策士の術中

「おいこら、こんなとこでなにやってんの、お前」
その声のあと、右頬に鈍く痛みを感じる。まだ眠いんだけどなぁ。そう思いながらうっすら瞼を持ち上げると、ムスッとした表情の善逸さんがわたしを見下ろしていた。
「い、痛い……」
「もっと痛くしてやろーか」
善逸さんがわたしの頬をさらに強くつねる。寝起きの後輩隊士の頬をつねるとは何事だ、とわたしは起き上がった。
「こんなところで昼寝とは、いいご身分だな。俺は地獄の稽古に参加してきたっていうのに」
「いや、違いますよ、これはただの休憩です。ほら、この木。木陰で休憩するのにちょうどいいでしょう。だから、これはサボりや昼寝とかの類ではないです」
「言い訳すんな!ほら戻るぞ」
善逸さんはグズグズするわたしを無理矢理立たせると、軽く頭をはたいた。

「ああっ。善逸さん、女に優しいと自称しながら、わたしのことは殴るんですね」
「な、殴ってないだろ!」
「まったく、ひどい人だなあ」
そう言ってからかっていると、善逸さんは突然わたしの両頬をつねった。
「いっ、いひゃい、いひゃい…!」
「お前って本当、生意気なやつ!俺がいつかお前を、その…びっくりさせても、知らないからな!」
「へぇっ?」
どういうことなんだろう。よくわからないが、善逸さんは今日もプリプリしていた。

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わたしは雷の呼吸を使う素質があるとのことで、半年ほど前から善逸さんと共に鍛錬や稽古を行なっている。稽古場のある屋敷にお邪魔し、任務のとき以外は日夜稽古にあけくれていた。そして教育係である善逸さんは、そんなわたしの面倒を熱心に見てくれた。
技を会得したい、呼吸を使いこなしたいという強い想いはあるのだが、わたしの成長は遅い。技は未完成だし、善逸さんと比べて速さも劣った。そうして行き詰まってしまうと、わたしは無意識のうちにその場から”逃亡”する癖があった。そして、そんなわたしを毎回善逸さんが連れ戻しに来る―――それが、この半年間の一連の流れなのである。

こんなことを言っても信じてもらえないかもしれないが、わたしは”逃げたくて逃げている”わけではない。自分の力に限界を感じたとき、わたしの意識はどこかに行ってしまうらしく、そのあとは体が赴くままだ。つまり、わたしにとって逃げることは、完全に不可抗力だった。


「打ってこい」
稽古場に着くと、善逸さんがわたしに木刀を放り投げる。いつになく、ピリピリとした雰囲気で、少しも笑みを見せない。わたしは無意識にまた逃げたくなる。
「俺から一本取れば夕食だ。…でも取れなければ、お前は今日、メシ抜き」
「ええぇ…そんなぁ…」
「本気出せって言ってんの」
善逸さんが木刀を構えるので、わたしも渋々前傾姿勢で木刀を構える。彼から一本取るとしたら、型を使って一気に攻めるしかない。木刀を日輪刀に見立て、鍔に手をかけるイメージをする。目をつぶって歯を食いしばり、息を吐く。口からシイィィィと息が漏れ、自分の集中力を極限まで高めていく。

善逸さんが重心を移す、微かな気配がした。その瞬間、わたしは足に込めていた力を開放し、大きく前に踏み出す。
「……壱ノ型 霹靂一閃!」

木刀を握る手に重たい感覚を覚えた。違う、これは手ごたえじゃない。ハッと視線を上げると、わたしの攻撃を完璧に防いだ善逸さんと目が合った。
「甘いよ、お前は」
そう言って、善逸さんはそのまま思いきり木刀を振るった。あまりの強さに、もともと木刀を構えていた位置まで跳ね飛ばされる。
「どうした?このままだとお前、メシ抜きだぞ。かかってこいよ」
逃げたい。でも今日は逃げていけない、そんなことを本能的に感じていた。

それから日没を迎えるまで、わたしは何十回、何百回と善逸さんに木刀を打ち込んだ。しかし、結局わたしが善逸さんから一本取れることはなかった。手のマメが潰れて木刀を握れない、足が震えて立つのもやっと―――そんな状態になって、やっとわたしたちの稽古は終わった。


「ほら、メシ食いにいくよ。立てる?」
結局一本は取れなかったけれど、夕食は食べさせてくれるらしい。善逸さんが手を差し出してくれるが、わたしは首を振る。
「先に行っててください。わたし、少し休んでから行きます」
善逸さんはなにか言いたげだったが、「あ、そう。じゃあなるべく早く来なよ」と言って、稽古場を出て行った。

一人きりになった薄暗い稽古場で、わたしは仰向けになる。こんなに本気で稽古に打ち込んだのは久しぶりだった。やっぱり善逸さんの力にはまだまだ及ばない。あぁ、悔しいな。…そんなことを考えているうちに、いつしかわたしは眠ってしまっていた。

