雨とコイビト

雨の音で目を覚ました。
薄暗い部屋の中、サイドテーブルにある置き型のデジタル時計を見ると時刻は朝6時を回ったばかり。ハッとして自分の腕の中を見ると、すやすやと彼女が眠っていた。もちろん「彼女」とは「恋人」という意味の彼女である。

彼女―――ナマエは俺に背を向けた状態で眠っている。それを俺が後ろから抱きすくめていたわけだけど、朝起きてすぐに彼女の顔を見れないのは何だか寂しいと思った。肩肘をつき、そうっと体を起こす。ゆっくりとナマエの顔を覗き込んだ。無防備な寝顔がそこにあり、俺は自然と頬が緩む。音を立てないように気をつけながら、唇に触れるだけのキスをした。

再び彼女を抱きすくめるようにして、ベッドに横たわる。雨音はやや激しい。たしか昨日の夜、ナマエと一緒に俺の部屋へ帰ってきたときから、細かな雨が降っていたっけ。明日は一日雨だから部屋から一歩も出ないだろうと、好きなお菓子や飲み物、食材なんかを大量に買い込んでいてよかった。雨音に耳を澄ませながら、そんなことを考える。

朝食はクロワッサン、昼食はパスタで、夕食は一緒にカレーを作る予定だ。ちょっと奮発して、いつもより良いお肉を買ったんだ。ナマエは料理があまり得意じゃないと言うけれど、俺と一緒に作るときは楽しいみたいで、これまでにもいろんなものを一緒に作ってきた。

腕の中のナマエがもぞもぞと動いた。顔と体をこちらに向ける、大胆な寝返りを打つ。愛しの彼女が自分の方に向いてくれて、俺は心臓がきゅんと縮こまる。ああ、キスしたい。その無防備な唇を啄んでやりたい。そして驚かせたい。でも、彼女の安眠を邪魔したくないという理性も残っている。

ちょっとだけ、なら。

俺はゴクリと唾を飲むと、そうっと唇を重ねる。唇を通してナマエの柔らかさを感じる。この柔らかさが、俺は大好きだ。もう一度、重ねる。直後、彼女がわずかに顔を逸らした。ドキリと心臓が飛び跳ねる。恋人同士なのだから別に遠慮する必要はないんだろうけど、それでも寝ている彼女にキスをするというのは、どことなく背徳感があった。

しかし、俺はどんどん彼女を求めたくなる。
向かい合った彼女に手を伸ばし、その小さな左手を捕まえる。指を絡ませ、すべすべとした感触を楽しむ。ああ、やっぱり俺はナマエのどんな部分も好きで好きでたまらない。額を滑る前髪に口付ける。優しいシャンプーの香りがした。

またナマエがわずかに顔を動かす。くすぐったいみたいだ。でも俺は、もう遠慮する気なんかなかった。この頃にはもう完全に目が覚めていて、むしろナマエも早く起きてくれないかな、なんて期待さえしていたのだ。でもわざわざ声をかけて起こすのはかわいそうだ。だったら起きるまで、寝ている俺だけの可愛らしい彼女を楽しみたい。

ナマエの左手を握ったまま、俺はまた彼女にキスをする。でも今度はすぐに離したりなんかしない。3秒くらいぴったりとくっつけたまま、唇の熱を楽しむ。それからまた角度を変えて3秒。もしキスをしている間にナマエが起きてしまったら……そんなことを考えると、余計にドキドキする。
それから、彼女の頬、鼻、おでこ、いたるところにキスをした。するとナマエはときどき「ふふっ」とか「ん」とか声を漏らす。……正直、ちょっと興奮した。でも、だからってこのまま本能のままに寝込みを襲ったら絶対に軽蔑されるから、なんとかキスだけで我慢する。


部屋の中に聞こえるのは、雨の音、俺がナマエにキスをする小さな音、彼女が身じろぎをする布の擦れる音、この三つだけだ。朝っぱらから大好きな人にキスをしまくる―――そんな休日の早朝。なんて幸せな時間なんだろう。

親指でナマエの柔らかな頬を撫でる。「ふ」とまた彼女が声を漏らした。ちょっと笑ってるみたいな、やや口角の上がった口元。愛しい。愛しすぎる。今すぐ彼女を力いっぱい抱きしめたい。俺はそのまま親指で、ナマエの可愛らしい唇を撫でる。ふに、と柔らかな感触に、俺はまた密かに興奮した。

