僕の屋敷を出ていく最後の日にね」
「やっぱり、」
「口付けをした」
「………え?」
炭治郎の顔を見据える時透さんの顔はもう笑っていなかった。むしろ潔いほど堂々としている。
「今、なんて、言った…?」
炭治郎の額に青筋が浮かび、その声は怒りで震えている。
「だから、この子を押し倒して口付けしたんだよ。わかる?唇と唇を………」
「っなにやってんだよ、アンタァ!」
止める暇もなかった。炭治郎が怒りに任せて時透さんの胸倉をつかんでいる。こんなに本気で怒る炭治郎を見たことがない。わたしは彼の勢いに圧倒され、ただただ彼らを傍観するしかなかった。

「僕だってそう思ってるよ、なにやってんだ、って。だから今日、ここに来たんじゃないか」
「…っぐ」
時透さんは無表情のまま、自分の胸倉を掴む炭治郎の手をねじり上げる。そして、わたしの方を振り返った。
「そういうわけで、君と話がしたいんだ。時間、もらえるかな」
そう言った時透さんの瞳には意地悪な企みが一つも見えず、むしろひどく真剣で必死な色が見える。その瞳の色の理由が知りたくて、わたしは唾を飲み込み、静かに首肯した。




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