失敗からはじまる青春

バレンタインなんてなければいいのになぁ、とミョウジナマエは思っていた。
それは、彼女がこういったイベント事を楽しむのが苦手なタイプであるから、という理由もある。世の中の女子たちは、バレンタインに乗じて意中の相手にチョコレートと好意を伝えるというけれど、ナマエにとってこれほどハードルの高いイベントはほかにない。さらに、バレンタインというやつをちゃんと楽しんでいるフリをしないと、なんだか冷めたノリの悪い奴のように見られてしまうのも厄介だった。「ナマエは誰にあげるの?」「今年は何つくる?」そんな風に話しかけてくる友人たちへの返答に毎年困りつつも、ナマエは心のどこかでバレンタインを手放しで楽しむ彼女たちを羨ましいと思っていた。

一方で、我妻善逸もナマエと同様のことを考えていた。バレンタインなんてなければいいのに、と。
どうせ毎年本命チョコはもらえない。めぐんでくれと騒いでようやく1個、しかも友人の妹からもらえるかどうか…という具合だ。こんな侘しい思いをするくらいなら、バレンタインなんてなければいいのに。そんな恨み節を唱えるのが善逸である。

2月に突入すると、このバレンタインフィーバーはますます過熱する。手作りお菓子キットはもちろん、有名パティシエの手がける高級チョコレートだとか、期間限定のチョコドーナツだとか、さまざまなバレンタイン商品が売り出される。そんな品々をナマエは冷めた目で、善逸は熱のこもった目で見やるのだった。

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「え?ナマエ、チョコあげる人いないの?」
友人の想像以上に大きな声に数人の男子がこちらを振り返り、ナマエは焦る。その男子の中には我妻善逸も含まれていた。「ちょっと!」とナマエが咎めると、友人は「ごめんごめん」と笑う。
「そっかぁ、ナマエいま彼氏もいないんだっけ」
「そうだけど…」
「ふーん、じゃあなんか味気ないバレンタインだね」
相変わらず友人はズケズケとそんなことを言う。「別にそんなことない」と言い返して、強がっているように見られたら嫌なのでナマエは黙り込むしかなかった。
「でもさぁ、気になってる男子のひとりくらいいるんじゃないの?」
「は?」
ナマエは思わず剣呑な声を出してしまったが、友人がさして気にしているような様子はなかった。
「ね、あげちゃいなよ」
「いや、だから別にそういう人は…」
「だってさ〜うちら高2だよ?なんの刺激もないバレンタインとか悲しすぎ」
ナマエはちらりとスマホに目を落とす。昼休みはまだ終わりそうにない。そして自分たちの会話に明らかに耳をそば立てている男子クラスメイトたちの存在が辛くて仕方がなかった。
「だからって適当にチョコあげていいわけじゃないでしょ」
「えー?でもそこから新しい恋がはじまったりとか…」
「少女漫画の読みすぎ」
ジュース買ってくる、と言ってナマエは立ち上がった。とにかくいったんこの空気から解放されたかったのだ。足早に教室を出ると、彼女はひとつ溜息をつき自販機のある裏庭に向かって歩き出した。


その日以来、ナマエはなんとなくバレンタインを意識するようになってしまった。そして日に日に、”自分もバレンタインを楽しまなきゃいけないのではないか”という強迫観念に似た思いが強まっていく。それに、あの友人の言っていたことはあながち間違いではなかった。実はナマエには気になる男子がいた。
それはあの、我妻善逸である。

彼はナマエから見ても完全なる”非モテ”に部類される男子であった。騒がしいし、すぐ泣くし、女好きだしで、クラスメイトたちによくイジられている。正直あまりいいところはない。けれど彼は、嫌がるクラスメイトをしつこくイジる(半ばいじめに近かかった)男子たちに対して胸倉を掴みブチ切れたことがある。そんな彼を見て以来、ナマエは善逸に惹かれるようになったのだ。

でも、だからといって善逸にチョコレートをあげるのか?この自分が?ナマエは何度となくこの自問自答を繰り返す。
……いや、そんな自分まったく想像できない。なぜならナマエと善逸は、クラスの用事で二言三言ことばを交わした以外は、まともに会話をしたことすらないのだ。そんな自分が彼にチョコレートをあげるなんて、あまりにハードルが高すぎるだろう。

