策士からの逃亡

※「策士の術中」の続編


「もし、ナマエがまた今日みたいに逃げ出したら、俺は容赦なくお前の唇を奪うよ」
―――そう言われたあの日から、わたしと善逸さんの間には絶対的な”主従関係”みたいなものが築き上げられ、わたしは稽古や鍛錬から容易に逃げ出すことができなくなってしまった。

逆に善逸さんの方は「別に逃げてもいいんだよ」と言うような余裕のある表情を浮かべている。しかし、その裏には「逃げてもいいけど、どうなるかわかってるよね?」と暗黙の了解を押しつけるような凄みがあった。

つまり、わたしは『袋の鼠』だった。それに引き換え、善逸さんは高みの見物。わたしが逃げ出しても、逃げ出さなくても、彼にとって困ることは何一つないのである。


幸いにも、わたしはまだ彼に唇を奪われるような事態に陥っていなかった。けれど、毎日必死だった。それはそれは必死だった。
なぜなら、少しでもサボるような素振り、逃げ出しそうな素振りを見せると、善逸さんは容赦なくわたしの手首を掴み、凄んでくる。鼻と鼻がくっつきそうな距離で「いいよ、休む?」と言ってにっこり笑ってみせるのだ。わたしは冷や汗をかきながら慌てて首を振る。まだやれます、まだやりますと、放り出した木刀を握り直すのだった。

正直、こんなやり方よろしくない。わたしを脅すような真似をして、不公平だ!そう文句を言ったこともある。けれど、善逸さんから、

「お前それ本気で言ってる?そもそもお前はなんで俺と稽古や鍛錬をやってるの?雷の呼吸や技を会得するためでしょ?で、お前はこれまでその稽古から逃げてきた。それはもう逃げ続けてきたよね。だから今回、ちょっとキツくお灸を据えてやったわけ。俺だっていつまでも優しい顔をしてるわけじゃないんだよ。
そしたらなに、今度はそれに文句つけんの?俺が真剣にお前と向き合ったのに?…あのさぁ、これが誰のための稽古だってわかってる?全部お前のため、ナマエ自身のためだよ?そりゃ俺も昔は逃げ続けてきたよ、でもじいちゃんが俺にかけてくれた時間を無駄にしたくなかった。だから必死で頑張ったよ。ナマエが今ごねていることは、俺がお前にかけてきた時間が無駄だったって証明するようなことだよ。それで本当にいいと思ってるの?」

と正論をお見舞いされてしまい、それ以降文句を言うことはなくなった。
―――しかし、とうとう我慢の限界が来てしまったようだ。

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ある日、まだ空が白みはじめた早朝に目が覚めた。昨日も相当キツい稽古を受けていたため体中が痛かった。わたしは布団から出ると自分の腕や足を見る。蝶屋敷でもらった軟膏を塗っているため怪我の治りは早いものの、それでもところどころ擦り傷や痣があった。それを見てわたしは急に悲しくなった。

毎日毎日、つらい稽古や鍛錬に明け暮れる日々。おかげで、任務でほかの隊士に迷惑をかけることは少なくなったけれど、楽しいことはひとつもない。一日の終わり、床につく前に「明日も稽古だ」と、そう思ってしまう。毎日が憂鬱でならなかった。

わたしは着替えると、荷物をまとめて屋敷を抜け出した。善逸さんは隣の部屋でまた眠っているだろう。彼が追ってこれないほど遠くに行こう。日はまだのぼり切っていない。行けるところまで、ずっと遠くに行こう。わたしは駆け足で町から町へと移動した。お金はそんなに持っていないけれど、藤の花の家紋のある家を渡り歩きながら暮らせば、まあなんとかなるだろう。とにかく、少しでも善逸さんから離れた場所に行きたかった。


大きな水車のある、水が綺麗な町にたどり着いた。人が多く、活気のある町なので、着物姿のわたしならばすぐに紛れてしまいそうだ。わたしは近くの茶屋でお団子を3本買うと、河原に下り立って美しい水面を眺めながらそれを1本食べた。なぜだか涙が出た。善逸さんに申し訳ないことをしたと思った。だけど、帰りたくないという気持ちも強かった。鬼殺隊をクビになるかもしれないし、こんなわたしを見て仲間たちも失望するだろう。どんどん気持ちが沈みこんでいく。そうしてわたしは気づけば膝を抱えて眠ってしまっていた。


