やさしい愛憎劇(前編)

「……!……!!」
誰かの声がしている……気がする。けれど、わたしは心地のいいまどろみの中にいて、睡眠を邪魔するその声が鬱陶しくて仕方なかった。
「おい、……!……っ!!」
声はどんどん近くなる。うるさいなぁと寝返りを打っても、その声はわたしを追いかけてきて、また正面から誰かの声が放たれる。たまらなくなって両手で耳を塞ぐ。わたしの大事な睡眠を邪魔しないでくれ。そうして、うるさい声から逃れられたと思いきや、先ほどよりもずっと至近距離で声がした。

「おい、起きろミョウジ!早くしないと日が暮れてしまうぞ!」

はっきりと聞こえたその声に、わたしは「うわぁっ?!」と間抜けな声を上げて飛び起きた。が、両手の自由が利かず、ますます混乱する。
「ミョウジ、しっかりしろ!俺だ、煉獄だ!」
やっと焦点の合ってきたわたしの目は眼前の男を捉える。そこにはわたしの両手を掴んでいる煉獄がいた。
「な、なぁんだ、煉獄かあ。…ていうか、なにをやってるのあんた」
「お前が任務中に堂々と昼寝をしているから起こしてやったんだ。寝ながら耳を塞ぐなんて器用な奴だな!」
どうやら、耳を塞ぐわたしの両手を引きはがすため、このような格好になっているらしい。
「あぁ〜…それはごめんなさいねぇ、どうしても睡魔には抗えなくて…」
「ミョウジはいつもそうだな、なぜそれほどに寝不足なのだ?夜更かしでもしているのか」
「ううん、寝ても寝ても寝足りないんだよねぇ…」
煉獄に体を引き上げられ、草むらから起き上がる。わたしの体の形に添って、柔らかい草がなぎ倒されていた。


彼、煉獄杏寿郎はわたしの同期だ。煉獄の方がわたしより一つ年上だが、同時期に入隊し、共に『柱』を目指して剣技を極めてきた。しかし、実際『柱』になったのは煉獄だけ。人格者であり抜きんでた実力を持つ煉獄ならば、その地位が与えられるのは当然の結果だった。
けれどそれ以来、わたしの心はなんだかポッキリ折れてしまったように思える。毎日眠くてたまらなくなったのも、ちょうどこの頃からだ。眠さのせいで任務のやる気も削がれ、強くなりたい、という向上心もいつしかなくなってしまった。

「俺はお前が心配だ」
何度目かのあくびをしながら歩いていると、隣で煉獄がそう言った。
「いつも眠気に耐えているからか、お前はときどき反応が鈍いことがある。もっとも、お前は十二分な実力を兼ね備えている剣士だから、ヘマをすることなどないと思うが…ただ念には念を、だ。戦闘に発展した際は気を引き締めてくれ」
「わかってますよぉ……ふぁ」
返事をしているそばからまたあくびが溢れ出る。煉獄は苦笑いを浮かべながら、そんなわたしを見つめていた。

任務先である目的の地は、ほぼ廃村と言える荒涼としたありさまだった。村中にすえた臭いが充満しており、思わず隊服の袖で鼻を覆う。しかし、そんな異様な雰囲気に呑まれることなく煉獄はズンズンと村の中を進んでいく。
「ミョウジ、」
不意に煉獄がわたしを呼んだ。あくびを噛み殺しながら返事をすると、煉獄の姿がぐにゃりと歪んだ。
「鬼に惑わされるな…!!」
その叫び声の直後、わたしは濃霧に包まれた。まずい、まんまと鬼の術中にハマってしまったようだ。わたしは刀の鍔に手をかけ、ぐるりと周りを見渡す。

やがて、後方からドサリと重々しい音がした。わたしは刀に手をかけたまま、その音のする方へ恐る恐る近づく。赤い炎を象った羽織の先が見えた。さらに近づく。羽織の周りには、どす黒い血が広がっている。震えながらもっと近づく。毛先が赤い、金色の髪が見えた。そこには目を見開き、呼吸を止めた煉獄がいた。彼の胸には短刀が突き刺さっている。

煉獄が、死んでいる…?

いや、そんなわけない。柱である彼が死ぬわけなどないのだ。これは、鬼の鬼血術が見せている虚像に違いない。そう頭ではわかっているのに、体の震えが止まらなかった。

「お前はこの男が憎くて仕方なかったんだろう」
濃霧の中からしゃがれた声がした。すぐさまその声がする方に向かって刀を構える。
「この男はお前が手に入れられないものを持っている。違うか?」
耳障りな笑い声が轟いた。ポタポタと顎から冷や汗が流れ落ちる。
煉獄が死んだ、煉獄が死んだ。
わたしの頭の中はその恐ろしい言葉でいっぱいになり、正常な判断ができないまでに混乱に陥っていた。
「なぁ鬼狩りさんよ、俺と手を組まねぇか?」
不意に耳元で声がして、驚きのあまり刀を振るった。しかしそれは空を切っただけで、馬鹿にしたような鬼の声だけがわたしに降り注いだ。

「俺たちはお前ら鬼狩りが憎い。お前のことも今すぐなぶり殺してやりたい。だが、もしお前が力を貸してくれると言うなら……俺たちはお前のことだけは生かしてやろう」
こんなのはったりだ。鬼は嘘つきだ。耳を貸すな。そう思うのに、わたしの頭は靄がかかったように思考が鈍っていく。
「俺はお前が気に入った、心に鬼を飼っているからだ。お前はこの鬼狩りのことが憎かった、そうだろう?だから俺が、お前の代わりに殺してやった」
わたしが煉獄を憎んでいる?違う、そうじゃない―――そう言いたいのに、わたしの喉は張りつき声を出せない。しかし、声を出せないと言うことは、鬼の言うことを体が受け入れている、そういうことではないかと無意識に首肯しそうになる自分がいた。
「お前だけを生かしてやる代わりに、お前以外の鬼狩りを皆殺しにする。どうだ、悪くないだろう?」
ああ、本当だ。悪くないかもしれない。わたし以外の剣士が死ぬ、それはわたしが鬼殺隊の”頂点”に立つということでもある。いつの間にか、わたしは笑っていた。口の端を吊り上げ、だらしなく。
「そうだ、良い顔だ。じゃあ仕上げだ……」
鬼の声がした方向、すなわち前方の霧が揺れた。その瞬間、わたしは思いきり唇を噛み、その霧に刀身を叩き込んだ。口の中で血の味がした。


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