やさしい愛憎劇(後編)

ギャアアァッと醜い鬼の叫び声が聞こえる。「騙しやがったな、このあばずれ!」とわたしを罵りながら、晴れ渡る霧と共に鬼の体は朽ちて行った。しかし、鬼を倒した清々しい達成感はひとつもない。なぜなら、目の間に絶命した煉獄が横たわっているからだ。
わたしは膝をつき、煉獄に覆いかぶさる。鬼血術じゃなかった。彼は本当に殺されたのだ、わたしの一縷の醜い感情のせいで。目から熱い涙が溢れ、彼の胸の上で嗚咽した。


「よくやったぞ、ミョウジ」
その声がしたときは、それがわたしの作り出した煉獄の声―――つまり幻聴が聞こえたのだと思った。しかし、声と共に彼の胸が大きく動いたため、そこで初めて煉獄が”生きている”のだと理解した。
「れ、れん…煉獄、」
「心配をかけてすまない。どうにか心臓を避けるようにして攻撃を受けられたものの、それなりに出血はするものだな。…う、ぐっ」
煉獄は体を起こし、胸に刺さった短刀を引き抜いた。わたしは慌ててその傷口に手ぬぐいをあてがう。この出血量で死なないなんて、それはそれで異常だが、すんでのところで急所を回避した煉獄の身のこなしはさすがだと言える。

「俺が死んだと思って泣いてくれていたのか、ミョウジ」
煉獄の大きな手がわたしの頬に添えられる。彼の親指が優しく涙を拭った。
「………だって、わたしのせいだから。それで煉獄に、こんな怪我を…」
「お前は俺が憎いか?」
穏やかな微笑みを浮かべながら煉獄が尋ねる。彼は鬼の言葉をすっかり聞いていたのだ。わたしはその問いを否定することができなかった。
わたしではなく煉獄が『柱』になった。そして彼の周りには彼を慕う人間が集まった。炎柱・煉獄の強さ・人柄は多くの人間を魅了し、誰からも信頼される存在となった。煉獄は誰よりも『柱』に相応しい人間だった。すべてがわたしとは正反対。どんなに追いつきたくても、煉獄には追いつけない。絶対に肩を並べることのできない存在。
―――それがわたしを苦しめていたことは紛れもない事実だった。

「……そうか」
黙って肩を震わせるわたしを見て、煉獄はすべてを察したように、頬に添えた手を引いた。きっと今日で最後だ。わたしたと煉獄の間に築かれた友情や信頼関係、それらは今日で崩壊するだろう。
「ミョウジ、俺はお前を見放さない。たとえお前が俺のことを憎んでいたとしても」
煉獄が胸に当てていた手ぬぐいを取る。全集中の呼吸で傷口を塞いだらしく、もう出血はしていなかった。
「しかし、これだけは聞いてほしい。俺がどうして柱にまで上り詰めたのか、その理由を」
両肩に優しく手を置かれる。煉獄の手にはぬくもりがあり、心まで冷え切ったわたしの体を温めてくれるかのようだった。

「俺は強くなる必要があった。それは、幼いときから母に”強き者が弱き者を助けるように”と教えられてきたこともある。だが、俺が強さを求める本当の理由はもっとほかにあった。
それは、ミョウジ。お前を守るためだ」
口元に弧を描くように微笑みをたたえる煉獄。ああ、彼はわたしを憐れんでいるのだ。もがき苦しむ弱き者に、憐憫の眼差しを送っているのだ。
「……わたしが弱いということか」
「違う、そうではない。このような言い方をお前は嫌うかもしれないが、お前は柱に匹敵するほどの実力がある。だからお前は強い、この俺が保証する」
「だったらわたしを守るための強さなど必要ないだろう!」
わたしの肩を掴む煉獄の手に、微かに力が入った。一瞬の沈黙のあと、彼はゆっくりと口を開く。
「いや、俺には強さが必要だった。なぜなら、俺はお前を……ミョウジを愛している。だから、男としてお前を守れる強さがほしかった」
そしてわたしは煉獄の胸に引き寄せられた。ドクンドクンと彼の鼓動を感じる。その鼓動に呼応するように、わたしの心臓も速度を上げていった。


「…い、いや、煉獄、それはどういう…」
「まだわからないか?俺はミョウジを愛している。それは仲間として、だけではない。一人の女性として、お前に恋情と愛情を抱いているんだ」
煉獄がわたしの肩に顔を埋める。柔らかい彼の髪がわたしの首筋を撫で、驚いて声を上げそうになる。
「愛する女性を守りたいと思うのは、男として当然のことだろう。だから俺は、ミョウジを守れるほどの強さを手に入れるため、死に物狂いで柱になったのだ」
思考が追いついていなかった。わたしが憎しみを抱いていた相手が、実はわたしに愛情を抱いていたなんて。我々がこんなにもちぐはぐな関係性だったということを、誰が想像しただろうか。

「しかし、そうして手に入れた自分の強さが、結果的にミョウジを苦しめていたのだな。なんとも皮肉なことよ」
煉獄が顔を上げ、わたしを見つめる。眉を下げ、申し訳なさそうに微笑むその表情に、わたしは胸が締めつけられるようだった。この戦いで、わたしは煉獄をひどく傷つけた。彼の努力や感情を否定するようなことをした。それなのに、彼は愛しさのこもった眼差しをわたしに注ぎ続けてくれる。こんなこと初めてで、わたしは芯から困り果て、しかし体にはじんわりと広がるような温かさを覚えていた。

「ごめん……ごめんなさい」
驚いたような煉獄の顔が、目を覆う涙で歪んでいく。
「ごめんなさい、煉獄……ごめんなさい、ごめん……」
「お前は悪くない、泣く必要もない」
再び彼がわたしを胸に引き寄せる。そのまま眠ってしまいたくなるくらい、心地のいい体温がそこにあった。
「俺の一方的な想いがことをややこしくしただけだ。謝らないでくれ、ミョウジ」
煉獄が優しくわたしの背中を撫でる。こんなに強く、優しい人に愛されている自分が、とても贅沢な人間に思えた。
「俺はお前のすべてが愛おしい、そのすべてを守りたい。だから今の俺がいる」
その言葉に黙って頷くと、彼の手がわたしの頭を撫でた。

煉獄の腕の中は本当に温かくて気持ちがよかった。陽だまりの中にいるようだ。そう思っていると、急に激しい眠気に襲われた。瞼が重くなる。体がぽかぽかとしてきて、呼吸が深くなる。幸せな気分だった。このまま眠れたらもっと幸せなんろうなと、思考の鈍る頭の中で考えていた。そして「よもや……!」という煉獄の言葉を耳にしたのを最後に、わたしは彼の腕の中で意識を手放した。

起きたら、もう一度煉獄に謝ろう。それから、ありがとうと言おう。彼の混じり気のない愛情が、わたしの頑なな憎しみを溶かしてくれたことに、お礼を言うのだ。
そして、これからは彼と共に歩いて行こう。憎しみを愛情に変えよう。わたしも、彼に愛情を与えられる人間になろう。そうだ、それがいい。こんな愛憎劇、終わりにするのだ。
―――どこまでも続くような多幸感のある夢の中で、そんなことを考えていた。


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