「僕を見ろ」と彼は言う

「だっ……誰っ!?」
わたしの素っ頓狂な叫び声は、鬱蒼と茂った樹海の奥に吸い込まれていった。
見上げると木々の間から、血のような真っ赤な夕焼け空が途切れ途切れに見える。そしてその空の端々から、”夜”が迫っているのがわかった。その空を見ながら、わたしは全身に「絶望」という感情が広がっていくのを感じた。


さっき、背後に誰かがいた、絶対にいた。呻き声のようなものもした。でもそれは”人ならざる者”の気配であり声だった。

昔からそう。わたしは”人ならざる者”のことを感知してしまう体質だった。
それを感知するようになったのは、わたしの愛する両親が相次いで病死してからのこと。最初は、悲しみのあまり自分がそれを作り出しているのだと思った。けれど、その”人ならざる者”はわたしに話しかけてくるし、微笑んできた。生きている人間と同じように。

しかし、その者たちがみな穏便な性格だとは限らない。怖い顔をして脅かしてくる者もいれば、泣きながらわたしに縋りつく者もいた。血濡れの恐ろしい姿をした老人もいれば、目を背けたくなるほど醜く変形してしまった可哀相な赤子もいた。

そんな風に”見えてしまう”ものだから、わたしは仕方なく彼らとの共存を余儀なくされたわけだけど。なぜか、死んだ両親たちがわたしの目の前に現れることは一度もなかった。だから、この”人ならざる者”の正体がわたしの作り出した誇大妄想なのか、はたまた本当にそこに存在する霊的な何かなのか―――それはいまだにわからないのだった。


そして現在、樹海で遭難しているわたしのそばでは、その”人ならざる者”の気配が明らかに増えていた。この大森林の中を進むたびに、外気の温度も下がっていくような気がする。知らず知らずのうちに、わたしの歯はカタカタと細かく震えていた。

はじまりは、わたしが湿った苔で足を滑らせ、道を大きく外れてしまったことだった。迷路のような樹海の奥深くに転がり込んでしまったわたしは、すぐに方向感覚を失い、鎹鴉ともはぐれてしまう。

今回の任務は、人が忽然と姿を消すこの樹海に鬼が潜んでいるかどうか調査することだった。幸い、鬼の気配は感じられなかったが、鬼とは別の邪悪な気配はしている。……それは現在も。

鎹鴉がわたしを見つけられないほどに、深く遭難してしまっている今、生存率は低下する一方だ。ほかの隊士がわたしを見つけるのも不可能に等しいだろう。わたしの儚い命はこの恐ろしい樹海の中で散っていく。そしてそんなわたしの遺体を、誰も見つけてはくれないのだ。
気づけば絶望的なことばかり考えており、慌てて頭を振る。生きろ、どうにか生きろ。最後の瞬間まで決して諦めてはいけない。


「…ア、……ァ」
「っひ!!」
先ほどよりもずっと近くに呻き声を感じる。わたしはたまらなくなって走り出した。微かに差し込む夕日を目印に、ただただ前進する。苔で足を滑らせたときに左足を傷めたため、思うように走れないのがもどかしい。
「(もうダメだ、死ぬんだ、死ぬんだ…あいつらに殺されるんだ……)」
邪悪な気配を漂わせる”人ならざる者”が、確実にわたしに迫ってきている。全身に震えが広がり、もはや歯の根が合わない。

そうして片足を引きずりながら不格好に走っていると、盛り上がった木の根につまずき、1回転して仰向けに倒れた。動揺のあまり受け身を取り忘れたため、ボコボコと木の根が張り巡らされた地面に背中から叩きつけられる。息が詰まり、目に涙が溜まった。
空が見えた。
茜色の空に夜の藍色が侵食している。美しい黄昏時だ。この空が完全に夜に呑まれる頃、きっとわたしの命も果てるのだろう。浅い呼吸を繰り返しながら、そんなことを考えていた。

「眠るのにはまだ早いんじゃない?」

急に空の景色がなくなった。いや……違う。誰かがわたしを覗いているのだ。けれど、夜が訪れはじめている今、そしてこの薄暗い樹海の中では、その顔を確認することができない。
「それにしても、こいつらはなに?見た感じ、鬼じゃないみたいだけど」
その人がわたしの背中の下に手を入れ、起き上がらせてくれる。相手の長い髪がわたしの頬に触れ、初めてその人の顔を確認することができた。
「あっ……は、柱……」
「そう、僕は柱」
クスリと笑う彼は霞柱の時透さんだった。忙しい柱がわたしみたいな格下の隊士を助けにくるなんて、という恐れ多い気持ちと、強い安堵感が同時に押し寄せる。

「で、こいつらはなに?」
わたしがよろよろと立ち上がると、時透さんはもう一度疑問を口にした。わたしたちの前には地を這いながらこちらに向かってくる”人ならざる者”がいた。それも一人や二人ではない。濃霧に紛れながら、呻き声を上げながら、彼らは次々と湧いて出てくる。
「…時透さんにも見えるんですか」
「これだけ自己主張が強いと、さすがに僕でも見えるね。どうやら君が引き寄せているみたいだけど」
時透さんはおもむろに刀を抜くと、なんの迷いもなく彼らの頸を斬りつけた。わたしは思わず「あっ!!」と大きな声を上げてしまう。彼らは憤怒の表情を示し、恨み言をつぶやきながら霧になって消えた。