ああ、ダメだ。我慢できない。

何度目かの唇を重ねる。でも何度目だって、俺はこの行為がたまらなく好きだし、幸せを覚える。今度は長くくっつけたままにしない。俺の好きなタイミングで離し、好きな角度でくっつける、それを繰り返す。途中、ぺろりと唇の表面を舐めてみた。ピク、と彼女の体が反応した。
「………」
もう一度舐める。先ほどよりは小さいものの、また彼女の体が反応する。俺は生唾を飲み込んだ。
「……ズルすぎ」
ナマエの唇を塞ぐと、わずかに空いた隙間にそうっと舌先を差し込む。早く、早く彼女の舌に触れたい。そう思って半ば強引に舌を挿入した。そうして、しっとりとしたナマエの舌に触れたとき、突然右手を強く握り返された。

「ん……うっ?!」

くぐもった声を上げたナマエは、眠気と驚きがない交ぜになった瞳で俺を見つめていた。”バレた”と思った。俺はそうっと彼女の口内から退散すると、ちゅ、と最後にもう一度口付けをして唇を離した。
「おはよ、ナマエ」
そうして極力自然に挨拶をしたのだけど、ナマエはちょっと呆れた様子で俺を睨んでいる。
「いや、おはよ、じゃなくて……」
「これはその、俺なりの起こし方っていうか…?モーニングキッス、的な?」
ナマエはそんな俺の言い訳など構わず、自分の体を調べる。
「いや、さすがに襲ってはいないよ?俺そこまで理性のない男じゃないから!」
とはいえ、そんな俺を警戒しまくる彼女でさえ可愛いと思って手を伸ばしちゃうんだから、俺の理性もギリギリなんだなと思ったのはここだけの話。

俺は一度ほどかれたナマエの左手をもう一度握り、その甘やかな体温を感じようとする。彼女はと言うと、相変わらず警戒した目で俺を見ているけれど。
「ね、ナマエ。紅茶とコーヒーどっちがいい?美味しいの淹れてあげる。あ、スクランブルエッグにチーズは入れる?」
「……どうしたの急に、わたしの機嫌を取って」
「何言ってんの、俺はいつもお前に優しいでしょ」
疑心暗鬼になっている彼女を引き寄せ、抱きしめる。ナマエは抵抗せず、遠慮がちに俺の背中に手を回した。
「やっぱり今日はずっと雨みたいだね」
「そうね」
「今日はずっと、一緒にいようね」
「…ん」
雨の日は嫌いじゃない。だって雨が降ると外に出られなくて、ナマエとの距離がいつもよりずっと近くなる気がするからだ。


ぬくもりの残る布団から抜け出すのは名残惜しいけれど、彼女と過ごす今日という素晴らしい一日を考えれば、簡単に布団と決別できた。続いてナマエもベッドから降り、ふらふらとした足取りで俺の後を追う。
「紅茶?コーヒー?」
「善逸とおんなじで」
「じゃ、紅茶ね」
ナマエがヤカンに火をかける俺をじいっと見つめていたので、優しく微笑んでみるとなぜか笑われた。悔しいので首元をくすぐってやる。やめてやめてと身をよじっても、やめない。そうして最後は後ろから強く抱きついてやった。
「お前の考えてること、分かるよ。俺のことスケベだと思ってるんでしょ」
「だってこんなに親切にしてさ、下心見え見えっていうか…」
「はあ?愛する彼女に下心のない彼氏なんていませんけど?」
まだくすぐりの名残で笑っている彼女の頬にひとつ唇を落とす。
「ナマエはお腹が空いてると、全然俺の相手してくれないからね。ちゃんと食べさせなきゃダメなの」
「あ、ほら!本音!」
「愛してるよ、ナマエ」
そこでちょうど、ヤカンが甲高い声を上げたので火を消しに行く。その後をまたナマエがついてきた。

茶葉の入ったティーポットにお湯を注ぎ、蒸らしているあいだ、3回ナマエとキスをした。そのときに聞こえたのは俺と彼女の息遣い、そして雨の音だけだ。
「わたし、クロワッサン温めるよ」
「じゃあ俺はスクランブルエッグ作るね」
雨の日の何気ない日常は、いつもより特別で、幸せだ。なんだか、いつもよりずっとずっとお互いの愛を近くに感じる気がするからだ。


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