9.本心

「ねぇ、君は今でも僕のこと殴りたい?…殴りたいよね」
なにを言い出すかと思えば、開口一番、時透さんはこう言った。炭治郎には席を外してもらっていたから、今部屋にいるのはわたしと時透さんの二人きり。けれど、この前みたいに襲われるような心配はしていなかった。
「いや、まぁ一度は殴られたけども…それだけで腹の虫は治まっていないだろ。だから、君が満足するまで俺を殴ってくれていい。抵抗はしないから」
彼はそう言い、目を伏せる。まるでわたしに殴られることを待っているかのように。

「…一方的に人間を殴りつける趣味はありません」
「そうだろうけど、まずは君から制裁を受けるべきだと思って」
「なんの、制裁ですか」
「それは、もちろん……」
途中で口をつぐんだ時透さんはバツが悪そうな顔をしている。
「君を力でねじ伏せ、襲ったことについての制裁だよ」

わたしは時透さんから顔を逸らした。
「あなたを殴ったってわたしの心は晴れません、ですから殴りません」
「でも……」
「わたしがあなたにお願いしたいことはひとつ。もう二度とわたしの前に現れないでください」
時透さんの目が大きく開かれる。その瞳は動揺したように揺れていた。
「以上です、お引き取りください」
「待ってくれ、僕は…」
「帰ってください」
「待って、僕の話を聞いて」
「嫌です、炭治郎を呼びますよ」
「頼む、お願いだから僕の話を聞いて」
信じられないことに、時透さんはわたしに向かって頭を下げた。柱たる者が一介の隊士に対して、畳に額がつかんばかりに頭を下げているのだ。体中に怒りが渦巻いているとはいえ、彼が並々ならぬ想いでわたしに会いにきたことが伝わる。

「君に話を聞いてもらったら、僕は大人しく帰る。だから、どうか話を聞いてくれないか」
「や、やめてください、わたしに頭なんか…」
けれど時透さんは顔を上げようとしない。
「……わかりました、話を聞きます。聞くだけ、です」
こう言うと、彼はやっと折っていた体を起こした。びっくりするほど余裕のない顔をした時透さんがそこにいた。

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「君にやってきたことが間違っていたのかどうか、正直僕にはわからない」
掠れるような細い声で、彼は話をはじめる。
「でも、気づいたんだ。君をとてつもなく傷つけてきたこと、そして、僕が君に秘めたる想いを抱いていたことに」
「………」
「つまり僕は、君を手に入れたかった」
「……なんですか、それ。調子のいいこと、言わないでください」
吐き捨てるようなわたしの言葉に、時透さんは眉を下げ表情を緩める。困ったような笑い方だ。

「そうだよね。君からしたら、都合よく組み立てられた荒唐無稽な話に違いない」
でもね、と彼が続ける。
「事実なんだ。……俺は、君が好きだ」
気づいたときには右手を大きく振り上げていた。小刻みに揺れる自分の指先が情けなくて苛立つ。
「気が変わりました。今わたしはあなたを殴りたくてたまらない」
わたしの言葉に時透さんは小さく頷く。
「わかった、僕を殴るといい。気が済むまで、何度でも」
そんな落ち着きを払った様子にまた頭がきた。だから、その手を彼の頬に向かって振り下ろした。

…けれど、ダメだった。
彼の頬を打つ直前で、わたしの手は力が抜けたように勢いがなくなる。そして結局、ペチッという弱々しい音を立てて、彼の頬を優しく打ったのだった。


「……馬鹿馬鹿しい」
自分の口から零れ落ちたのは、そんな言葉だった。時透さんは軽く唇を噛んでこちらを見つめている。
「好きだから、なんだっていうの。好きだったらなにをやってもいいの。そんなことが言い訳になるとでも思ってるの」
「それは……わからない、なにもかもわからない。僕は、”恋”というものがわからないんだ。こんな感情を異性に寄せたことも、生まれて初めてだった。そして想いのままに行動していたら、君を…君を泣かせてしまった。だから、僕は間違っていたのかもしれない。だから、」
時透さんが静かに畳みに両手をつく。そして、深く深く頭を下げた。今度はしっかりと畳に額をつけている。
「本当にごめん、悲しい思いをさせてごめん」
痛々しいほど必死にわたしに謝罪する彼に、半ば呆然としてしまう。
「……でもやっぱり、好きなんだ、君のこと」
震えた声で付け足されたその言葉は、わたしの心臓を苦しいくらいに締めつけた。
わたしはふらつく足で立ち上がると、黙って障子戸を開ける。
「話はそれで終わりですか?それでは、お引き取りください」

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それから、どれだけ彼のことを考えただろう。気づけばすっかり夜が更けていた。
”恋”を知らなかったから―――その言葉に嘘はないようだが、それですべてがまかり通ってしまっていいのだろうか。考えれば考えるほど、時透さんという人間がわからなくなっていく。

障子戸が二回叩かれた。
「ナマエ、俺だ。入ってもいいか?」
炭治郎だ。わたしの部屋の灯りがついているとわかって、やって来たのだろう。どうぞ、と答えると彼が中に入ってくる。
「その…心配になってな」
なにが、とは言わないが、時透さんとのことに違いない。
「ごめんね、心配させて」
「いや、いいんだ!仲間として心配するのは当然のことだろう!だって俺は、ナマエが大切だから…」
言ってから炭治郎は顔を真っ赤にさせ、「た、大切って言うのは、仲間として、というか…!」と、なにやらしどろもどろに言い訳をする。

「それで、時透くんはなんだって…?」
遠慮がちに炭治郎が尋ねる。わたしはひとつ、小さく溜息を吐くと彼の質問に答えた。
「わたしが、好きだって」
「……えっ?」
一瞬、炭治郎の表情が凍りついたのは、見間違えじゃないと思う。
「つまり、これまでの一連の行動は、わたしが好きだったからなんだって、そう言ってた」
「………そうか」
「炭治郎?」
「それで、ナマエはどう思ったんだ?」
「え?どうって…まあ正直、だからってすべてを許せるわけじゃないと思ってる」
すると炭治郎は、うぅんと小さく唸った。

「そう、か……時透くんは自分の気持ちを伝えたのか」
「うん…?」
「で、ナマエはどうするんだ?時透くんを許すのか?」
「うーん…許すとか許さないとか、それはまだちょっとわからない。あまりに衝撃的なことを言われたからさ」
「…そうだよな、驚くのも無理はない」
そして炭治郎はゆっくり立ち上がる。もう自室に戻るらしい。
「こんな遅くに部屋に来てすまなかった。話を聞かせてくれてありがとうな、しっかり休んでくれ」
「ううん、こちらこそ話を聞いてくれてありがとう」
改めて、炭治郎のような気遣いのできる優しい仲間がいてよかったなと思う。

「ナマエ」
「なに?」
「俺は、お前の味方だからな」
いつもの優しい笑顔の炭治郎だったけれど、ちょっとだけ違和感があった。”味方”という言葉に力が入っているというか、なにか特別な意味が込められているような、そんな口調だった。


そうして彼が部屋を出て行ってから、わたしはすぐに床についた。けれど数時間後には飛び起きてしまう。夢に時透さんが現れたのだ。彼は夢の中でも「君が好きだ」とわたしに言った。そしてその言葉が耳から離れず、それから朝までなかなか寝付けなかった。





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