逆転劇の可能性

”蝶屋敷に炭治郎の恋人がいる”というのは、隊内ではそこそこ有名な噂だった。彼女、ミョウジナマエは蝶屋敷で働く看護師の一人。ナマエに一目ぼれした炭治郎は、猛烈に交際を申し込み、半年ほど前に正式に恋人になったのだとか。
僕も蝶屋敷で何度か彼女の姿を見たことがある。柔和な雰囲気はあるものの、思ったよりもあっさりとして大人びた女の子だと思った。余計なことは言わず、一歩引いた場所でニコニコしていることが多い。なんでこんな子が炭治郎と交際する気になったのか、ちょっと不思議に思ったくらいだ。

あるとき、僕は胡蝶さんに用事があって蝶屋敷を訪れた。すぐにナマエが現れ、あいにく胡蝶さんは任務で外出中だと教えてくれる。じゃあ言伝だけ頼んで帰ろうと思ったんだけど、なぜだか僕は、ニコニコしている目の前の女の子の素顔を見てみたくなった。たぶん、それはほんの気まぐれ。胡蝶さんの部屋に彼女と2人きりでいたことが、僕の悪戯心をくすぐったんだ。

「君、炭治郎の恋人なんでしょう?」
「えぇ、まあ」
困ったように苦笑いを浮かべながら彼女が答える。その表情をつぶさに観察しながら言葉を続けた。
「炭治郎と一緒にいて楽しい?どんなところが好きなの?」
一瞬固まったあと、彼女は微かに頬を赤らめながら笑った。どう答えればいいのか、考えあぐねているようだったけれど、自分の恋人のことを考えているその表情は女性らしくて美しかった。

ああ、彼女は本当に炭治郎のことが好きなんだな。見えないだけで、彼らは本当に好き同士で、深く愛し合っているんだ。僕ら、赤の他人の入り込む隙間がないほどに。
そう思うと、僕はとたんに面白くない気分になった。彼女を美しくさせる炭治郎を生意気だと思った。だから、こんな風に思ってしまった。『僕がナマエを手に入れたい』―――と。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + +

まずは単刀直入に彼女を惑わせてみようと思った。花を送ったり、町へ出ようと誘ったり、ときには「君は美しいね」と言葉をかけてみたりもした。けれど、ナマエにはどれも響かない。「ありがとうございます」「お世辞がお上手ですね」とかわされるだけ。炭治郎を思い出したときのように、僕に向けて頬をほんのり染め上げることもない。

それでも諦めずに蝶屋敷に通い、彼女を惑わし続けた。たとえつれない反応が返ってきても、何度も何度も口説き文句を垂れる。迷惑そうな表情をすればするほど、僕はより強い言葉を選んだ。「君って素敵だね」「花のように可憐だ」「君といると落ち着く」「もっと可愛らしい笑顔を見せて」「君に夢中なんだ」と。

やがてナマエは少しずつ素顔を見せはじめる。僕を見つけると明らかに嫌な顔をするようになったし、避けような素振りも増えた。だけどイチ看護師である彼女が、柱の僕から逃げられるわけがない。たとえ炭治郎が同じ蝶屋敷にいるときでも、隙を見て彼女に近づいた。

ある日、ナマエは言った。「わたしをからかうのはやめてください」と。眉間にしわを寄せ、心底不愉快だとでも言いたげな表情で。さんざん彼女を口説いてきたけれど、結局その心が僕に揺れ動くことはなかった。そう、これは完全なる『敗北』。そして、ナマエの心を掴んで離さなかった炭治郎の『勝利』だ。

だけど僕はそれを認めたくなかった。僕が炭治郎に負ける?そんなこと、あってはならない。だから僕は実力行使に出た。僕に背を向け、仕事に戻ろうとするナマエの右手を掴み、強く引く。驚いた彼女の顔がこちらに向けられる。そして、その唇に僕のを押し当てた。やわく、温かいその感触に、僕の体は燃えるように熱くなった。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + +

