悪夢の先を導いて

悪夢のようだと思った。
悪夢だと言い切らないのは、この鼻が曲がりそうな悪臭も、口の中で感じる血の味も、目の前で起こっている残酷な所業もすべてが”現実”であると分かっているからだ。手足を柱に縛られたわたしのそばには、何人もの死にかけた人間たちが転がっている。わたしがあの化け物の要求を頑なに拒んだがために、彼らは手ひどい怪我を負わされたのだ。
「さァ、そんな顔をしないデ。もっと可愛く笑ってヨ、ねェ」
化け物が涎を垂らしながらわたしのうなじをそうっと撫でる。奴の指の一本一本には鋭い鉤爪がついており、下手に抵抗すれば体に傷がつくことは明らかだった。だからわたしは悲鳴を上げないように必死で唇を噛み、奴の愛撫に耐えるしかない。

死にかけた人間たちの呻き声、化け物が喋るたびに発せられる悪臭、奴の要求を拒んだときに殴られた頬の痛みと血の味―――これは地獄だ。冷めない悪夢だ。

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化け物に連れ去られたあの日はいつもと同じ、何の代り映えもない一日になるはずだった。
わたしは旅館の女中として働いている。子どものころからずっと同じ旅館で働いているから、朝起きて夜寝るまでの動きが変化することはそうそうない。あの日も、いつものように食事を運んだり、客室の掃除をしたり、そんな風にして過ごしていたら、旅館の中がひどく静かであることに気づいた。女将の笑い声も、ほかの女中のお喋りも聞こえない。不安になって客室を飛び出すと、廊下中に血の臭いが漂っていた。わたしは着物の袖で鼻を覆い、血の臭いが強くなる方へ走る。そして、女将が血を流して倒れている部屋にたどり着いた。恐怖に硬直しているわたしの後ろで、何者かの気配がした。恐る恐る振り返ると、そこには口を血だらけにした化け物が立っていたのだ。そしてわたしを見るとこう言った。
「ああ……愛い娘ダ。俺と話をしよウ」

化け物は一見人間のような姿形をしているが、不自然に膨らんだ着物の下には4本の腕が隠されていた。つまり計6本の腕を持った生き物なのである。それぞれに鋭い鉤爪があり、なぜか腹には裂けたような口までついていた。まずわたしを黙らせるために、奴はその口を使って一人の人間を丸ごと喰って見せ、一人の人間をその場で殺した。それでも抵抗したわたしに、6本の腕を使って殴ったり引っかいたりした。またほかの人間にも危害を加えた。そしてこう言った。
「俺の伴侶になレ、娘。そして俺に尽くセ。そうすれば、お前とほかの人間たちの命は奪わなイ」
蛇のように瞳孔が細い目を弓なりにして笑顔を作った化け物は、妙に甘ったるい声で要求を突きつける。わたしがこの要求を飲んですべてが解決するのならばと、気づけば頷いていた。化け物は醜い笑顔を張りつけたまま、口から涎を垂らしていた。

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化け物は必死にわたしに好かれようとしていた。「俺のこの見た目が嫌なのカ?ならばお前好みにしてやろウ」と言っていろんな顔に作り替えた。そして最終的に、巷で人気の活動写真に出演する俳優のような顔に作り替えた。鏡の前でじっくりと自分の顔を観察し、満足げな笑みを浮かべた化け物は、6本の腕を広げてわたしに近づいてくる。いくら男前に顔を作り替えたって、6本の腕と腹に大きな口を持っている体では、不気味な対比を引き立たせるだけだ。わたしは情けなく震えながら化け物に抱きしめられる。吐き気がした。

「さァ、ひとつになろう娘。お前を隅々まで愛してやル」
化け物は恐ろしいことを言いながら、わたしの手足を縛っていた縄をほどく。
……逃げるなら今しかないと思った。
完全に縄がほどかれた瞬間、わたしは両手を伸ばして化け物を突き飛ばす。奴が怯んだすきに、開け放たれた戸に向かって走った。とにかくこの部屋を出なくてはならない。