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「あ、起きた」
声がした方を見ると、寝間着を身につけ、胡坐をかいた善逸さんがいた。彼の手元には花札があり、畳のうえにもいたずらに札が並べられていた。
「なに、してるんですか」
「花札、一人でやってた。…それよりも、言うことあるんじゃない?」
わたしは体を起こし、ぐるりと周囲を見渡す。どうやらここは善逸さんが寝泊まりしている部屋らしい。わたしは布団に寝かされており、近くにはお盆に乗せられた3つの大きなおにぎりとお茶があった。

「えぇと、わたし寝てたんでしょうか」
「そう。いつまでたっても戻って来ないから、見に行ったら稽古場のど真ん中で爆睡。俺がここまで運んで、寝間着に着替えさせて、布団で寝かせてやったんだから」
「は?着替え?」
善逸さんは表情を変えず「そうだよ、だって稽古着のままじゃ汗が冷えるだろ」と言う。たしかに、わたしは清潔な寝間着に着替えさせられていた。
「で、お前が起きたときに食べれるよう、おにぎりまで作ってもらったわけ、屋敷のばあさんに」
善逸さんがずいと、わたしに顔を寄せる。
「これでも俺に、言うことないわけ?」
「え…?善逸さん、わたしの裸見たんですよね。助平では……?」
すると、ぎゅうと両頬をつねられた。
「お前馬鹿なの!?俺がお前のこと丸裸にするわけないだろ!着替えは屋敷のばあさんにお願いしたの、わかるでしょ!!」
ったく!と言って善逸さんは散らばった花札を片付ける。わたしも布団から出ると、おにぎりの乗った盆を手にして立ち上がった。

「あの、いろいろありがとうございました。じゃ、わたしはこれで」
「どこ行くんだよ」
「え?自分の部屋ですけど」
「それ、ここで食べればいいじゃん、ていうか食べなさい」
「…はあ」
わたしはおにぎりが食べられればなんでもよかったので、言われた通り、そのまま善逸さんの部屋でそれを食べた。
「あの、食べ終わったんで戻っていいですか」
「ダメ」
「まだなにか?」
「ナマエ」
「え?はい」
「俺はな、今日という今日はお前にお灸をすえなきゃならん」
言うが否や、善逸さんはわたしの顎を乱暴に掴んだ。

「ナマエ、なんで俺がここまでお前の面倒を見てるかわかる?」
「さぁ?鬼殺隊内での立場のためですか?」
「…まぁ、それもあるけど。でも、それだけじゃない」
善逸さんはふてくされたような顔でわたしに顔を近づける。
「あのな、お前が可愛いから、だよ」
「冗談ですか?」
わたしが笑うと、善逸さんは真顔になった。
「あのねぇ、俺は女の子に嘘をついたことはないの」
「へぇ。じゃあ、わたしは善逸さん好みの顔でよかったですね」
なにか突っ込みを入れてくれるのかと思えば、善逸さんは大きなため息をついた。
「男が女の子に”可愛い”っていうとき、それがどういう意味なのかわかってる?」
「機嫌をとりたいから、でしょうか」
「お前って本当、鈍い奴」
「わっ」
突然善逸さんの顔が近くなり、わたしは思わず目をつむる。唇にほど近い場所に、ぬるりとした温かい感触が走った。

「随分と可愛らしいものをつけてましたよ、オジョーサン」
そう言ってぺろりと見せた善逸さんの舌先には、”ごはんつぶ”が乗っていた。先ほどわたしがおにぎりを食べたとき、口元についてしまったのだろう。一瞬でも”口付けされてしまう”と勘違いした自分が、恥ずかしくてたまらなかった。
「こんなことしても、俺がただナマエの機嫌をとりたいから可愛いって言うんだと思う?」
「や、やだなあ。まさか、日ごろの腹いせですか、善逸さ……」
言い終える前に善逸さんぐっとわたしに顔を近づけ、「今度は唇にするよ…?」と言った。

「顔赤いなぁ、こっち見てよ」
「やめてください、ごめんなさい、許してください」
「やだよ、だって可愛いんだもん」
善逸さんはニヤニヤしながら、わたしの顔を覗こうとする。
「もし、ナマエがまた今日みたいに逃げ出したら、俺は容赦なくお前の唇を奪うよ」
「そんなことして、いいと思ってるんですか…」
「当然。だって今まで俺の気持ちに気づかなかった、ナマエが悪い」
そして、善逸さんは「それとも」と続ける。
「今のうちに、慣れといたほうがいい?」
彼の指がわたしの唇に触れた。笑顔のようだけど、目は全然笑っていなくて、この人本気なんだと思った。
「アシタモ、ケイコ、ガンバリマス」
「ん、それでよろしい」
善逸さんはにっこり笑ってわたしの頭を撫でる。

今目の前にいるのは、これまでみたいに軽口を叩けるような善逸さんではない。ああ、どうして気づかなかったのだろう。哀れなわたしは、本気を出した善逸さんの術中にまんまとハマってしまったのだった。


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