―――しかし、ナマエの態度は変わらなかった。
普通、恋人以外の男に唇を奪われたら、嫌でも意識するはずだ。それなのに彼女は依然として涼しい顔のまま。屋敷内で僕と出会っても狼狽することはない。いつもの大人しいニコニコ顔の彼女だった。

僕はいい加減イライラしてきた。なぜ彼女の心は僕に向かないのだ。そんなに炭治郎のことが好きなのか。あいつのどこがいいんだ。あいつの方が僕より優れていると言うのか。どうして、どうして…。

苛立ちを募らせた僕は、ナマエが一人になる機会を伺う。やがて、空き病室で2人きりになることに成功した。後ろ手に部屋の戸を閉めると、彼女は露骨に嫌そうな顔をする。


「なにか用ですか」
寝台の敷き布を整えながらナマエが言う。
「君が全然つれないから、ちょっと腹を立ててたんだ」
「恋人のいる女にちょっかいを出すなんて、いただけないと思いますけど」
ナマエは僕などお構いなしに病室の掃除や片づけを行なう。そんな彼女に僕はついて歩いた。
「ねぇ、教えてよ。炭治郎のどこがいいの?なにが君をそんなに夢中にさせるの?」
「しつこいですよ時透さん」
大人びた口調で僕を諭す彼女に、また苛立ちを覚える。自分の唇を奪った男と2人きりだというのに、驚くほど余裕を見せている。

最後の寝台を整えると、彼女はくるりと体をこちらに向けた。別の仕事にでも取りかかるつもりだったのだろう。そして僕の姿に目をとめると「あら、まだいらっしゃたんですか」と小さく微笑んだ。

その瞬間、僕は彼女を寝台に押し倒していた。ほとんど衝動的だった。気づけば僕は彼女に覆いかぶさり、身動きが取れないよう手首を押さえつけていたのである。
そして、その唇がまた生意気なことを言う前に塞いだ。強く、強く、息ができないほどに押しつけた。もう二度と炭治郎のことを考えられないくらい心を乱してやる。その一心で彼女の唇を食んだ。

「……っ」
突然唇に鋭い痛みが走り、彼女の顔から離れる。舌で自分の唇をなぞると血の味がした。ナマエがひどく冷たい目で僕を睨んでいる。しかしその瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「僕を噛んだの」
「あなたがあまりにも最低なことをするからです」
「…そう」
僕はナマエの手首を開放した。こういう形で唇を奪うのはフェアじゃない、そんな気がしたからだ。
「ねぇ、もう一度してもいい?君の唇に」
「じゃあもう一度噛みます」
「いいよ、いくらでも噛めばいい」
そうして彼女の返事も待たずに唇を重ねた。今度は口内に舌を挿し入れ、深く何度も口付ける。ナマエは抵抗しなかったが、体が小刻みに震えているようだった。

唇を離すと、ナマエは手で顔を覆い小さく泣いた。そんな彼女を抱きしめようとすると、強い力で胸を押し返される。
「嫌だった?」
「当たり前でしょう」
「気持ちよくなかった?」
「最低…最低の気分でした」
「僕は最高だったんだけど、だって君が好きだから」
するとナマエのすすり泣きがピタリと止まった。それから彼女は体を起こし、黙って部屋を出て行こうとするので、すかさずその手を掴む。
「今、なに考えてるの?炭治郎のこと?」
ナマエはなにも言わない。
「違うの?」
僕が掴む彼女の手は熱く、わなわなと震えている。
「もしかして、今君は”僕のこと”を考えているの?」
答える代わりに、彼女は僕の手を振り払い、走って部屋を出て行ってしまった。一人部屋に残された僕は、遠ざかっていく彼女の足音に耳を傾ける。そして、ゆるんでしまう口元をどうにも抑えることができなかった。


拍手