差異果ての場所

初めて彼を見たとき、”バケモノ”だと思ってしまった。
だってそうでしょう?猪頭を被った人間がそこらを歩き回っているなんて、尋常ではない。ああ、わたしが本を読みふけっている間に、世の中は半狂乱な、常軌を逸した世界になってしまったんだ…そう絶望したものだわ。

でも違った。その猪頭はただの被り物で、その下から出てきたのは正真正銘の真人間。しかも、かなり整った顔立ちの。その差異にびっくりして、じっと彼の顔立ちを見つめると、「俺の顔になんか文句あんのか!」と喧嘩を売られてしまったっけ。

そんな猪頭の彼はとても妙ちきりんな恰好をしていた。(猪頭だけでも随分妙なんだけど…)腰に刀を差し、そして上半身は裸だった。…その引き締まった体に、出会った当初は思わず生娘みたいな反応をしてしまったな。
なぜそんな恰好なのか、一体なにを生業にしているのか尋ねると、彼は「俺はキサツタイの剣士だ!」と言った。しかし、その「キサツタイ」がなんたるものかは、結局わからなかった。鬼を切るとか、なんとか。とにかく、わたしたちのような人間の命を守っているらしい。

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わたしは町で古本屋を営んでいる。もともと祖父が営んでいた店だが、彼が亡くなった後、わたしが店主となって引き継ぐことにしたのだ。わたしがまだ16歳の少女ということを憐れんでか、町の大人たちは暇があれば、本を買いに来てくれる。そのため、なんとか一人で暮らしていけるくらいには日銭を稼げているのであった。

―――猪頭少年と出会ったのは、半年ほど前…わたしがこの店の店主となってまだ間もない頃。紅葉が色づいてきた秋の時分のことだった。
その日のわたしは、あまり質がいいとは言えないお客様の相手をしていた。町の人々が目をかけてくれる反面、わたしのような女が商売をしていることが気に食わず、からかいにきたり、いやらしい話を持ちかける大人もいるのだ。わたしが苦笑いを浮かべながらお客様の話に相槌を打っていると、お客様の背後から突然、猪頭が姿を現したのである。わたしは驚きで声が出せなかったが、お客様の方は「わっ!!」と非常に大きな声を上げた。
「ここはなにを売ってる店だ」
その猪頭はこう喋ったのである。わたしは「古本でございます」と答えた。
「古本か」
猪頭のその人は、太く低音が響く声色で、それがお客様をさらに怯えさせたのは言うまでもない。
「それで、お前はその古本とやらを買うのか」
彼はお客様に向かってそう尋ねた。猪頭越しでも、彼がお客様を睨んでいるのだとわかる。禍々しい雰囲気がお客様を包んだ。
「きょ、今日は持ち合わせがねぇから……また今度なお嬢ちゃん!!」
猪頭の視線に耐えかねたお客様はそう言って店を飛び出してしまった。残ったのは、異様な猪頭を身につけた人間と、わたしだけだ。わたしは彼にお礼の言葉をかけようか迷っていると、彼はその猪頭を外した。現れたのは、女性顔負けの美しい顔立ちをした少年だ。わたしとそう年齢も変わらないだろう。わたしはなんだか嬉しくなって、
「ありがとうございます。よければ、お茶でも飲んでいきませんか?」
と彼に言ったのだった。

それからというもの、この猪頭少年―――「伊之助殿」は、定期的にわたしの店に来ては、店先の長椅子で茶を飲むようになる。伊之助殿が来ると、わたしも店番を一休みして、一緒に茶菓子をつつきながら茶を楽しむ。この時間が、この小さな町で一人生活しているわたしにとって、なによりも楽しい時間だった。

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色とりどりの花が咲き開くこの季節は、動物も、植物も、人間も、温かい陽光に誘われて活気づく。町を行きかう人間も多く、ときには人通りの多さに酔ってしまうこともある。けれど、そんな人波をするり、するりとかき分けて、あの猪頭少年はやってくる。真っすぐにわたしの店へ。

