19.ある夜のこと

炭治郎から想いを告げられた日の夕方、わたしは熱を出した。蝶屋敷の看護師として日夜働くようになってから体調を崩したのは、これが初めてだった。これまで張っていた緊張の糸がプツンと切れてしまった、そんな感じだ。

わたしの体調の異変に気づいたのは、この屋敷で一緒に働くほかの女性隊士だった。
「ナマエ、顔が赤いけど…大丈夫?」
突然顔色を指摘されてわたしはドキリとする。炭治郎とのやり取りのあと、顔に集まった熱を冷ますために外に出たのは随分と前のこと。平静を取り戻したと思ったのに、まだ体に動揺が残っていたのか。そう思って自身の頬に触れると、焼けそうなほど熱かった。
「え?」
驚いて声を漏らすと、その女性隊士がわたしのおでこに素早く掌を当てる。
「大変……!」
彼女がそう声を上げると同時に、わたしの視界がぐらりと揺れた。気づけば、体中が沸騰するほど熱い。脳まで茹っているような気分だった。

+++

そうして気づいたときには寝台に寝かされていた。随分と静かなので、怪我を負ったほかの隊士たちが寝ている病室とは少し離れた場所にあるのかもしれない。
起き上がろうとして腕に力を入れたものの、体がぐにゃりと傾いた。力が入らない。相当な高熱が出ているようだ。そうして、ぐにゃぐにゃの体のまま起き上がろうと奮闘していると、静かに戸が開いた。
「おや」
しのぶさんだった。彼女は少し目を見開くと、駆け寄ってきてわたしの背の下に手を入れる。そうしてしのぶさんに介助されてやっと起き上がることができた。

「気分はどうですか?」
しのぶさんはわたしに体温計をくわえさせながら聞いてくる。
「あついです…」
そう答えると、しのぶさんは黙って頷いた。そして、みるみるうちに目盛りが上昇しているであろう体温計を見つめる彼女の顔は、徐々に険しくなっていく。
「なかなかしぶとい熱ですねぇ」
ものの数秒でその体温計を回収すると、しのぶさんは瓶に入ったとろみのある水薬と匙を取り出す。瓶からは鼻孔をツンとつくような苦い香りがして、生理的に唾液が湧き上がる。

「あ、あの、わたしは流行り病かなにかでしょうか……」
ふらふらとする頭を必死で支えながら尋ねると、しのぶさんはにっこりと笑って首を振った。
「いえ、簡単に言うと…”過労”ですね。頑張らせすぎてしまったようです、すみません」
そう言って頭を下げようとするしのぶさんに、慌てて手を振る。わたしからすれば、柱の役に立てただけでも嬉しいのだから。
「ですから、お薬を飲んで、しっかり食事をしって、たっぷり休んでください」
口調はとても優しいのだが、向けられた匙から発せられる水薬の匂いは優しくない。明らかに”苦い薬”であることがわかる。

「良薬は口に苦し、と言うでしょう?大丈夫、ここに水も用意してありますから。頑張って飲みましょう!」
ニコニコしながら、その匙をさらにわたしの口に近づける。わたしはひとつ唾を飲み込むと、小さく口を開けた。その瞬間、グッと匙が口に差し込まれる。飲み込みやすいようにとの計らいだと思うが、喉の奥の方で匙が傾けられ、水薬が投入された。
「っう!!」
呻き声を上げるや否や、すぐに水を手渡される。一気飲みした。
「一日2回、朝夕この薬を飲んでくださいね」
ニコニコ顔のしのぶさんを、涙の溜まった目の端で捉えた。

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それからわたしは屋敷で療養に専念する日々を送る。相当に免疫力が落ちていたようで、熱はなかなか下がらない。朝は比較的調子がよくても、夕方になると熱が上がってしまったり、その逆もあったり…と、ダラダラと不調が続いた。さらに運悪く、途中から”風邪”も併発してしまったようで、くしゃみや鼻水と言った症状も出始めた。おかげで快調からは遠のく一方だ。

なお、ときどき誰かが見舞いに来ているようなのだが、顔を突き合わせて会話をした記憶はほとんどない。というのも、薬に眠気を誘う成分が入っているからか、わたしは病室にいるとき、うたた寝ばかりしてしまうのだ。だから、さっきまで人がいたような気がした、というところまでは覚えているのだが、一体誰がこの病室にいたのか、その詳細まではわからないのだ。


