隣の救世主

※現パロ


はじめは気のせいだと思った。別の誰かに話しかけているんだと思って無視をした。けれど、”ソレ”は次の日も、また次の日も続いた。わたしの耳元で、男のねっとりとした低い声がこう言う。

「俺の足を思いきり踏め」

―――と。

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今日もわたしは満員電車に乗って学校に行く。家から近い地元の中学に行く友人が多い中、わざわざキメツ学園に通うことにしたのは、ユニークな授業様式や校風に惹かれたからだ。最初は慣れなかった電車通学も今ではどうってことない。満員電車とはいえ最寄りの駅に着くまでの時間は20〜30分なので、少し我慢すればあっという間に学校に着いた。

しかし、わたしは最近この電車通学が日に日に苦痛になっている。理由は簡単、『変質者』につきまとわれているからだ。

その変質者と初めて出会ったのはちょうど2週間前のこと。いつものように満員電車に乗り込み、スマホで友人とメッセージのやり取りなどをしていると、急に首元に熱い息を感じた。くすぐったくてちょっと嫌だったけれど、すし詰めの車内だから仕方ない。気にせずスマホの画面を眺めていると、耳元でぼそりと声がした。
「お前、俺の足を踏め」
………聞き間違いかと思った。もしくは、他の人に話しかけているのかと思った。だから特に反応を示さずにいると、もう一度耳元で声がした。
「おい、俺の足を踏め」
そしてわたしの革靴にコツンと見知らぬ誰かの足が当たった。びっくりして足元を見ると、そこには薄汚いスニーカーがぴったりわたしの革靴に張りついている。
「踏め、踏め、踏め……」
男は何度もわたしの耳元でつぶやく。言葉の間にはぁはぁと荒い息遣いが挟まれ、わたしは総毛立った。

そのとき、運よく電車が停車駅に着いた。そこは学校の最寄り駅ではなかったけれど、わたしは電車を飛び出し、すぐ隣の車両に移る。心臓が痛いほどドクドクとしていた。

それからというもの、あの変質者は必ずわたしの背後に現れ「足を踏め」と命令するようになる。最初は車両を移るなどして変質者の手を逃れていたものの、日を追うごとに大胆になっていく変質者は、わたしが車両を移るとその後を追うようになり、また乗り込む車両を毎日ズラしても彼は必ずわたしを見つけるようになった。

ただ耳元で命令されるだけで、無視さえすれば実害がないのではないか―――はじめはそう思っていたが、相手はそんな生温い人物ではない。わたしが命令を聞かずにいると、この変質者は焦れて、わたしの体に触れはじめる。嫌がらせという名の痴漢行為だ。わたしの背中や腰、お尻、太腿といった場所を撫でまわす。なんとしてでもわたしを従わせ、自分の足を踏ませようとするのだ。

この痴漢行為に発展してしまうと、わたしは諦めて彼の命令を聞く。震えながら、そうっと彼の足を踏みつけるのだ。こんなことしたくない、恐怖と羞恥心で倒れそうになる。けれど、見知らぬ誰かに体を撫でまわされる恐怖に溺れるより、この変態の足を踏むことの方がまだましだったのだ。

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「ミョウジさん、痩せた?」
ある日、隣の席の時透くんにそう言われた。彼は無口な少年で、双子の兄以外の人間と喋っているところをあまり見たことがない。そんな時透くんに突然話しかけられ、わたしは驚きのあまりすぐに反応を返すことができなかった。
「なんか、日に日にやつれている感じがするんだけど」
それは間違いなく、あの変質者のせいだ。この日の朝も、やはりわたしは彼の足を踏んできた。しかも今日は「もっと強く踏め、もっとだ、もっと!!」と興奮した様子で要求してくるので、あまりの気持ち悪さにほとんど泣きそうだった。

そんな変質者のことを、クラスメイトの時透くんに話してもどうにもならない。それはわかっていたのだけど、そのときのわたしはよほど気分が落ち込んでいたのだろう。ついあの変態のことを洗いざらい喋ってしまったのだ。