……
………
甘い香りがする、と思った。だんだんと意識がハッキリしてくる。しかし、目を開けても眼前は真っ暗。
えっ…?わたし、死んだ……?そう絶望感を抱いていると、目の上に置かれていたらしい”なにか”がずれて、急に眩しい光が目に入った。
「うっ………」
光を遮るようになにかが動く。
「ん、起きた?」
目が慣れてきて、やっとわかった。そこには善逸さんの顔があった。彼の後ろには柔らかな太陽が輝いている。
「よーく眠ってたね。まあ、あんな朝早くに飛び出したんだから、無理もないか」
よく見れば彼はお団子を頬張っていた。(それ、わたしのお団子じゃなかったっけ…?)それから彼はわたしの頭を優しく撫で、「好きなだけ寝なよ」と言った。

ここでようやくわたしは状況を理解した。わたしは胡坐をかく善逸さんの膝に頭を乗せ、横になり、眠りこけていたらしい。そして彼は熟睡できるようにと、わたしの目元に手ぬぐいをかけ、光を遮ってくれていたらしいのだ。
「あの……善逸さん、」
「今日は稽古も鍛錬も休み、ゆっくりしようぜ」
「でも……」
「お前が嫌がることはなにもしないよ、あんなのただの脅し」
善逸さんは両手を上げ、大きく伸びをしてから、もう一度わたしの顔を覗き込んだ。
「どした?目、覚めちゃった?」
「はい……」
「じゃあ、ちょっと散歩でもする?」
小さく頷くと、善逸さんはわたしが起き上がるのを手伝ってくれる。それから自分自身も立ち上がり、腰に手を当てて体を伸ばした。

「ちなみに、わたし…どれくらいこうして寝ていたのでしょう……」
「今が昼時だから、まあ、3時間くらいじゃないかな」
「さんっ……」
そりゃ善逸さんも体を伸ばしたくなるわけだ。申し訳なさでいっぱいになるも、「はいはい、行くよ!」と彼がわたしの背中を押すので、渋々人通りの多い町に入っていった。

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わたしたちは休日を楽しむ男女のように、ただただ普通に町を練り歩いた。食事処や茶屋に入っても、善逸さんはわたしに一銭も払わせないどころか、お土産に金平糖や大福などを買ってくれる始末だ。

「善逸さん、あの、すみません……」
橋の上から、鯉や鴨が泳ぐ川を眺めている善逸さんに謝罪をすると、「なにがぁ?」と間の抜けた声が返ってくる。そして、こっちにおいで、というようにわたしを手招きした。
「ね、鴨って可愛いでしょ。よく見ると羽の色や柄が結構綺麗なんだよね」
「そうですね……で、あの…」
「今回のこと、俺も悪かった。だから謝んないでよ」
「…いえ、善逸さんは、」
「お前のこと、こんなに追い詰めてるなんて気づけなかった俺も馬鹿だった。本当にごめんな。これからはちゃんと適度に息抜きさせながらやってくからさ、一緒に頑張ろう」
そう言って善逸さんはポンポンとわたしの頭を軽く叩く。なんだかんだ、この人はちゃんとわたしの先輩で、ちゃんと大人なんだよなぁと、わたしはちょっとだけ泣きそうになる。

「……ただ、ひとつだけ聞きたいことがあるんだけど」
「はい?」
「なんていうか…そんなに嫌だった?」
「え?」
「その…俺、言ったでしょ。次、お前が逃げたらさ…その、するよ、って。く、唇に……」
「あ、あぁ………」
わたしはがやんわりと善逸さんから目をそらす。すると「やっぱり嫌だったの?!そんなに?!」と彼は大声を上げた。
「だって、なんか善逸さん…ものすごいギラギラしてて怖かったというか…」
「えぇっ俺ギラギラしてた?!」
「それに、わたしが女だからって、そういう風に搾取するのは正直どうかと……」
「いやいやいや!だから言ったよね?俺、お前のこと可愛いと思ってるって!えっなにこれ、伝わってない?全然伝わってない感じ?もうやだこの子、本当鈍い!!!」
突然騒いで怒り出した善逸さんに戸惑う。わたしはまた、間違ったことを言ってしまったのだろうか……。

「ああっもういい!今日のところはこれで勘弁してやる!!」
「は、はぁ……」
「じゃあ帰るよ!!」
相変わらずプリプリしている善逸さんは数歩進むと、くるりと振り返ってわたしのところまで来た。そして、わたしの手を取ると再び歩き出す。善逸さんの手は大きくて温かかった。
「…これは、嫌じゃないの」
「え?えぇ、まあ、別に…」
「………そっか」
わたしたちが寝泊まりしている屋敷に着く頃、わたしは善逸さんの言う”可愛いと思っている”の意味と、この繋いでいる”手”の意味が、『同じ』なんじゃないかということに気づいた。それでも、わたしがこの手を離さなかったのなぜなんだろう。いつもより早い脈拍にその答えが隠されている気がした。


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