そんな風に頭をかかえていても時間は無慈悲に過ぎていく。今年のバレンタインは金曜日だった。今やナマエは、学校帰りにスーパーに寄ってお菓子の材料を眺めたり、デパートの綺麗にラッピングされたチョコレートを眺めたり、といったことを繰り返している。そして我に返っては、慌てて家に逃げ帰るのだった。

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そうして迎えたバレンタイン当日、ナマエは遅刻ギリギリに教室に滑り込む。「ミョウジ、滑り込みセーフだな!」と担任教師である煉獄が大きな声で笑ったので、ナマエは曖昧に微笑んだ。

その日のナマエは一日を通して、実に挙動不審だった。何をするにもコソコソとしており、とりわけ自分の机から離れようとしない。クラスメイトが自分の席の脇を歩こうものなら、机の横にかかった鞄を手で押さえた。おそらく無意識な行為だろう。神経質になっている自分にナマエはどんどん疲れていった。集中力が切れ、授業の内容も頭に入ってこない。でも誰かが通ると、やはり慌てて鞄を押さえてしまうのだった。

「ミョウジさん、だいじょうぶ?」
帰りのホームルームが終わり、クラスメイトたちが散り散りになっていく中、一人の男子がナマエに声をかけた。善逸だ。ナマエは目を丸くして鞄を押さえる。そんなナマエを見て、善逸は心配そうに首を傾げる。
「なんか様子へんだけど…」
善逸の言葉にナマエはますます焦る。そして「あ、えっと、お気遣い…なく」と裏返った声で返し、無理矢理に微笑んだ。それから慌てて立ち上がり、鞄を引っ掴んで教室を出る。そのままナマエは当てもなく図書館まで来てしまった。

「あぁ………」
人気のない図書館の一番隅の席に座りながら、ナマエは小さな呻き声を漏らした。恥ずかしさや後悔の念、さまざまな感情が入り乱れている。そんな最悪な感情に耐えきれなくなりナマエは机に突っ伏した。そうして、ごちゃごちゃと考えているうちに彼女はうたた寝をしてしまう。

+++

「閉館時間でーす」
愛想のない声で目が覚めた。顔を上げると、図書委員が迷惑そうにナマエを睨んでいる。「すみません…」と小声で謝ると、ナマエは席を立ち図書館を出た。
廊下をとぼとぼと歩く彼女を、窓から差し込む夕日が柔らかく包み込む。ナマエはかつてないほど空しい気持ちだった。
下駄箱で靴に履き替え、そのまま校門へ向かおうと思ったが、なにを思い立ったのか踵を返す。そして彼女は体育館や倉庫のある方へと足を運んだ。

たしか、こっちの方に落ち葉や雑草を燃やすための焼却炉があったはず…と思案しながらナマエは歩く。
目的のものはあった。そして焼却炉の周りには、落ち葉や雑草が入った大きなビニール袋が何個も置かれている。ということは近々このゴミたちが燃やされるのだろう。
ナマエはそのビニール袋の一つに手を伸ばす。結ばれたビニール袋の口は簡単にほどけた。彼女は落ち葉が詰まったそれをじぃっと眺めたあと、意を決したように鞄の中から”あるモノ”を取り出し、落ち葉の中に突っ込んだ。

「……ミョウジさん?」

心臓が口から飛び出しそうになる、とはこのことだ。
ナマエは驚きすぎてビニール袋から手を離し、袋の中身である落ち葉をぶちまけてしまう。
「え?だ、だいじょうぶ?!ていうか、こんなところで何してるの?」
部活帰りらしい竹刀袋を肩にかけた善逸が、慌てて駆け寄ってくる。
「あ、あの、気にしないで!わたしはその…」
ナマエの制止を振り切って落ち葉集めを手伝ってくれる善逸。マズい、とナマエは思った。
「我妻くん、あの、わたし一人で片付けられるから…」
しかしここでナマエがもっとも危惧していたことが起こる。善逸が掘り当ててしまったのだ、例のモノを。

