カラン、コロン

「……おい」
背後から低く冷たい声が聞こえた。それは明らかに俺に向けられているもので、あまりにも恐ろしい声色で、俺は思わず手に持っていた紙箱を落としてしまった。そして箱からは、薄いセロファンに包まれた丸い菓子のようなものが飛び出した。飴玉だろうか。いや、そんなことより今は、刺さるような殺気を放っているこの声の主の存在を確かめなきゃいけない。いや、怖い。怖いって。戦闘中でもない、丸腰な人間に、こんなに堂々と殺気を向けられる奴がいるの…?!普通じゃないわ!!

俺は震えながら後ろを振り返る。するとそこには、鋭い目、もう今にも俺の頸をはねてしまいそうなほど恐ろしい目でこちらを見ている女の子がいた。そして彼女の首から垂れ下がる白布は彼女の右腕を包み込み、支えている。どうやら腕を骨折しているらしい。蝶屋敷に治療に来ているくらいだから、ここにいる人間は何かしら負傷しているに違いないんだけど。でも、そんな怪我人が台所に現れるってどういうことなの。怪我人は怪我人らしく大人しく寝てなさいよ!
「おい」
怖い顔をした女の子がもう一度俺に声をかけた。怖い。怖すぎる。俺は今にも膝から崩れ落ちそうだった。
「は、はい…」
「なにを勝手に開けている、それはわたしのものだ」
そして彼女は、その散らばった菓子を顎でしゃくった。
「拾え」
その声を聞いて俺は思い出した。この子、俺の同期だ。同期なんだけど、最終戦別以降、一度も会っておらず、だから俺は彼女の存在をすっかり忘れていた。でもなぜ思い出したかって、あのとき一度だけ彼女の声を聞いたのだ。たしかそのときかけられた言葉は「どけ」だったな。
…うん。そうだ。最終戦別を終えて、俺たちは隊服とか必要なものを支給されて、じゃあ解散ってなったとき、この子、俺に「どけ」って言ったんだ。この子の通り道に俺がいたから。あのときも、めちゃくちゃ怖かったんだ。

俺は「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」と念仏のように唱えながら散らばった菓子をかき集める。それを彼女は黙って見下ろしていた。いや、見ないで。ほんとお願いだから。俺泣いちゃうよ、泣いてしまうよ、だってこの子めちゃくちゃ怖いんだもん!!!
「拾いましたごめんなさい…」
俺は菓子をすべて箱に戻し、それを彼女に差し出した。しかし彼女はそれを受け取ってくれず、まだ怒った顔をしている。え?なんで?俺がこのお菓子をこっそり食べようとしたのがそんなに嫌だった?でも俺、一つも食べてないよ?盗み食い未遂だよ?!
「おい」
「はい…」
怖い。その「おい」が怖いよ。次なに言われんの俺。
「た、頼みがある」
「………えっ?」
彼女は相変わらず不機嫌な顔をしていた。だけど怒っているというのとは少し違って、困ったような、恥ずかしがっているような、複雑な音が小さく聞こえた。
「お、俺にできること?」
「うん」
「え、ええと…どうすればいい?」
彼女はちらりと自分の左手に目を走らせた。俺もそちらを見る。彼女の左手の指先には包帯が何重にも巻かれていた。右腕は骨折、左手の指先も負傷している。あ、この子けっこう重傷者じゃん、と思った。
「それ、」
「へっ?!」
彼女が包帯の巻かれた指で、俺が持っている箱の中身を指す。
「開けろ」
「あ、開け…?」
「わたしは、開けられない…から」
この菓子の包みを開けろ、ということか。この飴玉のような菓子を包むセロファンの両端はねじられている。普通なら片手でも開けられそうなものだが、負傷している手ではそれが難しいのかもしれない。
「あ、う、うん…じゃ、これでいい?」
色とりどりのお菓子、どれを開ければいいのか分からず、とりあえず橙色のものを取ってみると、彼女は「どれでもいい」と怒ったように答えた。その言い方にちょっとしょんぼりしたけど、俺は黙って丸っこい橙色のものを包むセロファンをよじる。

………って、え?待って?俺、今この子のためにお菓子の包み開けてるの?ていうか、この子、お菓子食べたくて俺に開けてってお願いしてるんだよね?お願いされたんだよね、俺?ものすごい乱暴な話し方するのに、お菓子開けてって俺に頼んだの?えっ?なんかそれ………すごい可愛くない?

