つげ櫛

正直最初は彼女の存在すら気にしてすらいなかった。僕はもともと物覚えが悪いし、人の顔もすぐに忘れてしまう。多くの一般隊士の中の一人、彼女はそんな存在だった。
ただいっとき、彼女と同じ任務に赴くことが続いた時期があった。初めて口を聞いたのもそのときだったと思う。どちらかといえば大人しい性格の子という印象だったけれど、自分の考えや意見をしっかりと口にする性格のようで(しかも空気もかなり読める方だ)、会話をしていて疲れないなと思った。そんな彼女が炭治郎たちの同期だというのは後から知った。

+++

「もうすぐナマエの誕生日だ」
たまたまそんな声が耳に入って振り返ると、炭治郎が別の隊士と一緒に話をしているところだった。どうやら同期の隊士たちとお金を出し合って、何か贈り物をしようという相談をしているらしい。わざわざ僕に稽古をつけてもらいに来てるのに、雑談なんていい気なものだ。
「ちょっと君」
気づけば炭治郎と会話をしている隊士に声をかけていた。
「手合わせしてあげるから、来なよ」
「へっ?!」
相手は見るからにうろたえた。
「断る理由なんてある?君たちみんな僕に鍛えてほしくてここに来たんだろ、だったら手合わせのひとつやふたつ、なんだっていうの?」
「時透くん、そんな言い方…」
「いいからさっさと木刀を持ってこっちに来い」
あまりに刺々しい僕の様子に炭治郎も戸惑っていた。でも僕は自分の言葉を取り下げるつもりは毛頭なく、震えながら木刀を構える隊士を睨みつけた。


まったくもって僕らしくないことをしてしまった。なぜだかあのとき、妙に心を乱されたのだ。
…白状すると、僕は炭治郎たちがあの子の誕生日を知っていること、それを祝おうとしていることが面白くなかったんだと思う。別に僕はあの子と特別親しい間柄ではない。けれど、彼女のことを知りたいとは思っている。それでいて変に斜に構えてしまい、彼女を知ろうとしない僕もいるのだ。つくづく面倒くさい性格だと思う。

稽古をつけた数名の隊士たちは、ボロボロの雑巾みたいに疲弊した様子で僕の屋敷を後にした。つい指導に熱が入りすぎてしまった。やや後ろめたさを感じながら、一休みにお茶でも飲もうと台所へ向かおうとすると「時透くん」と誰かが僕を呼んだ。
「…炭治郎、まだいたの」
「うん、ちょっと話をしようかと思って」
「僕は話すことなんてないけど」
相変わらず棘のある自分の口調に嫌気がさす。いつから僕はこんなに感情的な人間になったんだっけ。
「その、時透くんがずっと苛々しているようだから…少し気になったんだ。何か悩みや困っていることがあるなら、俺に聞かせてくれないか?」
相変わらずお人好しな男だ。ふん、と溜息をついたあと、僕は頭に小さなひらめきを感じる。
「…あのさ、ひとつだけ聞きたいことがある」
「ああ、俺に答えられることならなんでも聞いてくれ!」
「稽古の前、誕生日のこと話してたでしょ」
「誕生日?」
炭治郎は少し首を傾けたあと「ああ」と頷いた。
「ナマエの誕生日のことだな。そうそう、みんなで祝おうと思って相談していたんだ」
「……いつなの」
「え?」
「だから、彼女の誕生日はいつなの」
炭治郎は驚いたように2、3度瞬きをしたあと「たしか、3日後のはずだ」と答えた。
「ああ、そう。じゃあ帰っていいよ」
「えっ、あ…聞きたいことっていうのは……」
「さっさと帰ってお疲れ様」
無理矢理背中を押すと、炭治郎は渋々ながらも屋敷の出口に向かった。ただ僕としては求めていた情報を得られて大いに満足していた。


翌日、炭治郎から文が届いた。2日後の夜、蝶屋敷で彼女の誕生日を祝うから来ないか、という誘いだった。僕は、任務が入っているから、と丁重にお断りをした。

+++

2日後、僕は任務の一環でとある田舎町へ調査に出かけた。近頃人死にが出ているということで、被害状況などの話を聞く限りでは鬼の仕業に間違いなさそうだ。しかし、その町に本当に鬼が潜んでいるとしたら、存在を確認するため夜までこの町で調査を続けなければならない。誕生日、蝶屋敷、という言葉が頭に浮かんでは消える。いつもなら落ち着いて任務に臨むのに、さっさと仕事を終わらせたいという焦りに近い思いが強くつのっていた。


―――完全に任務を終えた頃には、辺りはすっかり夜に包み込まれていた。
彼女はまだ屋敷にいるのだろうか、そう思いながら足は自然と蝶屋敷へと向かう。怪我ひとつしていないのに蝶屋敷に行くなんて怪訝に思われるかもしれない。だから滞在時間はなるべく短く……うん、そうだ。用事だけ済ませたらさっさと帰ろう。炭治郎たちに絡まれるのも面倒だし。そう頭の中でごちゃごちゃと考えているうちに、自然と僕は走り出していた。

