おあずけ

連日の残業続きで、帰りの電車はシートに座った途端すぐに眠ってしまう。危うく駅を乗り過ごすところだった。電車を降り、改札口を通過すると、ジャケットのポケットからスマホを取り出す。案の定恋人からメッセージが届いていた。

『1週間仕事お疲れ様!今ご飯作ってるから、真っすぐ帰っておいで』

一見すると画面に無機質な文字が整列しているだけなのに、メッセージからは善逸の温かさや愛情が伝わってくるのだから不思議だ。長かった1週間の終点である金曜日。大好きな恋人がご飯を作ってわたしの帰りを待っている。なんて幸せなんだろう。途中のコンビニで二人分のスイーツを買おう、そんなことを考えながら足取り軽く自宅へ向かった。


わたしと恋人の善逸は付き合って半年ほどになるだろうか。彼とは大学時代に出会ったものの、在学中のわたしたちが恋愛関係に発展することはなかった。それが社会人となり、何度かプライベートの時間を共にするうちに、お互い惹かれるようになったのだろう。ついには交際することになったのである。

わたしたちの交際は非常に順調だった。二人でいる時間はいつも楽しいし、喧嘩をすることもそうそうない。善逸は本当に気配り上手で、いつもわたしをサポートしてくれる。実際、残業だらけの毎日を送っている彼女を心配して、手料理を振るまってくれるくらい、優しくて家庭的な人なのだ。
毎週金曜日はわたしが善逸の家に泊まりにいくことが多いけれど、最近は善逸が家に来てくれることが多い。これも近頃残業続きのわたしを気遣ってのことだろう。そんな彼の優しさに一番に触れられることが何よりも幸せだった。

+++

バッグの中に埋もれている鍵を探していると、カチャリと音がしてドアが開いた。
「あ、」
「おかえり」
ドアの向こうにはニコニコと笑っている善逸がいる。彼はとても耳がいい。だからわたしの足音や、鍵を探す音を聞き取り、いつも先回りしてドアを開けてくれるのだ。

部屋に入ると、善逸はわたしからバッグを取り上げ、コートを脱がせる。わたしが洗面所で手を洗っているうちに、ハンガーにコートをかけ、バッグをクローゼットまで持っていってくれるのだから、まるで新婚夫婦のやり取りみたいだ。洗面所から戻ってくると、善逸がテーブルに食事を並べている。焼き魚に根菜の煮物、長ネギと油揚げのお味噌汁、ほうれん草の和え物……今日は和食のようだ。
「働きすぎなナマエチャンには栄養たっぷりのお魚を食べてもらいます」
善逸がわたしの背中を押しながら椅子に座らせる。それから自身もわたしの向かいに座った。
「大丈夫?お腹すいてる?」
「うん、お腹すきすぎて倒れそうなくらい」
「じゃあよかった」
「いただきます」
「はい、いただきます」
善逸の作る料理はどれも味付けのバランスが良い。「美味しい」と感想を漏らすと、わたしの恋人は照れたような笑みを浮かべる。そんな彼との食事も、彼と一緒に過ごす大好きな時間のひとつだった。

善逸は本当にわたしのことを大切にしてくれるし、彼と過ごす毎秒毎秒が愛おしい。だけど善逸と一緒にいるときのわたしは、いつも何かに焦っていた。”何か”とぼやかしているけれど、その理由は分かっている。ただその理由を口にしたり考えたりすると、とてつもなく切ないような虚しいような気持ちになり、たちまち心が折れてしまいそうになる。だから、なるべく頭の隅に追いやろうとしているのだけど、気持ちはいつも焦っていた。

+++

お風呂から上がり、髪を乾かし終えて自室に戻ると、ベッドで善逸がくつろいでいた。わたしに気づいた彼は、はにかんだ笑顔でベッドをポンポンと叩く。それが嬉しくてわたしもベッドに上がる。彼の隣に寝そべると、すぐそばに恋人の体温を感じてドキドキした。
「ナマエ」
甘く掠れた声がわたしを呼ぶ。いつの間にか彼の大きな手がわたしの左手を絡めとっていた。善逸に触れていると、わたしの体は沸騰したように熱くなってしまう。
彼の影がわたしに覆いかぶさった。自然と体が強張ってしまう。目をつむり、善逸の手を強く握った。
唇に温かさが触れ、そして離れた―――まさに触れるだけのキスだ。柔らかさが離れていくとき、わたしは強い名残惜しさを感じる。けれど、そんな気持ちとは正反対にわたしの心臓は猛スピードで鼓動している。

くすぐったさを感じ恐る恐る目を開けると、善逸が優しく目を細めながらわたしの髪を撫でていた。善逸はわたしのことを心から大切にしている。溢れんばかりの愛情を注いでくれている。それは分かっている。分かっているけれど、やっぱりわたしの気持ちは複雑で、頭で考えるより先に分厚い涙の膜が両眼を覆ってしまった。
「え?!うそ、い、嫌だった?!ごめん、ナマエ……!!」
善逸は慌てて起き上がると、近くにあった箱ティッシュを引き寄せ、それを抱えたりベッドの上に置いたりを繰り返した。ああ、こんなことで泣くなんて情けない、そう思っているのに涙は止まらない。これではまともな弁解ができないではないか。

重たい体を起こし、止まる様子のない涙を拭おうとすると「ダメだよ、擦っちゃ…」と善逸がわたしの腕を取った。それから丁寧に折りたたんだティッシュペーパーで優しくわたしの目元を押さえる。
「ごめんナマエ、俺……」
「ち、違う、違うの。嫌だった、わけじゃ、なくて……」
「うん…」
「その逆、っていうか……」
ここまで言いかけて、またわたしの胸には虚しさが押し寄せる。
「…ごめん、やっぱ、ダメ…だ」
それからまた止めどなく涙が溢れ出す。善逸はそんなわたしを黙って引き寄せた。それから優しく背中を撫でてくれる。その優しが嬉しくて、ちょっとだけ悲しかった。

