20.くしゃみ一つ

「ナマエさんには、今日からこのお薬を飲んでいただきます。以前、飲んでいたものよりも苦くないお薬ですよ。よかったですね」
しのぶさんが持ってきたこの知らせは、わたしにとってかなり嬉しいものだった。これまで飲んでいた水薬は毎回涙が出てしまうほど苦いものだったので、薬の時間が苦痛でたまらなかったのだ。
しのぶさんが小さな匙をわたしの口に向けたので、大人しく口を開ける。そして喉の奥の方でその匙が傾けられる。じわりとした苦みはあったものの、それはすぐに消えた。たしかに、以前の薬より断然飲みやすい。

「この薬を一日3回飲んでください。服用の回数は増えますが、体調は確実によくなっていますから、もう少し頑張りましょう」
「はい、ありがとうございます」
まだ若干の風邪症状が残っていたり、微熱状態の日も多いのだが、最近は”平熱”の日も増えてきた。これだけ体調を崩してしまったのだから、本調子を取り戻すのには相当な時間(特に鍛錬に打ち込む時間)を要しそうだけれど、快方に向かっているのは本当に喜ばしいことだった。
「ほかに、なにか困っていることはありませんか?」
「いえ、特にありません」
「そうですか。ちなみにあなたを困らせるような人なんかも…いらっしゃっていないでしょうか」
「え?」
意味ありげにニコニコと笑うしのぶさんの顔を見つめていると、ある一人の人物の顔が思い浮かんだ。けれど、その人とは満月の日に数分月見をして以来、一度も会っていないのだから、困らせられてなどいない。
「ええ…別に、なにも」
「まあ、それは残念」
しのぶさんが大げさに眉を下げるのを見て、わたしはなんだか恥ずかしくなった。彼女はわたしと時透さんの行く末を見守るのを楽しんでいるようだし、「別に、なにも」と答えたわたしの口調が思いのほか残念そうだったのにも、気づいているようだったからだ。

+++

しのぶさんはこれから任務に行くというので、わたしは再び病室に一人になった。以前、飾られていたたくさんのツツジは枯れてしまったので、花瓶には蝶屋敷の庭にあった別の花が生けられている。その名も知らぬ小さな花を眺めていると、病室の戸が叩かれた。「はい」と答えると、戸を開き炭治郎が入ってくる。
「やぁ、ナマエ。体調はどうだ?少し顔色がよくなったようだけど」
「うん、おかげさまで。あともう一息っていうかんじ、かな」
「それはよかった」
炭治郎は心底ホッとしたような顔で微笑んだ。うたた寝をして話ができないときも多かったけれど、炭治郎は屋敷で治療を終えたあとも、足しげくわたしの見舞いに来てくれていたのだ。

「俺はこれから任務なんだ。伊之助たちとも合流するよ」
「そう、じゃあみんなにもよろしく伝えておいてくれない?わたしも早く一緒に戦いたいからさ」
「わかった、でもそう焦らなくても大丈夫だぞ。それよりも、ナマエはしっかりと治療に専念してくれ」
炭治郎の優しい言葉は嬉しかったけれど、わたしが焦りを感じているのはたしかだった。せっかく炭治郎たちとギリギリ同じ土俵に上がれたのに、このままではまた引き離されてしまう――隊服姿の彼を見ると、否が応でもそんなことを考えてしまうのだ。
「大丈夫だ。ナマエが治療を終えたら、お前の機能回復訓練や鍛錬に、俺はいくらでも付き合うよ。お前なら大丈夫、絶対に戻って来れる」
そう言って炭治郎はわたしの頭に手を伸ばそうとして、その手を静かに引っ込めた。そしてその代わり、少し拗ねような表情を浮かべて、顔を逸らす。

「……それから先週、時透くんと会ったよ。どうやら時透くんは遠方の任務に行くところだったようで…蝶屋敷に戻ることがあったら、ナマエによろしく伝えておいてくれって」
「あ、そう……」
わたしは極めて冷静に相槌を打ったつもりだったが、炭治郎はなぜだかじいっとわたしの顔を見た。それから困ったように眉を下げると、小さく溜息をつく。
「な、なに?突然、溜息なんか…」
「いや、やっぱり俺は時透くんに敵わないんだなぁって」
「え?」
「すごく妬けるけど、俺はナマエを応援するって決めたからな!」
そう言って炭治郎はわたしの手をぎゅうっと握った。なにがなんだか分からないまま、炭治郎のキラキラとしたその目を見つめる。

「こんなことを言ったら嫌がるかもしれないが…時透くんの名前を出すと、ナマエからはくすぐったい匂いがするんだ。つまりどんなに否定したって、俺に隠し立てはできないんだぞ、ナマエ」
もう”それ”を否定する気にはなれなかった。
時透さんと月見をしてから病室に戻ったあとのこと。熱が上昇して頭がふらふらとする中――わたしは彼の存在を求めていた。あのときの気持ちはやはり、嘘ではなかったんだと自覚しているからだ。

「そ、そういうこと、わざわざ言う…?」
「ははっ、未練がましいことをして悪かったよ」
そう言って炭治郎はわたしの手を離した。
「それじゃあ、行ってくる。また見舞いに来るからな」
「うん、炭治郎も無事に任務を終えてね」
彼はニッコリと笑みを見せて病室を出て行った。それを見送ったあと、わたしは無意識に長い溜息をつく。

わたしから”くすぐったい匂い”がする、なんて言う炭治郎はやっぱり意地悪だし、そんなことを告げられてもなお、時透さんに会いたいだなんて思ってしまうわたしは、もはや末期症状としか思えなかった。一体どうしてこんなことに……そんなことを思いながら、わたしは一つくしゃみをして布団にくるまった。




拍手