「ふぅん…どういう仕組みかわからないけど、日輪刀の攻撃は有効みたいだ」
「ま、待ってください、時透さん…!あの、攻撃はしないほうが……」
「どうして?放っておいたら、ろくなことにならないよ」
それから時透さんは這い出てくるそれらを躊躇なく斬り続けた。彼が刀を振るうたびに、耳を塞ぎたくなるような悲鳴や呻き声が上がる。あまりの恐ろしさに、わたしはその場にうずくまり体を震わせていた。時透さんが怨念に満ちた彼らを一人残らず斬ってしまう、そのときまで。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + +

「大丈夫?もうあいつらはいないよ」
背中に温かさを感じ、顔を上げると、随分とそばに時透さんがいた。彼は優しく背中をさすってくれており、柱に気遣われてしまう腑抜けた自分が急に恥ずかしくなる。
「ごめんなさい、わたし、全然役に立てず…」
「仕方ないよ、こんな場所で鬼でもない奴らに囲まれたら、誰だって動揺する」
それから時透さんは「歩ける?僕がおぶってもいいよ」と言ってくれたが、わたしは自分で歩けると答えた。


「もうあいつらのこと、見ない方がいいよ」
まるで出口がわかっているかのように、迷いなく樹海の中を進む時透さんの後ろを歩いていると、突然そう言われた。
「たぶん君は優しすぎる。あいつらのこと、可哀相って思ってるでしょ」
「………」
「あんなの可哀相でもなんでもない。生きている人間を襲おうとするような奴らに、情けをかける必要なんてない」
たしかにわたしは目の前に現れる彼らのことを、心のどこかで哀れに思い、受け入れようとしていたかもしれない。いつか、わたしの父と母が同じような姿で現れたら…そう思うと、彼らを拒否できないでいたのだ。

「君が憐れんでくれるから、優しい目で見てくれるから、あいつらは現れるんだ。だからもう見ないほうがいい」
そう言って時透さんは突然立ち止まった。
「…それより君はさ、生きている人間をもっと見るべきだよ。君が大切にすべきは、死者ではなく生者だ。そう思わない?」
そしてわたしの方を振り返り、少しだけ微笑む。彼の目の前は開けた場所になっており、満天の星空が広がっていた。そこは暗く恐ろしい大森林の終わり、樹海の出口だった。

「ねぇ、さっき僕が言った言葉の意味、ちゃんとわかってる?」
好き勝手に草木が伸びている小道を歩いていると、やや不満げな口調で時透さんがそう言う。
「あっ…はい、もっと生きている人間を見るべき、ということですよね」
「そう、ちゃんと周りを見なよ。君のことを見ている人間がいるかもしれないのに、肝心の君が死者ばかり見ていたら、生きている人間は報われないよ」
「なるほど……」
正直よくわからなくて生返事をすると、時透さんは急にわたしの手首を掴んだ。

「やっぱりわかってない」
「えっ、え?すみません、その……」
「君さ、僕のことを見てよ」
「は……」
「放っておくと君、またあいつらに引っ張られちゃうでしょ。だから、そうならないように、僕のことを見て、僕のことだけを考えて」
なにを言っているんだろう、この人は。わたしは混乱しながら彼の顔を見つめ続ける。
「そして僕も、君のことを考える。朝も昼も夜も、君のことだけを」
「あの、ごめんなさい、それはどういう……」
「まだわからない?君のことを見ている人間って、俺のことだよ」
透き通るような真っすぐな瞳が、わたしを捉えて離さなかった。

「死者を憐れんであげる君の優しさが好きだ。だけど、そろそろ生きている人間である俺が報われてもいいんじゃない?」
少し拗ねたような、それでいて愛情のこもったその声色に、彼が本心から言葉を紡いでいるのだとわかる。しかし、この動揺はどうにも抑えられない。時透さんはそんなわたしを見て微かに笑うと、「ま、いいや。とりあえず蝶屋敷に行こう」と言ってわたしの手を離した。


今日はとても月が明るい。月光に照らされながら、わたしたちは無言で歩いていた。ふと時透さんが月を見上げ、それから隣にいるわたしの顔を見た。
「ナマエ、」
「は、はい?」
「月が綺麗ですね」
月光の青白い光に照らされた時透さんが、優しい笑みをたたえながらこちらを見ていた。

”月が綺麗ですね”―――それがただの世間話ではないことくらい、わたしにもわかる。だからこそ、わたしの心臓は高く跳ね上がり、今もすごい速さで脈を打ち続けていた。
それから指先に時透さんの手が触れ、徐々に指が絡まっていった。わたしはそれを拒否しなかった。


+ + + + + + + + + + + + + + + + + +

※こちらは夢企画サイト「黄昏時の夢幻劇様」へ提出した作品になります。


拍手