唯一あなたに求めるもの

村の男たちに襲われ、身ぐるみはがされ、命さえも奪われそうになっているところを杏寿郎に救われた。彼は上背があり大変迫力のある見た目で、常人らしからぬ腕力と身体能力を持っていた。

仔犬らと戯れるかのように、いとも簡単に男どもをねじ伏せた杏寿郎は、二言三言なにがしかの文句をつぶやき、彼らを追い返してしまった。どんなことをつぶやいたのか、わたしの耳には届かなかったが、顔を真っ青にした男たちを見るに、よほど恐ろしいことを言いつけたのだろう。

杏寿郎は裸も同然だったわたしに、優しく羽織をかけてくれた。それから彼はわたしを自分の屋敷に連れ帰った。大切な宝物を持ち帰るみたいに。このときわたしの齢は15、杏寿郎は20だった。

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―――あれから3年、わたしは現在も杏寿郎の屋敷に住み続けている。
出て行けと言われればいつでも出て行くつもりだったし、夜伽を求められればもちろん体を差し出すつもりだった。けれど、杏寿郎はなにもわたしに求めなかった。ただそこにわたしがいることを喜び、わたしが健やかに暮らすことを真っすぐに願ってくれていた。


「ナマエ、こんなところにいたのか」
わたしが縁側で煙管を吸っていると、杏寿郎が口元に笑みをたたえながら近寄ってきた。そして隣に座ると、柔らかい日差しに目を細める。
「どうした。そろそろ働けと、どやしつける気になったか?それとも、いい加減わたしを抱く気になったのか?」
そのように嫌味を言っても、杏寿郎からするとどこ吹く風、だ。それどころか「俺が君にそんなことを思うわけがない!」と朗らかに笑うだけである。

15のあのとき、杏寿郎に救われなかったら…わたしは死んでいたかもしれない。生きていたとしても、男たちに弄ばれ、痛めつけられる人生だっただろう。だから、命を救ってくれた杏寿郎には感謝している。しかし、あれからわたしは人間を信じられなくなった。特に”男”の人間を。

「嘘をつくな。一日中、暇そうに屋敷で転がるわたしに、あなたも飽き飽きしているでしょう」
「飽きるわけがない。君が屋敷にいてくれるだけで、俺は幸せだ」
「………」
わたしは苛立ちを感じながら、煙管を軽く叩いて庭先に灰を捨てる。すると、それを見ていた杏寿郎が「あ」と声を上げた。

「君にいいものをあげよう」
「…結構だ、わたしは杏寿郎にものをもらいすぎている」
そんなわたしの言葉になど耳を貸さない杏寿郎は、懐から透明の袋を取り出した。中には、金色に輝く平たいものがいくつも入っている。わたしは不審に思いながらも、手元の煙管に再び煙草の葉を詰めようとする。しかし「ナマエ」と名前を呼ばれ、一瞬気が逸れたすきに、その煙管は杏寿郎に取り上げられていた。

「君はこれを舐めるといい」
そう言って杏寿郎はわたしの口に、袋に入っていたその黄金のものを入れた。抗議の声をあげようと薄く開いた唇に差し入れられたそれは、舌の上で優しい甘さを放った。わたしの顔に驚きが広がるのを見届けてから、彼自身もそれを口に含む。
「うむ、ウマい!」
「……なんだ、これは」
「これはべっこう飴というものだ。煙管を楽しむ趣味を否定するつもりはないが、君はそれを吸っている時間が長いだろう。たまには休憩してほしい。そう思ってこの飴を買ってきたのだ」
そして杏寿郎はその”べっこう飴”とやらが入った袋をわたしに握らせる。
「それじゃあ俺はこれから任務に行ってくる。寝る前は、戸締りと藤の香を焚くことを忘れずにな」
「わかっている、子どもじゃない…」
「すまない、ついいつもの癖で」
そうして杏寿郎は大きな手をわたしの頭に置く。任務に行く前、彼は必ずこうしてわたしに触れた。杏寿郎の手からは、いつも溢れそうなほどの愛情を感じた。

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5日後、杏寿郎が任務から帰ってきた。縁側でわたしの姿を見つけると、たちまち嬉しそうな笑みを見せる。
「ただいま、俺の留守中に変わりはなかったか」
「ああ、いつも通りだ」
「そうか、それならよかった」
わたしはさり気なく着物の裾で傍らの袋を隠す。しかし目ざとい杏寿郎はすぐにそれを見つける。
「町で飴を買ってきたのか」
「……悪いか」
「いいや、悪くはない!ただその飴は、先日俺がナマエにあげたものと異なる気がするのだが…」
「…あっ」
わたしが隠していた飴の袋をひょいと取り上げ、しげしげと眺める杏寿郎。それから、中のものを一粒自分の口に放り入れた。
「うむ!これもウマいな、桃味だろうか」
「………」
杏寿郎は飴をコロコロと口内で転がしながらわたしを見つめている。その視線から逃れたくてわたしは立ち上がり、自室に戻ろうとした。