「ふぅん」
時透くんはガラス玉のような綺麗な瞳で空を見つめながら、なにかを思案するように黙り込んだ。余計なことを言ってしまったと思った。こんなつまらない話するんじゃなかった。この話は忘れてください、彼にそう言おうとしたとき、時透くんはこちらを見た。
「ねぇ、ミョウジさんって何時着の電車に乗ってるの?」
「えっ?たしか、8時10分に着く電車だったと思うけど…」
「わかった。じゃあ明日は一番後ろの車両に乗って」
よろしくね、と時透くんが優しく微笑んだ。初めて彼が笑う表情を見て、わたしは少しだけドキッとした。


翌日、わたしは彼に言われた通り、一番後ろの車両に乗り込む。乗車後は人波に揉まれ、車両の真ん中あたりに押し流された。今日はスマホを見る余裕がないな、と思いながら車内の中吊り広告を眺めていると、案の定後ろから荒い息遣いが聞こえてくる。その気持ち悪い息遣いを耳にしただけで、わたしは形容しがたい嫌悪感を覚えた。
「さぁ、今日も踏め。俺の足を、俺の…俺の……」
今日の変質者はいつにも増して興奮しているようだった。昨日少し強めに足を踏んだのが気に入ったのかもしれない。しかし、足を踏んだときに耳元で上げる彼の喜悦の声を聞くのがなによりも嫌なわたしは、この命令を無視したくてたまらなかった。けれど、彼に従わないと触られる。わたしは震えながら、自分の革靴にピタリと張りつく男の存在を意識していた。
―――そのときだった。

「………っぐ!」
背後の変態が、喉にモノを詰まらせたかのような奇妙な声を上げた。相変わらず息を荒げているが、これまでの興奮しているような息遣いとは少し異なる。不思議に思いつつも体を動かさずにいると、また「うっ………んぐ」となにかに耐え忍ぶような声が続いた。
「ど、どう…した?今日は、えらく…力が、強い…じゃないか……」
苦しそうに言葉を吐き出す彼に違和感を覚える。わたしは一切足を踏んでいないのに、わたしが踏んでいるかのような口ぶりだからだ。
「こんなの序の口、僕はまだまだ君を満足させてあげられるよ」
不意に横から聞き覚えのある声がした。右を向くと、振り返るようにこちらを見ている時透くんがいた。後ろ姿でわからなかったが(髪が長いので、正直女の子かと思っていた…)、彼はずっとわたしのそばにいたらしい。

耳元で「ヒッ」と変質者が息を呑む。足元を見ると、革靴を履いた男の子の踵がグリグリと汚いスニーカーを踏みつけていた。時透くんだ。時透くんがわたしの代わりに変質者の足を思いきり踏んでいるらしい。
「…う、うぅ……やめ、……ごめん、ごめんなさい…っ」
やがて変質者の泣きそうな声が聞こえてくる。すると時透くんは、
「なにを言ってるの?彼女が受けた苦痛はこんなもんじゃないんだけど」
とクスリと笑った。こんなに大人しそうな顔をしている時透くんが、容赦なく変質者を成敗する姿にわたしは驚きを隠せなかった。

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最寄り駅に着くと、時透くんは腕を捩じり上げた変質者をつれて電車を降りた。パーカーのフードを被った若者っぽいいでたちのその男は、半泣き状態だった。時透くんくんは駅員に事情を説明し、その変質者を引き渡すと、「行こう」とわたしに声をかけてくれる。わたしはなにがなんだかわからないまま、時透くんのあとに続いて改札を出た。

「助けるのが遅くなってごめんね」
一緒に歩きながら学校に向かっていると、時透くんがそう言った。わたしは慌てて首を振る。
「これで明日から安心して通学できるよ。でも、また変な奴が現れたらいつでも言ってね、助けるから」
「う、うん、ありがとう。でも、時透くん…なんで助けてくれたの?怖く…なかった?」
時透くんの気持ちはありがたい。けれど、ただのクラスメイトであるわたしに、そこまで親切にしてくれる理由がわからなかった。わたしの言葉に時透くんは一瞬キョトンとする。そのあと、空気を漏らすように静かに笑った。

「野暮なこと聞くなぁ、ミョウジさん」
「えっ?」
「好きな子にいいところを見せたいって、男なら普通のことだと思うよ。だから僕は、ミョウジさんを困らせるような奴を絶対に許さない」
それから時透くんは、わたしの顔を覗き込んだ。
「ねぇミョウジさん、明日から一緒に学校に行かない?」
体が徐々に体温を上げる中、時透くんの瞳の中に移ったわたしが小さく頷いた。



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