16.君の色

たしかに時透さんは、わたしを取って食うつもりはなかったみたいだが、その代わり大変好き勝手にわたしを振り回してくれた。

彼はまず、小ぢんまりとした定食屋にわたしを連れて入る。「お腹空いちゃった」と言って焼き魚定食を注文するので、わたしも慌てて同じものを頼んだ。ちょっと早い夕食、という具合だ。時透さんはお箸を扱うのが上手で、小骨を取りながら綺麗に魚を食べてしまう。しかもお味噌汁もご飯も2杯ほどおかわりをしたので、意外と大食いなんだなと意外な一面を知った気がした。

食事のあとは気まぐれに露店や雑貨屋を見て回り、気に入ったものを勝手にわたしに買い与える。特に驚いたのは、決して安くはない”紅”をわたしに買い与えたことだ。これは”繰り出し式口紅”と言うようで、筒状の持ち手を捻ることで中の紅が姿を現す。紅は橙の色味が含まれた明るい朱色。唇にだけでなく頬に薄く乗せることで、額に血色を持たせる役割も果たす……というのを、店先の美しい女性に説明されたが、わたしには難易度が高いように思えた。

「申し訳ないですけど、こんな高価なもの、使う機会がありませんよ…」
いつも任務と鍛錬に明け暮れる毎日なので、化粧をしてめかし込む習慣がなかった。女性としてこういったものを使ってみたい憧れはあるものの、結局のところ持て余すしかない。
「え?それってもしかして、紅を使う機会を作って欲しいって、僕に頼んでるの?」
驚いたような、とぼけたような顔で尋ねてくるのはわざとだろう。その証拠に、時透さんの目元はやや細められ、笑みを含んだ目つきになっている。そんな彼にわたしが閉口していると「お洒落した君を見せてよ、僕にだけ」と言葉を付け足したので、さらに参ってしまう。

時透さんはずっとこの調子だった。わたしのことを純粋に”女性扱い”し、まさに束の間の逢瀬を楽しむかのようにわたしを町に連れまわす。着物屋に立ち寄ってわたしに似合うものを見つけたり、飴細工を売る店を見つけると、可愛らしい薔薇の花の形に加工された飴を買い与えたりしてくれた。


日がとっぷりと暮れた頃、時透さんはわたしを大きな橋まで連れてきた。満月の映ったゆらめく水面を眺めながら、「あぁ、楽しかった」と独り言ちる。
「付き合ってくれてありがとう。僕たち、次いつ会えるかわからないでしょ。だから、会えるときに思いきり君と遊びたくて」
この場合、わたしはどのような反応を返せばいいのだろう。どういたしまして、とも、ありがとう、とも違う気がして、苦笑いを浮かべるしかない。

散々わたしの恋人のように振る舞っていた時透さんが、本当に”そういう関係”になりたいと願っていることは、なんとなく伝わってきた。つまり今日のことは、恋人の逢瀬という疑似体験をさせられた、という感覚に近いだろう。
だからこそ、わたしはどういう顔をして彼の隣にいればいいのかわからなかった。わたしには彼を拒否することも、受け入れることもできるが、現状ではそのどちらも選択することができない。時透さんがとんでもなく意地悪な人間であることも、同時に正直で真っすぐな性分であることも知っているからだ。

「僕、このあと任務に行かなきゃいけないんだ」
「え、」
「この町から近い場所の調査なんだけどね」
「そうですか、じゃあその…お気をつけて」
「うん、任務の前に君に会えてよかった」

時透さんは橋の欄干に腕を乗せ、その上に自身の顔を乗せて川を眺めていたが、くるりと顔を傾けてわたしの方を見た。
「ね、最後に僕のお願い聞いてくれない?」
「お願い?」
「うん。今日僕が買ってあげた紅、さしてよ」
「えっ?」
思わずわたしが後ずさりしそうになると、彼が勝手にわたしの隊服のポケットに手を忍ばせようとするので、慌ててその手を掴んだ。
「わかりました、わかりましたから…!」
観念してポケットから紅を取り出す。正直、紅はつけたくない。第一、今着用している隊服に化粧は似合わないだろうし、人前で化粧をすることも恥ずかしかった。

わたしは蓋を外し、恐る恐る持ち手の筒を回してみる。明るい色味の滑らかな紅が顔を出した。そこでわたしは大事なことに気づく。
「あの…時透さんって、鏡なんて持ってないですよね?」
時透さんは不思議そうな顔で頷く。途端にわたしの胸に安堵が広がった。
「申し訳ないんですけど、鏡がないと上手く紅をさせないんで…」
そう言いながら、顔を出していた紅を再びしまおうと筒を回しかけたところで、それを時透さんに取り上げられてしまった。

「わかった、じゃあ僕がやってあげる」
時透さんの顔には、好奇心と悪戯心をまるで押し隠せていない表情が浮かんでいた。逃げ出すよりも前に片手で顎を掴まれる。ぼんやりと灯篭があたりを照らしている方にわたしの顎の角度を調整すると、時透さんはわたしの唇にそっと紅の先を合わせた。「ひっ」と情けない声を上げると「動かないで」と言われた。
ゆっくりと紅がわたしの唇を這っていく。唇をしっとりとした膜が覆っていくような不思議な感覚に感動するよりも、時透さんが自分の唇を凝視しているこの状況が恥ずかしすぎて死にそうだった。

「はい、できた」
時透さんが体を引き、まじまじとわたしの顔を眺める。
「うん、かわいい」
微笑みながらそう言った時透さんの顔が、あまりに自然な優しさを帯びているので、一瞬の間を置いてからわたしの顔に熱が集まる。ありがとうございます、と言ったつもりだが、口が上手くまわらなかった。

「あ、でもこのままじゃあ君自身はどんな色をつけてるか、わからないか」
時透さんが残念そうな顔で言う。
「ああ、それなら紅を自分の手につければ色味がわかりますよ」
彼が持っている紅をこちらに渡してもらおうと手を伸ばすと、なぜかその手を包まれるように握られる。そして彼は、空いている方の手でわたしの目元を覆った。

唇に柔らかさが触れ、離れた。

目を覆っていた手が離れ、視界が開ける。時透さんが悪戯っぽい目でわたしのことを覗いている。彼の唇には美しい朱色が彩られていた。
「これが今、ナマエのさしている紅の色。どう?綺麗でしょ」
紅をさした時透さんには違和感がないどころか、色気さえも漂っていた。けれどそれは、わざわざわたしに唇を重ねて紅の色を移す、という大胆な行為によって醸し出された色気もあったのだと思う。

「かわいい、本当にかわいい。…ねぇ、もう一回してもいいかな?」
うっとりとわたしの顔を見つめ、近づいてくる時透さんに、これ以上距離を縮められないようにと片手を突き出す。
「だ、ダメです」
「残念」
しかし言葉の割に、彼は随分としたり顔だ。よく考えたら当たり前のように唇を重ねること自体おかしいのに、紅をさした時透さんに完全に調子を狂わされてしまったわたしは、そんなおかしさに気づくこともできなかった。




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