蝶屋敷にはまだ煌々と灯りがついており、一室からは賑やかな声も聞こえてくる。よかった、まだいたんだと安堵の溜息が漏れた。しかし、そんな団欒の中に特攻する勇気はない。どう彼女に接触しようかと屋敷の庭をウロウロしていると、どこかで戸が開く音がした。そして確実に足音がこちらに近づいてくる。一瞬隠れようかとも考えたけれど、その前に足音の人物が姿を現した。
「あ、」
驚いたように目を丸くしたのは彼女だった。それから「任務で怪我をしたんですか?アオイさん、呼びますか?」と言いながら庭に下りてくる。
「いや…怪我はしてない」
「じゃあ誰かに用事が?」
「うん、まあ、そうなんだけど……」
今夜は満月で、夜だというのに外はとても明るかった。彼女の表情もつぶさに観察することができる。
「ていうか、なんで僕が来たって分かったの」
不思議そうな顔で近づいてきた彼女に、今度は僕が質問した。すると彼女は空気を揺らすように笑う。
「善逸が”誰かが来た”って言ったんです。彼耳がいいですから、時透さんの足音を聞き取ったんでしょうね。それでわたしが確認をしに来たんです」
「ふうん」
僕があまりに不服そうな声色で相槌を打ったからなのか、彼女は少し困ったような顔で首を傾げた。
「いや…祝いの場の主役である君がわざわざ確認役を買って出るなんて、ちょっと不思議だな、って思って」
言ってから僕は、自分が完全なる墓穴を掘ったことに気づいた。だって僕は本来、”蝶屋敷で祝い事が行われていること”を知るはずのない人物なのだから。

しかし、彼女がその墓穴について言及することはなかった。それどころか、やや照れくさそうな顔をして笑っている。
「なんででしょうか。一応、炭治郎や善逸が”誰が来たか確認する”って言ってくれたんですけど…自分が確認したい、と思って出てきちゃったんですよね」
「……ふうん、変な子」
「はは、たしかに」
それから僕たちは無言になった。野次馬がやってくる前に、やるべきことを済ませて退散しなければならないのに、もう少しだけ彼女と話をしていたいと思ってしまった。
「わたし、分かるんです」
「なにが?」
「時透さんが近くにいると、分かるんです。変ですよね」
「…うん、変だね」
僕の言葉に彼女は少しだけ傷ついたような顔をしたけれど、それを押し隠すように笑って見せた。僕はそんな彼女に隊服の下に隠していた小さな包みを押しつける。
「だって、君のその特殊な能力のせいで、こっそりお祝いをしようとした僕の計画が台無しだもん。困っちゃうなぁ」
彼女は戸惑ったように包みと僕を見比べたあと、目を輝かせた。
「これ、開けていいですか?」
「もちろん」
丁寧に包みを開ける彼女の手つきを見守る。落ち着いている風を装っている僕だったけれど、心臓はものすごい速さで鼓動していた。


「わっ……素敵」
姿を現したのは、橙と朱色のちりめん生地で作られた入れ物。その中には艶やかな”つげ櫛”が入っている。彼女は櫛を取り出すと、月光に当てるようにして角度を変えながら隅々までそれを観察した。そしてハッと我に返ると櫛を入れ物に戻し、慌ててそれを僕に突っ返す。まるで”こんな贈り物いらない”と言っているような行動に動揺した僕は「なに?気に入らなかった?」と思わず剣呑な声を出してしまう。
「いえ、そうではなく…!こ、こんな高価なものいただけません」
「そんなの君が気にすることじゃない」
「でも……」
彼女は居心地が悪そうに僕の顔を見るが、目が合うや否や視線を逸らす。どうも歯切れが悪い。そのとき、僕はお腹がくすぐったくなるような気持ちになった。
そうか。彼女気づいているんだ。

「僕、本気だよ」
「…え、」
「”意味”を知ってて君に贈ってるんだ、このつげ櫛を。その意味、君も分かってるんだろ?」
江戸時代、男性が女性に求婚する際につげ櫛を贈る習慣があった―――というのは今日得た知識だ。
任務で訪れた田舎町で夜がやってくるのを待っている際、僕はこのつげ櫛を扱う商店を見つけた。そしてその店のお婆さんが”つげ櫛の習慣”に関する話を教えてくれたのだ。だから僕は、このつげ櫛を彼女の贈り物にすることに決めた。
「でも、突然…すぎませんか」
僕が返品を受け付けないから、彼女は例のつげ櫛を手に持ったまま不安そうにそうつぶやく。
「そうだね、突然かも。でもさ、突然求婚しちゃだめ?僕はけっこう…ていうか、かなり本気なんだけど」
今や彼女の顔は月明りの下でも分かるほど赤く染まっていた。さあ、もう一押しだと僕は一歩前に踏み出す。
「僕と一緒になってよ、ナマエ。君が好きなんだ」
後ずさりしそうになる彼女の腕を捕まえる。逃がす気なんてさらさらない。

「あ、あの」
「うん?」
「ま、まずは、普通の交際から、はじめませんか……?」
今にも卒倒しそうなほどの極度な緊張状態になっていることが、震える彼女の腕から伝わってくる。さすがにちょっと攻めすぎてしまったかも、とこっそり反省した。ただ、彼女を未来の伴侶にすることは諦めていないけれど。
「……分かった、じゃあ夫婦になることを前提とした交際、ってことね」
「えっ?!」
「え?僕なにか変なこと言った?」
わざとらしく首を傾げてやると、表情を強張らせていた彼女がようやく笑った。僕のあまりの頑固さに、もう笑うしかない…といった様子だ。
「絶対に譲らないんですね、時透さん」
「千載一遇の好機、ここで君を逃すわけにはいかないもの」
そうして彼女は手の中のつげ櫛をじいっと見つめたあと、もう一度僕へ顔を戻し、こう言った。
「時透さん、贈り物ありがとうございます。一生大切にします」
その言葉を聞いた瞬間、僕の体はポッと火が灯ったように温かくなる。今すぐ彼女を引き寄せ口付けたいけれど「まずは普通の交際から」なのでここは我慢だ。だから代わりに彼女の小さな手を取り、その甲に目一杯の愛情を込めて唇を落とした。


拍手