俺は急にドキドキしてきた。「開けろ」と俺に頼んできたこの子が、なんだかいじらしくて、憎めない気がしてきた。セロファンのねじりが解かれ、丸い橙色のものが露わになる。それはやはり飴玉だったようで、かすかに柑橘系の香りがしたから、おそらく蜜柑や甘夏かなにかの味かもしれない。
「はい、どうぞ」
俺はセロファンの上に乗った丸いそれを彼女に差し出す。
「……ありがとう」
彼女は少し気まずそうな顔をしながら、左手を伸ばす。しかし、動きが危なっかしい。彼女の指先は震え、軸が安定しない。口調こそ強いが、骨折までするくらいだから、体は満身創痍のようだ。指先にも、腕にも力が入りづらいのだろう。見ていてハラハラする。彼女の指がやっと丸っこいのに触れたのだが、途端に指が揺れて、俺の手から菓子が転がった。俺は瞬間的にもう片方の手を出し、手をお椀のようにして菓子の落下を防ぐ。
「……う、」
彼女がちょっとだけ悔しそうな声を漏らした。その声を聞いた瞬間、俺の心はふにゃりとして、絶対に笑っちゃいけないのに、笑ったら怒られるのに、でも口から息が漏れるのを抑えられなかった。
「………」
たちまち彼女は不機嫌な顔に戻ってしまった。そして、プイと俺に背を向ける。
「えっ?!あれ?!あっ、これ…」
「いらない」
怒らせてしまった。これを食べたくて、恥を忍んで俺に開けてとお願いしてくれた彼女を、怒らせてしまった。
「ご、ごめんって!ねえ、待って」
俺は慌てて彼女の前に回り込む。うつむいている彼女は、唇をきゅっと結んでいて、そして顔が少しだけ赤かった。俺に笑われたのが恥ずかしかったのかもしれない。そんな彼女の表情を見て、俺は申し訳ない気持ちと、また怒られてしまうかもという恐れの気持ちと、それと少しだけ、彼女を可愛いと思ってしまった。

「違うんだ、君のこと、馬鹿にしたわけじゃなくて…」
「いい、お前が食え」
彼女は少しだけ足を引きずりながら台所を出ようとする。
「ああっ、ごめん、違うんだって、ほんと…!」
俺は思わず彼女の腕を掴んでしまう。しかも負傷している方の、左腕を。
………やってしまった。
「いっ…!!」
「あーーーっ!!ごめん!ごめん!ごめんなさい!!あぁぁ、どうしよ、俺……!」
相当痛かったのか、彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。そして痛みを必死で耐えるかのように、きつく唇を噛んでいる。ああ、そんなことをしたら、唇が切れてしまうじゃないか。どうしよう、どうしよう。俺はもう頭がこんがらがってしまった。そしてふと、自分の手に橙色の丸い菓子が乗っていることを思い出した。
「これ!」
「……」
「はいっ!」
俺はその橙色の玉を指でつまみ、彼女の口元に近づけた。彼女は戸惑ったような顔で、俺と菓子を見比べる。
「お願い!これっ!はいっ!!」
彼女はフイッと顔をそらした。唇はいまだにきつく噛んだままだ。
「あっ、こら、だめっ!切れちゃうでしょうが…!」
俺はなおも彼女の口元に小さな玉を近づける。とにかくその唇から血が流れるようなことがあってはならない。必死だった。
「頼むっ!頼むよぉ…お願いだから…」
俺が懇願するようにそれを彼女の唇に近づけると、彼女は観念したように薄く唇を開いた。

………あれ?

急に冷静になる。一体全体、俺は何をやっているんだ?負傷した女の子の腕をいきなり掴んで泣かせて、そのうえ菓子を食え、食えとしつこく迫り、そして今、俺は彼女の口にその菓子を入れようとしている。女の子の口に、指でつまんだ、菓子を。めちゃくちゃ悪いことをしている気持ちになって、それでいてめちゃくちゃドキドキしていて、俺は頭がジーンと痺れるような感覚を覚えた。

彼女の口に中に、ゆっくりと丸いのが入っていく。そして、それが口内に収まった”コロン”という音と、彼女のやわい唇が俺の指先に触れたのは同時だった。あぁ、やっぱりこれは飴玉だったんだなぁと頭では考えながらも、自分の指先に触れた彼女の柔らかい唇の感触を意識せざるを得なくて、俺は自分の顔に熱が集まっていくのを感じた。
「っいて!」
脛に鋭い痛みを感じ、我に返る。彼女が俺の足を蹴飛ばしたらしい。
「…この、変態野郎」
そう言う彼女の顔もリンゴみたいに赤かった。そして、一度カラン、コロンと飴玉を左右に転がした彼女は、遠慮がちに俺の顔を見上げ、「…ありがとう」とつぶやくと、ちょっとだけ嬉しそうな顔をして台所を出て行った。一人になった俺は、へたりとその場に座り込む。自分の顔が焼石のように熱い。
「うそでしょ、うそでしょ……死ぬほど可愛いんだけど………」
あの子はもうしばらく蝶屋敷にいるだろう。そのあいだに、どうすればもっとお近づきになれるのか、どこにいけばあの子に会えるのか、そんなことばかり考えてしまって、俺はしばらくその場を動けなかった。


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