しかし、そんな逃亡はあえなく失敗する。
交互に踏み出していた足の片方がまったく動かなくなり、わたしは地面に突っ伏すように転んでしまう。振り向けば、化け物の6本の腕のうちの1本がわたしの足首を掴んでいるではないか。頭が真っ白になる。
「逃げるんじゃなイ、娘。ひとつになろウ…」
不気味な笑い声をあげながら、ずるずるとわたしを引き寄せる化け物。
「たすけて………」
無駄だと分かっているのに、わたしは切なる願いを呟いていた。


―――突風が吹いた。
遅れてガラスが粉々になるような甲高い音がする。窓が割れたのだ。しかし突然の風に目を開けることができない。
「ギャッ!!」
化け物が叫び声を上げわたしの足を離す。その瞬間、誰かがわたしを素早く抱き上げ、その場を跳躍するような衝撃を感じた。
「……痛そう」
ボソリと呟きが聞こえ、わたしは驚いて目を開ける。しかめっ面でわたしの顔を覗いている幼い顔の少年がいた。彼は髪が長く、大きすぎではないかと思うような珍しい西洋風の服を身につけている。わたしが呆気に取られていると、彼は自身の口元や頬を指しながら「君、随分と傷つけられてる」と言った。
「その娘は俺のものダ。俺の伴侶となル、だから娘を返セ」
顔だけが男前の化け物は、ニコニコと笑みを浮かべながら少年に言った。しかし少年はわたしを後ろ隠すようにして一歩前に出ると「やだ」と言った。
「君みたいな醜いものを夫にするなんて、いくらなんでもこの子が可哀想だと思うよ」
「ふふ…ガキには分かるまい、大人の関係というものガ」
「それに君は大層熱を上げているようだけど、彼女はどうかな。気持ちをたしかめたこと、ある?」
「そんなもの、たしかめるまでもなイ」
そう言って化け物はわたしに向かってにこりと笑みを浮かべる。

たしかに顔面にだけ焦点を当てれば、町娘がぽうっとしてしまいそうなほどの端正な顔つきだ。しかし、その唇は血で汚れているし、なにより体にはうごうごとした複数の腕が生えている。腹の口から覗いた真っ赤な舌が、ずるりと舌なめずりをするのにも総毛立った。そんなわたしを見て、少年はやれやれというように首を振った。
「僕が見るに、彼女……君に愛情の”あ”の字も抱いていないようだけど?」
少年の言葉に、化け物はピタリと腕の動きを止めた。笑顔を浮かべていた顔面からもすうっと表情が消える。
「それにさ、君みたいな人喰い鬼なんかより、僕の方がよっぽどお似合いなんじゃないかなぁ?だって僕は人を喰わないし、太陽の下だって歩ける。そしてなにより……君なんかより数百倍も強い」
化け物の顔はみるみるうちに醜く歪んでいく。俳優のようだった顔が崩れ、見るに堪えない恐ろしい顔つきへと変化した。
「俺より強い……だト?笑わせるな小童ガ!」
「じゃあ俺がその小童かどうか、たしかめてみればいいじゃない」
少年は少しこちらへ顔を向けると「下がっていて」と小声で言った。わたしは頷くと後ずさるようにして壁際まで下がる。その間に少年が腰に下げていた鞘から刀を抜いた。
「さ、かかっておいでよ、自惚れ屋の人喰い鬼サン」
少年の煽り文句を合図に、顔を真っ赤にした化け物が腕を振り上げ突進してきた。

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こう評するのは間違っているかもしれないけれど、少年と化け物の戦いは実に鮮やかだった。バタバタと動き回る化け物に対し、少年の方は無駄な動きが少しもない。彼が刀を振るたびに、化け物の腕が一本また一本と切られた。怒り狂った化け物が少年に噛みつこうとすると、突然その場が霞がかかったようになり、気づけば化け物の後ろに少年がいる。
「遊びはここまでだ、思い残すことはない?」
化け物の頸に刀を当てながら少年が言う。よく見ると、少しだけ意地悪な笑みを浮かべていた。
「は、はは……俺を、俺の頸を斬ろうってのカ?そんなことをしたらなァ、あの子が悲しム。あの子は、俺の伴侶なんだかラ…」
すると再び少年は無表情に戻った。
「まだそんなこと言ってるの?寝言は寝て言いなよ」
「ギッ」
刹那、少年の刀は鬼の頸をはねた。頭と胴体が離れた瞬間、ボロボロと崩れていく化け物を見て、やはり奴はこの世のものではなかったのだと思った。