「相変わらず、今にも潰れちまいそうな店だな」
開口一番そう憎まれ口をたたく、伊之助殿。彼の憎まれ口は挨拶みたいなものなので、それを不快に感じたことはない。
「いらっしゃい、今日はお仕事ないの?」
「ないぜ。だからこうして、暇そうなお前のところに来てやった。感謝しろ!」
「はいはい」
わたしはそう言って、彼に淹れたばかりの玄米茶を出す。彼はおもむろに被り物を取ると、それを足元に置き、店先の長椅子に座る。わたしも読みかけの本を膝に置き、彼の隣に座った。

今日の伊之助殿は、妙にそわそわしていた。ずっと左手を後ろに隠しているのも気になる。話しかけるたびに大げさに驚き、「俺様を驚かせるな!」と憤慨するが、それがちょっとだけ面白かった。
「伊之助殿、お茶のおかわりはいかがですか?」
伊之助殿の湯飲みが空になっていたのでそう尋ねる。彼は「頼む」とだけ言って、またそわそわと落ち着きのない様子で、行きかう人の様子に目を向けた。

わたしが新しい茶葉で淹れたお茶を伊之助殿のもとに持っていくと、彼はそれを受け取らなかった。不思議に思いつつ、長椅子の上に湯飲みの乗った盆を置くと、伊之助殿は隠していた左手を前に出した。その手には可愛らしい3輪の花が握られていた。桃色の花弁が可憐な、春らしい花だ。そして、花を差し出す伊之助殿の頬も、この花のように淡く桃色に染められていた。珍しいことに、彼は大変照れているらしいのだ。

「まあ、キレイですね!どうしたんですか?」
「ここに来るとき、たまたま見つけたんだよ。たまたまな!!」
わたしはその可愛らしい花を受け取ると、急いで店内に戻る。生前、祖父が愛用していた花瓶に水を入れ、そこに花を入れてやると、花たちはしゃんと背筋を伸ばしたかのように美しく輝いた。
「伊之助殿、見てください!キレイですよ」
わたしが花瓶を持って戻ると、伊之助殿がちょっとだけ笑った。
「その花瓶、じーちゃんのものか?」
「そうです。色気がないですか?」
「別にいいんじゃねーの」
わたしの心はこの花々のように華やいでいた。誰かに花をもらうことなど初めてだったし、その相手が伊之助殿ということも、わたしの心を浮き立たせた。花の香りを楽しんでいると、伊之助殿が不思議そうな顔でわたしを見つめる。
「お前、そんなに嬉しいのか?」
「ええ、もちろん!こんなに嬉しくなったのは久しぶりです」
「そうか。そんじゃ、また持ってきてやるよ」
伊之助殿が得意そうな顔でそう言ってくれるので、わたしも「ぜひ」と返す。そうして2人で花を愛でながらお茶を飲んでいると、伊之助殿は少し調子を落として、こう言った。

「俺がここに来て、お前は迷惑じゃないか」
「いいえ、まったく」
「俺が、この古本とやらを買わないのに、か」
伊之助殿は字の読み書きができないらしく、ときどきそれを気にしている様子が伺える。
「ええ、そんなのかまいませんよ。それに、伊之助殿のおかげで、変なお客様が寄りつかなくなったので、感謝しているんです」
そんなわたしの言葉を聞くと、伊之助殿はにわかに元気を取り戻した。
「ようし!それじゃあこれからも、伊之助様がお前を守ってやるからな!お前は…ナマエは弱っちそうだからな!」
「はい、お願いします」
「お願いします、って…」
伊之助殿が呆れたような顔でわたしを見る。わたしと伊之助殿の間で3輪の花がふわり、ふわりと風に揺れた。
「お前はこの花みたいな、ふわふわした女だな」
「そうでしょうか?理知的ってよく言われますけどね」
「リチテキ?難しい言葉はわからねぇぜ!」
「伊之助殿はそれでいいんですよ」
わたしたちはきっとまったく違う人間で、だからこそ、強く惹かれ合う。それはお互い無意識に気づいているだろう。

伊之助殿と一緒に温かい春の陽光を浴びながら、わたしと彼を結びつけたこの場所、そして彼が憩いを見出してくれたこの場所を、わたしは今日も愛おしく感じるのだった。


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