「なんだ、これ?」
落ち葉の中から出てきたそれを取り上げ、しげしげと眺める善逸。かたやナマエは顔面蒼白だった。
「もしかしてこれ、チョコ、なのかな?こんなとこにチョコ捨てるなんて罰当たり……」
ここで善逸は言葉を切る。ナマエの異様な様子に気づいたからだ。そして善逸は案外空気の読める男である。これが彼女の隠蔽したかったモノであり、そのために焼却炉という物騒な場所で落ち葉をいじくりまわしていたのだと、合点がいってしまったのだ。
「なんで、こんなこと……」
「………」
善逸はナマエとチョコを見比べる。それからゴクリと唾を飲み込むと「…もったいない」とつぶやいた。
「……え、」
「もったいない……もったいないよ、もったいなさすぎでしょ!!!なんで捨てちゃうの大事なチョコを!!なんで?もしかして好きな人に渡せなかったの?だとしても、だとしてもだよ?!見た感じこれ、手作りっぽいし…ミョウジさんが頑張って作ったものを捨てちゃうとか、そんなの……もったいない!モテない俺からしたらもったいなさすぎ!!!」
突然激高しはじめた善逸に、ナマエは呆気に取られる。

「じゃあなに?このチョコいらないってこと?」
「あ……うーん…」
「いらないんだったらさ、このチョコ、俺にちょうだいよ」
「……えっ?!」
善逸は今や恥も外聞もないようで、ラッピングされた可愛らしいチョコレートを恨めし気に睨んでいる。
「捨てちゃうくらいなら、俺にちょうだいって言ってんの!ダメ?!」
こんなに自棄になってチョコレートを要求されるのが初めてだったナマエは、思わず笑いそうになった。

「いいけど……」
「けど、なに?」
「それ、さ。もともと、あげようと思ってたんだ」
「ほかの男子に、でしょ?分かってるよそんなの!でも、ほかの男子のおさがりのチョコでも俺には意味があるわけで…」
「ち、違うよ!だからそれ……あ、我妻くんにあげようと思ってたんだってば」
ぴたりと時間が止まったような静寂が訪れる。善逸の目はこれでもかというほど開かれ、ナマエを痛いほど凝視していた。
「へ……?」
「あー…その、お返しとかは別にいいから、うん」
「ちょ、ミョウジさん、…!」
ナマエは善逸の声を無視して、残りの落ち葉をさっさとかき集め、ビニール袋を縛った。そして立ち上がった彼女は軽く制服のホコリを払い、その場を後にしようとしたが、善逸がそれを逃がさない。ナマエのブレザーに必死にしがみつき、制止した。

「ごめん、帰らせて我妻くん。わたし今めちゃくちゃ恥ずかしいの」
「でも俺、ミョウジさんに聞きたいこと100個くらいあるんですけど!!」
「せめて一つに絞って…」
「一つ?!ええと、じゃあ……その、」
善逸は手元のチョコレートをチラリと見てから口を開く。
「このチョコってさ、義理?それとも、本命?」
その質問を投げかけられた瞬間、ナマエは無意識に手で顔を覆っていた。一番聞かれたくないことだったからだ。けれど、一つは質問に答えてやると約束してしまったのだから、無視するわけにはいかない。

「それってそんなに重要なこと?」
「はぁ?!当たり前でしょ?!むしろそれが一番重要なんだけど?!」
ナマエは溜息をつくと、ブレザーを握りしめる善逸の手を外す。不服そうな顔の善逸が彼女を睨む。
「ねぇ、どっち……」
「本命」
「………えっ」
「じゃあね」
顔から火が出てしまう前にとナマエは地面を蹴った。もちろん善逸が追いかけてくる様子はない。なぜなら彼は地面にへたり込んだまま、駆けてゆくナマエの後ろ姿を呆然と眺めていたからだ。しかし彼の心は温かく、幸せで満たされている。
ナマエのことをもっと知りたい、いろんなことを聞ききたいし、自分のことも知って欲しい、できれば連絡先も交換したい。ああ、早く月曜日にならないだろうか。今や善逸の頭の中はナマエのことでいっぱいだった。


本命チョコを渡してしまったナマエと、本命チョコをもらってしまった善逸。彼らが密かに青春していることが知れわたるのは、もはや時間の問題かと思われた。


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