プールサイドにて

※現パロ


蝉の声がする―――。
そう耳が意識した途端、その鳴き声は一層強くなったように思えた。体が重く、少しだけ頭が痛い。口から微かに呻き声が漏れ出てしまう。いまだまどろみの中にいるようで、起きようかどうしようか、ぐずぐずと体が悩んでいると、上方から落ち着いた男子の声が聞こえた。
「ミョウジさん、大丈夫?」
驚いて目を開けるも、目の前は暗いままだ。いや、端から微かに光が入っている。恐る恐る目元に手を這わせると、柔らかいタオルのようなものが被せられていた。それをゆっくり外すと、のんびりとした様子でこちらを見下ろしているクラスメイトがいた。

「時透くん……?」
「うん、僕だよ。なにがあったのか覚えてる?」
「えぇと………」
とりあえず体を起こしてみると、体全体が重たいような、ちょっと熱を持っているような感じがした。上はTシャツ、下はジャージで膝下くらいまで裾をまくり上げているが、上下ともにしっとりと水気を帯びていた。
「ミョウジさん、ぶっ倒れたんだよ。プール掃除をしている最中に」
時透くんは平坦な調子でそう言うと、わたしにペットボトルを差し出した。それは運動部員がよく飲んでいるスポーツ飲料で、外気との温度差でペットボトルは汗をかいている。
「これ、先生が飲んどけって」
「そ、そう…ありがとう」
蓋を手で包みぐるりと回すと、すでに開封されていたらしく、さほど力を入れなくても蓋が開いた。あらかじめ時透くんが開けてくれていたのだろう。

わたしが寝かせられていた場所はプールサイドの屋根がある休憩場所だ。目の前には水が張られたプールがあり、風に吹かれて時折水面が揺れている。
重い頭で周りを見渡すも、一緒に掃除をしていた仲間や先生の姿が見当たらない。それなのに、一緒に掃除をしたわけではない時透くんが隣にいるというのは、なんとも不思議な光景だ。

時透くんは制服姿で、プールの方向に足を投げ出すようにして座っていた。片手をついて後ろに重心を置き、もう片方の手でスマホを持ち、時々画面を指でなぞっている。見ると、そこには将棋盤があった。わたしが起きるまでの暇つぶしに、スマホで将棋をやっていたらしい。


今日は夏休み前最後の登校日だった。終業式が終わったらすぐに帰るつもりだったけれど、プール掃除を手伝ってほしいと友達に頼まれた。ジャージも貸すからお願い!と頼み込まれてしまったので、こうして手伝いに来たのである

だけど、どういうわけかわたしは掃除中に倒れてしまったらしい。たぶん熱中症だろう。打ち身のように体の痛む箇所はないから、バタリと卒倒したのではなく、崩れ落ちるようにして倒れたのかもしれない。そしてプールサイドに運ばれ、日陰で休み……起きたら時透くんが隣にいたというわけだ。

「あの…時透くんが、わたしをここに運んでくれたの?」
「ううん、僕はただ通りかかっただけ。ミョウジさんを運んだり、タオルを被せてくれたのは、先生や君の友達みたいだよ」
通りかかっただけの時透くんがなぜここにいるのか、という疑問をまだ残していると、「ああ、言葉が足りなかったね」と彼はやや申し訳なさそうな顔をする。スマホの画面を切ると、それをポケットにしまい話を続けた。

「ミョウジさんと一緒に掃除をしていた彼らは、掃除のあと部活だか委員会だかの用事があったんだって。だから、ずっとミョウジさんのそばにいるわけにはいかなかった。そんなとき、たまたま僕が近くを通りかかったんだ。図書館に本を返した帰りだったんだけどね」
「じゃあ、それで…」
「うん、ミョウジさんが目を覚ますまで一緒にいて、って言われたんだ」

先ほどよりも体温が上昇しているのは、この暑さのせいだけではないはずだ。実はわたしは同じクラスになってからずっと、時透くんのことが気になっていた。だけど彼は無口だし、趣味も性格もきっとわたしとは全然違うはずだからと、今までまともに話せないでいた。そんな気になる相手が突然わたしの隣に現れたのだから、動揺しないはずがない。体のだるさが薄らいできた今になって、わたしの心臓はせわしなく鼓動を刻みはじめた。


「あ、そうだ」
時透くんはポツリと声を上げると、体を左側にひねりガサガサとビニール袋を探るような音、なにかを切り離すような”パキッ”という音をさせた。そして、「はい」とわたしに片手大のものをわたす。受け取ると、それはひんやりとして気持ちがいい。
「これ、差し入れにもらってたんだ。よかった、まだ溶けてないみたい」
それは1袋2本入りで売られているチューブ型のフローズンアイスだった。先端の部分をちぎると中身を吸い出すことができ、わたしも夏になると友人らとシェアすることが多い。そんなアイスを、時透くんと一緒に食べることになったのだ。

「ホワイトサワー味…だって。ミョウジさん、これ食べたことある?」
「あるけど、ホワイトサワーは初めてかも。いつもはチョコ味を食べてるから…」
「ふぅん、僕はどっちも食べたことないけど」
時透くんは先端をちぎると、チューブ型のそれに口をつけようとして手を止めた。
「大丈夫?開けようか?」
「えっ、あっ……」
突然の申し出に思考が停止していると、時透くんはわたしの持っているアイスと、自分が開封したものとを交換した。「食べていいよ」と言うけれど、一度時透くんが口をつけようとしたもの、と思うと恥ずかしいくらい意識してしまう自分がいた。

自分の分のを開封した時透くんが、涼しい顔でチューブの先端をくわえている。長い髪が渇いた夏の風に揺れて、本当に涼しそうだ。このままでは体温が上昇しすぎてまた倒れかねない、とわたしもアイスを吸い上げると、爽やかな甘さと酸味が口いっぱいにひろがり、冷たさが喉を滑り降りていった。

「美味しい」
気づいたらそう口に出していた。思ったことをそのまま口に出してしまうなんて子どもみたいだ。一人で恥ずかしくなっていると、隣から視線を感じる。時透くんがじいっとわたしのことを見ていた。
「うん、美味しいね」
ふわりと優しく目元を緩ませて、彼がそう言った。初めてみた時透くんの柔らかい笑みに、わたしは今度こそ卒倒してしまうかと思った。


アイスによって体が冷却されたというのに、わたしの心臓はどんどん熱を帯びていく。「気になっている人」だった時透くんが、完全に「好きな人」になってしまったあの瞬間―――彼の優しいあの顔が頭を離れない。

時透くんはまたスマホを開いて将棋をはじめる。中身が空になったチューブをくわえたまま。
「ミョウジさんの体調が万全になったら教えて」
「あ、う、うん」
「また倒れたら危ないから、送る」
スマホの画面から目を離さず、彼がそう言った。わたしは手に持っていたチューブを落としそうになる。

時透くんはどこまでわたしをドキドキさせれば気が済むのだろう。今すぐあのプールに飛び込んで、この熱い体を冷やしてしまいたい。そんなことを思いながら、少しでも長く一緒にいられる時間を稼ぎたくて、チューブの中で溶けかけたアイスをゆっくりと吸い上げた。



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