刀を鞘に納めた少年が、腰の抜けているわたしのもとに戻ってくる。そしてしゃがみ込み、小首を傾げながら「大丈夫?」と聞いた。
「え…?」
「君、すごく泣いてる」
そう言われて、わたしは初めて自分の目から涙が溢れていることに気づく。そして涙を自覚した瞬間、それはもう止められないくらいの勢いになってしまった。
「わ、わた、わたしの、せいで、死んだ……」
「君のせいじゃない」
「でも、わたしが言うことを、聞いていればっ……」
「君が言いなりになったって、あいつは人を殺したはずだ。鬼は嘘つきだから」
「でも、」
少年は困ったようにわたしを見つめている。そして、そうっと自身の洋服の袖でわたしの目元を拭った。
「落ち着くまで泣いていいよ」
それからわたしはもっともっと泣いた。みっともなく泣くわたしの手を少年が握ってくれていると気づいたのは、それからもっとあとのことだった。

+++

「で、君はこれからどうするの」
ようやく泣き止んだわたしに少年が尋ねる。
「とりあえず、亡くなった女将たちの葬儀をして…。それから、残された者たちと一緒に奉公先を探します」
ふぅん、と相槌を打つ少年が思案顔なのが不思議だったが、命を救ってくれた恩人だ。きちんとお礼を言わねばと居住まいをただし、畳に手をついたところで「あのさ、」と彼が口を開いた。
「君ってさ、掃除や洗濯、できる?」
「えっ?あっはい、できます」
「料理も?」
「ええ、ここで女中をやっておりますので、一通りのことはできるかと…」
「ふぅん、じゃあ僕の屋敷で働きなよ」
「……え?」
「僕の屋敷の使用人、今一人だけなんだ。しかも結構な年寄りでね、君みたいな子が入ってくれると助かるよ」
そう言って彼は客室の座卓の上にあった紙と筆を取ると、さらさらと何かを書き、それをわたしに差し出す。
「はい。じゃあ待ってるから」
そこには”時透無一郎”という名前と、彼の屋敷らしき住所が書いてあった。

「あ、あの、えぇと……」
「なに?もしかして、あの鬼みたいに男前じゃない僕に誘われて不満?」
「いえ!そういうことではなく、なぜわたしにそこまで……」
「……はあ、野暮なこと聞かないでよ」
時透と名乗る彼はバツが悪そうに、早口で続けた。
「とにかく、嫌じゃなかったら僕の屋敷においで。住まいと給与は用意してあげられるし、少なくとも僕は君を喰ったりはしない。それに、僕はこう見えて優しい……と思う」
それから彼は一呼吸置くと、わたしをまっすぐに見つめながらこう言った。
「…僕は鬼殺隊の時透無一郎だ、君は?」
「わ、わたしはミョウジ、ナマエ。この旅館の女中です」
「分かった。じゃあナマエ、君が屋敷に来てくれることを願うよ」
そう言って彼はわずかに微笑むと、静かに客室を出て行った。


なんだか夢のような時間だった、と思う。もちろん、住処や大切な場所・人を奪われ最悪な悪夢を味わった。けれど、時透と名乗る彼がわたしを幸せな夢へと導き直してくれたのだ。しかもこれは、新たな場所を与えられた喜びだけではない。わたしはきっと、彼に惹かれているのだ。それで、どうしようもなく胸が高鳴っているのだ。

握りしめて少し皺がついた紙にもう一度目を落とす。「時透無一郎」という文字を何度も視線でなぞったあと、そっと着物の内側にしまった。わたしの胸は希望と期待ではち切れんばかりだった。


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