「待て」
「なんだ」
「ちょっと話がしたい、座ってくれないか」
それは穏やかでありつつも、有無を言わせぬ口調で、わたしは渋々縁側に座り直す。
「煙管は吸わないのか」
「…もう吸っていない」
「そうか、それはよかった。俺は君の体が少し心配だったからな」
そして杏寿郎はわたしの頭に手を乗せる。任務に行く前以外にわたしに触れてくるのは珍しかった。


「ナマエ、俺は君が屋敷にいてくれていることに感謝している」
「わたしは感謝されるようなことをしていない」
「いや、俺は君がいるだけで…」
「それはおかしい!」
気づけば杏寿郎の手を振り払っていた。ずっと心の中でくすぶっていたことが突然噴き出したようだ。
「なぜわたしになにも求めない?なぜ無償の愛を与え続ける?おかしい、杏寿郎はおかしい!出会ってからずっとそうだ…。そういうお前の優しさが、わたしを苦しめる!」
杏寿郎は身じろぎもせず、わたしの言葉を聞いていた。それから静かにわたしの名前を呼んだ。

「俺は君に求めてもいいのか…?」
「当たり前だろう、むしろ、なぜわたしみたいな穀潰しに…」
「ナマエ、やめるんだ。君がそれ以上、自分を卑下するようなことを言うなら、俺は本気で怒るぞ」
「でも………」
杏寿郎は太陽のような優しい眼差しをわたしに注ぎ続ける。やっぱりわからない。この男は、なぜこれほどにもわたしを庇護し、わたしの存在を肯定し続けるのだろう。

「そうか、俺は君に求めてもいいのか」
「…そうだと何度言ったらわかるんだ」
「うむ、ならば…ひとつだけ君に頼みたいことがある」
わたしは杏寿郎を見上げる。これ以上ないほど愛おしそうな目でわたしを見つめている彼に、また憎まれ口を叩きそうになる。

「俺の妻になってほしい」
「………は?」
「俺と夫婦になってほしいんだ、ナマエ」
「杏寿郎!この期に及んで、つまらない冗談を……!」
「俺はふざけてなどいない」
横っ面をはたこうとして振り上げた手を、彼に取られてしまう。わたしは激しく動揺していたが、逆に杏寿郎は驚くほど落ち着いていた。

「な、なぜわたしなんだ!杏寿郎になら、身分相応の女が…!」
「3年にもわたって俺がナマエに抱いていた恋情を否定するのか?」
「さ、3年……」
「ああ、そうだ。俺は出会ったあのときからずっと、君のことが好きだ。この想いが揺らいだことは一度もない」
杏寿郎の真っすぐな想いに返す言葉なく、わたしは俯いてしまう。

わたしは自分に自信が持てなかった。杏寿郎がそばにいるのも、”憐み”からだと思っていた。たくさんのものを持っている杏寿郎と、なにも持っていない自分とで、釣り合うわけがない。ずっとずっとそう思ってきた。
「君は自分がなにもできないと言う。けれど、俺はナマエがいることで、幸福になれる。君は俺を幸せにしている」
「そ、それは、おかしな話だ!…そんなもの、結局は杏寿郎のさじ加減だろう」
「その通りだ。つまるところ、恋とはそういうものなんだよ、ナマエ」
そう言って杏寿郎はわたしを自分の胸に引き寄せた。彼と出会い、3年という月日が流れ、初めて体が触れ合う瞬間だった。


「君が好きだ」
わたしを抱きしめながら杏寿郎が言った。彼の吐息がわたしの耳をくすぐり、身体をよじってしまう。すると、追い打ちをかけるように、彼がわたしの耳たぶに唇をつけた。あまりのくすぐったさに笑い声が出る。

杏寿郎が腕の力を緩め、わたしと目線を合わせるように顔を寄せた。優しい顔だった。心臓が跳ね上がるように大きく鼓動している。
「俺の妻になってくれないか、ナマエ」
杏寿郎は大切そうに、言い聞かせるようにそう言った。凍りついた心をすべて溶かしてくれるようなその言葉に、わたしはゆっくりと頷く。杏寿郎の顔に柔らかい笑顔が広がった。わたしはこの男と出会えて心から幸せだと感じた。


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