「あのさ、これはあくまで俺の予想なんだけど…。ナマエ、俺に何か隠しごと…してない?」
「………」
「隠しごとっていうか、悩みごとっていうか…とにかく、俺に遠慮してることがあるんじゃない?」
腕の間からチラリと見上げると、善逸がひどく真剣な顔でこちらを見つめていた。
「俺ってさ、頼りない男だと思う。でも大好きな彼女をこんなに悲しい顔にさせたままじゃ…嫌だよ。もし俺のせいでナマエが泣いているんだったら、心から謝りたいし、お前を悲しませた根本を解決したい」
こんなときでさえ、善逸の真っすぐなところにドキドキしてしまうんだから、わたしは本当にこの人が好きなんだろう。そんな彼の真摯さに背中を押され、気づけばわたしは口を開いていた。


「その…わたし、周りの女性に比べてすごく秀でてる部分ってないと思うんだけど、」
「え?そんなことないですけど?ナマエは一番かわいいよ、世界中で一番かわいいよ」
「いや、でも、スタイルもそこまで良くないし…」
「え?俺的にはめちゃくちゃベストなんですけど?ものすごく俺の癖に刺さるし…っていうか、そもそもそんなの人と比べる必要ないじゃん!」
「ううん、それに家事もそこまで得意じゃないし、性格もそんなに…」
「なになに?急にどうしたの?俺は全部ひっくるめてナマエが好きなんだけど?」
「で、でも、じゃあなんで!」
「えっ?!」
顔を見合わせたわたしたちの間にわずかな緊張と沈黙が走る。わたしはひとつ深呼吸すると話を続けた。
「善逸はいつも、その…キスだけで終わるじゃん。しかも、すごく軽く触れるだけの…」
「え、ちょ、ちょっと待って、え、うそ、あの、」
「付き合ってからずっとそんな風で…その先に行かないし…!」
「待って」
「わたしが原因としか…」
「待ってナマエ」
「…なによ」
「お前、いま盛大な勘違いしてるよ」
善逸はわたしの両肩を掴むと、ずいと顔を寄せる。よく見ると少し怒っているようだ。

「俺がずっと、その…いわゆるキス止まりな関係にしちゃったこと、ナマエを悩ませて傷つけちゃったことは、本当に悪いと思ってる。それは、本当にごめん。でも…でもね?お前は大変な勘違いをしてるよ。
この俺が、ナマエにベタ惚れの俺が、キスから先に行きたがらない?いやいやいやあり得ないから!!死ぬほどイチャイチャしたいに決まってるでしょ!?もう仕事なんかせず四六時中くっついてたいもの!!俺はそれほどお前が好きだし、魅力を感じてんの。それはまず頭に叩き込んでよね?!」
突然スイッチが入ったように捲し立てる善逸に圧倒されつつも、慌てて頷いた。
「で、それなのになんで先に進まなかったかってことなんだけど……」
「うん」
「お前の音がね……すごく、聞こえてきたから」
「……音?」
「ええと、嫌がらないで聞いて欲しいんだけど」
善逸が照れたように頬をかき、話を続ける。

「俺と手繋いだり、キスしたりするときのナマエってね、ものすごくドキドキしてんの。もう口から心臓飛び出しちゃうんじゃないかってくらい、すっごくね。顔も林檎みたいに赤くて…って、あ、いや、別にからかってるわけじゃないよ?!」
「………」
「俺はそういうナマエが、なんていうか……好きなんだ。胸がきゅうってなってさ、めちゃくちゃときめいちゃうの。…うん、そう。もうめちゃくちゃ好きなの。だから、そんなナマエをびっくりさせないように、ゆっくり進めていこうって思ってたんだ。…でも、結果的にちょっと待たせすぎちゃったのかもね」
するり、と彼の親指がわたしの頬を撫でる。
「ごめんね、ナマエ」
彼が触れた部分からジワジワと熱をおびていくように体温が上昇する。善逸はそんなわたしを愛おしそうに見つめる。
「あの…わたしも、ごめん。一人で被害妄想して、勝手に傷ついて……」
善逸はふるふると首を振る。そしてにっこりと優しい笑みを浮かべた。
「ううん、おかげでナマエの気持ちが分かったし、よかったよ」
突然背中に柔らかい衝撃を感じた。わたしの視界には天井が広がり…つまり先ほどまでとはまったく異なる景色になっていた。そこでやっと、ああ、押し倒されたのだと気づいた。

「……へ」
「いやぁ、ナマエも俺を求めてくれてるんだって思ったらさ、めちゃくちゃ燃えてきたよ」
「え、ぜ、善逸、あの」
ニコニコと笑みを浮かべた善逸がゆっくりとわたしに覆いかぶさる。
「大丈夫、明日は休みだし時間はたっぷりあるよ。楽しもうね、ナマエ」
「待っ……心の、準備が」
「やだ、待たない」
わたしの口を塞ぐように善逸の唇が重なる。けれど、もうその唇は簡単に離れたりはしない。角度を変え、感触を楽しむように何度も何度も柔らかさを押しつけてくる。その刺激的な感触にわたしの心臓ははち切れんばかりの速さになる。でも、もう善逸は止まってくれない。
「大好きだよ、ナマエ」
妙に艶っぽい声でそう言うと、善逸はベッドの上にあったリモコンを手に取り、部屋の照明を消した。


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