―――夜中、ふと目を覚ました。
外は真っ暗で、どうやら月が出ているようだ。しばらく外に出ていない。「月が見たい」と思ってしまった。
わたしは慎重に起き上がると、ゆっくりとした動作で寝台から降りる。まだ微かに体に熱がこもっているようで、だるい。でも、そんな微熱状態にももう慣れてしまった。

ひんやりとした床を一歩一歩踏みしめ、縁側のある方に向かう。少し歩くだけでも息が上がってしまう自分に呆れて笑ってしまった。

やっと縁側にたどり着いた。開けたその場所に、ぽっかりと月が浮き出ている。今日は満月だ。
「もっと近くで見たい」そう思って一歩足を踏み出した。しかし、眩しいほどに輝くその月に見とれていたわたしは、足元をしっかりと確認することなく踏み出してしまった。

わたしが踏み出した足は、縁側の淵を滑った。すぐに受け身の仕方を考えたが、肝心の体が言うことを聞かない。ああ、情けない。鬼殺のイチ隊士が、縁側で滑って転ぶだなんて、目も当てられない。固い地面に体が投げ出されることを覚悟しながら、重力に身を任せていると、予想に反した柔い衝撃が体に走る。

「まったく、君って大胆だなぁ」
耳元でクスクス笑いが聞こえた。
「僕はずうっとこのままでもいいけど、どうする?」
腰のあたりが締めつけられ、体は完全に浮いている。わたしを締めつけているそれは…人間だ。夜闇に溶けて一目見ただけではわからなかったが、それは隊服を着た人間。そしてこの声―――聞き間違うはずがない、時透さんだ。どこから現れたのか、彼は縁側から間抜けに落下するわたしを抱きとめてくれたらしいのだ。

「降ろして……ください」
意外にも、時透さんはわたしの言葉をすんなりと聞いてくれて、丁寧に地面に降ろしてくれた。
「病人には優しくしないとね」
そんなことを言うと、彼は縁側に腰かける。そして「君も座れば」と言うので、とりあえずわたしも隣に腰かけた。

聞きたいことはいろいろあった。けれど、なにも聞きたくない気もした。久しぶりに時透さんの顔が見れて嬉しかった。けれど一方で、一秒でも早くこの場から立ち去りたいほど恥ずかしい気持ちもした。
すべてが矛盾だらけだった。しかし、熱っぽい頭ではその一つひとつの矛盾を整理できず、ただただ丸い月を見上げるしかなかった。

「君は全然気づいていなかったようだけど、僕も縁側の脇で月見、してたんだよ。このあと、君のお見舞いにも行こうと思ってた」
時透さんはそこで言葉を切ると、ふふっと小さく笑う。
「そしたら、君の方から来るんだからびっくりしちゃった。来る、というか、降ってきた、というか」
気づけば、彼の手がわたしのおでこに当てられていた。びっくりして時透さんの方を見ると、思った以上に近くに彼の顔があり、その涼し気な瞳と目が合ってしまう。彼は少しだけ眉を寄せる。
「戻ろうか」
「え?」
「冷たい風に当たりすぎると、体に毒だよ」
そう言って彼はわたしの手を取り立ち上がる。そして、そのまま優しくわたしの手を握ったまま病室へと向かった。

+++

また熱が上がってきたらしい。わたしは時透さんに導かれるままに寝台に上がる。首元まで布団をかけられると、静かに彼の顔が近づいてきて……止まった。
「弱ってる子にするの、さすがにズルいよね」
時透さんは苦笑いをして、わたしの前髪を柔らかく撫でた。
「それじゃあ、また来るから。おやすみナマエ」
優しい声のあと、灯りが消された。足音が遠ざかっていく。
本当は、行ってほしくなかった。もう少しそばにいてほしかった。でも、そんなわたしらしくないこと、言えない。頭の中がぐちゃぐちゃで、熱かった。そんな状態のまま、わたしはいつしか眠りについていた。


……
………
朝起きると、見慣れないものが寝台脇の机に置いてあった。それは花瓶に入った何本もの赤いツツジだった。そうか、昨夜時透さんと会ったのは夢じゃなかったんだ。そんなことを思いながら、その立派な花弁に触れる。瑞々しい、美しいツツジだった。自分の体温がじわじわ上昇していたけれど、わたしはそれに気づかないふりをした。




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