13.遅すぎた自覚

蝶屋敷の庭で一人柔軟をしているときのことだった。敷き布の上で開脚し、片方の足に向かって上半身を倒していると「おや」と声が聞こえた。体を起こし、声のした方に顔を向けると、廊下を歩いていたらしいしのぶさんが足を止め、こちらを眺めている。
「ナマエさん、外に出られるまでに回復したんですね」
「ええ、おかげさまで」
しのぶさんは縁側まで出てくると、しゃがみこんでわたしの顔を観察する。
「うん、顔色も悪くない。常中を会得したおかげで、これまでよりも回復速度が格段に上がっていますね。立派なことです」
柱に褒められると、なんだかくすぐったい気持ちになってしまう。
「でも、なんだか浮かない顔をしていますねぇ」
彼女は悪戯っぽい顔で微笑んだ。
「その理由、わたしが当ててあげましょうか?」
しのぶさんの言葉にわたしは開いていた足をすぐに閉じると、丸めた敷物を脇に抱え、彼女のいる縁側へと上がった。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + +

「つまり、あまりの変わりぶりに戸惑っている、と」
湯飲みに入ったお茶を静かに啜りながら、しのぶさんが言った。話し込んでいるわたしたちに気づき、キヨちゃんがお茶を持ってきてくれたのだ。わたしはまだ口をつけておらず、ほかほかとした湯飲みを両手に包んだままだが。
「はい。時透さん、救援に来てくださったあの日を境に、人が変わってしまったようというか…言葉や態度も、別人のようで。…でもある意味、以前しのぶさんがおっしゃっていたことは当たっていたと思います」
しのぶさんはわたしの言葉を聞きながら、うんうんと頷く。それから人差し指を立て、「ナマエさん、こんな話があります」と言った。

「”雄”は生命の危機を感じた際、種の保存のために性欲を高める本能が働くそうです。つまり、自分の子孫を残そうとして性欲が高まるんですね」
「へぇ、そうなん…………えっ……は?」
わたしがしのぶさんの顔を二度見すると、パッと両掌を広げた。
「冗談です」
「で、ですよねぇ」
しかし、あまりの突飛な冗談に笑い飛ばすことができない。
「はい、あくまで今の話は冗談ですが、彼が生命の危機を感じる中、生きている間にあなたにきちんと気持ちを伝えよう、向き合おうと思ったのはたしかだと思います」
彼女はわたしの顔を覗き込んだ。
「でも、ナマエさんからすれば、当然戸惑ってしまいますよね」
「……はい」
「ふふっ。でも、それが青春なんですよ」
え?とわたしが聞き返す間もなく、しのぶさんは立ち上がった。

「今日はこれからカナヲの稽古を見る約束をしているので、わたしはこれで。ナマエさんも、くれぐれもご無理はなさらないように」
「は、はい、ありがとうございます」
一人縁側に残されたわたしは、モヤモヤとした気持ちを抱えながら湯飲みのお茶を啜る。もう一度庭で柔軟をしようかと思ったが、いつの間にか空には重たい雲が立ち込めており、今にも雨が降り出しそうだった。そのため、今日は大人しく病室に戻ることにした。


長い廊下を歩いていると、なにもないところでつまずいた。しのぶさんが話してくれた珍妙な話を頭の中で反芻していたからかもしれない。そして、あれよあれよといううちに足が絡まり、みっともなく転んでしまう。
「……うっ」
受け身を取り忘れたうえ、痛めていた足を庇うようにして倒れたため、脇腹を強く打ってしまった。ついでに顎も強かに打ちつけ、涙が滲む。療養中なのに、治さなければならないところを増やしてどうするんだ。そんなことを思いつつ、広がる痛みに体を丸めていると、ふと近くに人の気配を感じた。

「大丈夫?」
声をかけた人物がしゃがみ込み、わたしの背中に手を添える。ゆっくりと顔を上げると、そこには眉を寄せ心配そうにこちらを覗いている時透さんがいた。さっきまで頭の中にいた人物が実際に現れたため、わたしの心臓は大きく跳ね上がる。
時透さんは隊服を着用し手には木刀が持たれていた。鍛錬でもしていたのだろう。あんなに大怪我をしていたのに、もう鍛錬に出れるなんてすごい回復力だ、と思っていると、彼の手がわたしの頭を撫でた。

「本当に大丈夫?ぼうっとしてるけど…頭でも打った?」
「あ、いえ……ただ、変な倒れ方しちゃって…」
時透さんはわたしの脇の下に手を入れ、体を起こすのを手伝ってくれる。倒れたときに足を捻ったらしく、足首がジンジンとした。
「自分の体を過信しすぎちゃダメだよ。君はまだ怪我人なんだから」
咎めるような口調であるものの、かけられた言葉は優しかった。わたしは黙って頭を下げる。

「病室まで送るよ」
そう言ったあと、時透さんはわたしの顔を見たままピタリと固まった。
「…嫌だったら、ほかの人を呼ぶけど」
「え?」
「僕に付き添われるのが嫌だったら、看護師の誰かを呼んでくるって言ってる」
わたしから目を逸らした時透さんは少し拗ねたような顔だった。どうしてそんなことを言うのだろうと思っていると、「さっきさ、」と彼は続けた。
「胡蝶さんと、僕の話してたでしょ」
「あ、」
「詳しい内容は聞こえなかったけど、君、すごく動揺していたみたいだから」
「………」
どんな話をしていたんだ、と聞かれないだけマシだった。わたしは、いえ、とか、別に、とか曖昧な言葉で誤魔化す。しのぶさんがおかしな話をしたせいで、わたしと時透さんの間に妙な空気が流れてしまったではないか。

「…あの、お願いします」
別に大した話をしていたのではない、という意味も込めて、結局時透さんに付き添いをお願いした。彼はわたしの腕を自分の肩にかけ、控えめに腰に手を回し、病室に向かってゆっくりと歩いてくれる。そしてわたしは、密着する体を意識しないよう、ひたすら無心でいることを心がけた。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + +

「ごめん、本当は聞こえてた」
あと数メートルで病室につくというところで、時透さんがそう言った。
「君と胡蝶さんの話、全部聞こえてた」
わたしは冷や汗が出て彼の顔を見れない。「そうですか」と消え入りそうな声で相槌を打った。
「妙な入れ知恵しないでほしいよ、まったく」
はぁ、と大きなため息をついた時透さん。どうやら怒っているわけではなさそうだ。

「すでに君の唇を奪っている僕が言っても、説得力…ないかもしれないけどさ」
時透さんは変わらず前を見据えたまま話す。
「その……そう言う意味で、君を口説いたわけじゃないよ、僕」
「え、っと……はい」
「だから、安心してって言うのもおかしいかもしれないけど…ただ、僕の君へ気持ちを、一過性の性欲でくくられるの腹が立つからね」
病室に入ったあとも、時透さんは変わらない歩調でわたしを寝台まで誘導してくれる。

「……俺、ちゃんとナマエのことが好きだから」
横になったわたしの首元まで布団をかけながら、彼はそう言った。その言葉があまりに滑らかに時透さんの口から出たものだから、危うく聞き流してしまうところだった。


そうして時透さんは、それ以上のことを語ることなく病室を出て行った。わたしはしばらく呆然としていたけれど、時間が経つにつれて徐々に体が熱くなっていく。時透さんに「好き」と言われたのはこれが初めてではないのに、激しく動揺していた。
彼が本気でわたしに好意を持っているんだと、やっと自覚したからだ。




拍手