身から出た錆

わたしの弟子である時透無一郎は、わたしなんかよりずっとずっと強い。わたしが彼の師範として剣技を指導したのはたった1ヶ月やそこらであったし、その後、無一郎はあっという間に『柱』にまで上り詰めた。そう、彼はわたしなんかよりずっとずっと優秀であり、正直わたしが彼の師範を名乗っていいのか?というのは、はなはだ疑問であった。

そんな無一郎の”名ばかり師範”であるわたしは、柱を務めるに値する器の人間ではなかった。しかし、その代わり鬼殺隊に所属する隊士たちの「剣技向上に向けた指導役」としての役職をもらった。お館様いわく、わたしは人に何かを教えることが非常に得意らしいのだ。(自分ではあまり自覚がないのだけど…)そのため、日々さまざまな隊士たちの鍛錬に付き合ったし、必要とあらば任務へも赴いた。つまり無一郎の師範でありつつ、今は隊士全員の師範としての役割も果たしているのである。

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空が白みはじめ、鳥たちのさえずりが聞こえてくる頃、わたしは目を覚ました。予定よりもだいぶ早い起床だったものの、心が浮かれているからなのか体が目覚めてしまう。仕方なく寝床から出ると、冷たい水で顔を洗ってから隊服に着替える。あの子が来るまで庭で素振りでもして体を温めておこう。

しかし、素振りで時間を潰すような必要はほとんどなかった。なぜならわたしが庭に下り立ち、木刀を振り始めてから約15分後、あの子が姿を現したからである。

眠そうな目をした無一郎は、庭でわたしの姿を見つけると一目散にこちらに駆けてくる。「師範」とわたしを呼ぶと、ふわりと表情を緩ませた。
「お久しぶりです、師範」
「うん、無一郎。といっても、わたしはあなたの活躍をよく耳にしているけどね」
「それは僕も同じです、毎日隊士たちの指導をしていると聞いてます」
それから無一郎は「鬼殺隊のために力を貸していただき、ありがとうございます」と言ってわたしに頭を下げた。

周りには不愛想だとか、毒舌だとか言われがちな無一郎だが、なぜかわたしにだけはこんな風に礼儀正しかった。そんな彼を見て、ほかの隊士たちは「ミョウジさんは時透さんに懐かれてますね」「ミョウジさんと一緒だと、時透さんってよく喋るんですね」などと言って目を丸くするのだった。

「それにしても、屋敷に来るのが早すぎない?」
「そういう師範こそ、こんな時間から素振りしてる」
「…まあ、その、目が覚めちゃったから」
わたしの言葉に無一郎はニヤリと笑う。それから片手に持っていた風呂敷をわたしの前に差し出した。
「そうじゃないかと思った。だから僕、おにぎり作ってきましたよ」
ときどきこういう人懐っこい話し方をする無一郎や、わたしを喜ばせようとする彼が、可愛くて仕方ない。わたしは喜んでその風呂敷を受け取り「お茶、淹れるよ」と言った。久しぶりの無一郎との朝食だ。


―――そもそもなぜ彼がわたしの屋敷に来たのかと言うと、今日は一日かけて複数の町を調査することになっているのだ。どの町もここ1ヶ月で奇怪な人死にが起こっており、それが鬼の仕業なのかどうか調べるのが我々の役目である。
無一郎が柱になってからは、共に任務に赴く機会はぐっと減ってしまった。だから今日は本当に久しぶりに彼と仕事をすることになる。

食事をとったあと、わたしたちは一休みすることなく町へ出かける。今日はかなりの長距離移動となるので、途中で列車を利用してもいいことになっていた。これじゃまるで無一郎と旅行に行くみたいだが、いくら可愛い愛弟子と一緒だからといって浮かれてはならない。胸ポケットに入れた列車の切符を軽く手で押さえてから気を引き締めた。

午前中に2つの町をまわった。町の中でわたしと無一郎は別行動を取り、それぞれ調査を行なったが、お互いこの2つの町は”シロ”(人死には鬼の仕業ではない)という結論に達した。また町に鬼の気配が微塵もなかったことも、この結論を強めた。

午後に訪れた3つ目の町は、町に入った時点で”クロ”だと感じた。妙な雰囲気なのだ。お互いこの違和感を共有しつつ調査を進めると、あれよあれよといううちに鬼の足跡が見えてくるではないか。しかし、昼間のうちに鬼が姿を現す可能性は低い。ここは鎹鴉を通してお館様に報告し、夕方以降、ほかの隊士を派遣してもらうことにする。

こうして調査を進めているうちに、ようやく最後の町にたどりついた。ここへは列車を利用しないとたどりつけないほど、山奥にある町だ。(「……師範。師範、もう着きますよ」そう言って無一郎がわたしの頬を無遠慮に突くまで、列車で爆睡してしまったのは内緒だ…)到着する頃にはすっかり日が暮れており、わたしたちは警戒しながら温かい灯篭が散りばめられたその町へ足を踏み入れる。


町へ入ってまず感じたのは、そこはかとない違和感と、それを打ち消してしまいそうなほど心地良い雰囲気だ。そのふたつは真逆の感覚であるのに、気を抜くとこの”心地良さ"に飲み込まれそうになる。不思議で異様な心地だ。
「師範、大丈夫ですか」
無一郎が心配そうにわたしの顔を見る。そんな彼を見てわたしは急に恥ずかしくなり、「なに言ってるの、大丈夫よ」と笑って見せた。わたしを慕ってくれている彼に、頼りない師範だなんて思われたくないからだ。

それから、これまでと同じようにわたしたちは二手に分かれて調査することにした。この時間帯は鬼が出没してもおかしくない。一層気を張り巡らせながら、わたしたちは町の奥へ奥へと入っていく。


鞠つきをしている小さな子どもがいた。こんな時間に遊んでいるなんて、危ないではないか。保護して親元まで送ろうと思い近寄ると、子どもは笑いながら駆けていく。まるでわたしを誘うかのような子どもに疑問を覚えながらも、後を追う。すると突然目の前に巨木が現れた。なぜこんなところに。本当に突然だ。むしろ子どもが巨木になったかのような錯覚を覚える。

違う、これは罠だ。

そう思ったときにはもう遅い。巨木から霧のようなものが噴射され、辺りに異臭が立ち込めた。同時にわたしの意識は遠のいていく。瞼が下りていく中、無一郎が無事なのか、それだけが気がかりだった。

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目の前に無一郎がいた。彼は目を見開いてこちらを見ている。顔は強張り、体も硬直しているみたいだ。たぶんそれは、わたしが発する言葉のせいだ。
「お前はわたしが育てた弟子の中で一番の出来損ないだ」
「お前は愛されていない。誰にも必要とされていない」
「自惚れ屋で自信家のお前を、誰も愛してはいない」
このような言葉が、次から次へとわたしの口から溢れてくるのだ。わたしの意識は混濁しており、誰かに乗っ取られている、という気持ち悪さが体中を支配している。けれど、自分の意思で体を取り戻すことはできない。焦りと虚脱感だけが募っていく。

「し、師範」
無一郎が振り絞ったような声でわたしを呼ぶ。
「馴れ馴れしくわたしを呼ぶな小童。わたしは…わたしはお前のことが大嫌いだ」
わたしの刺々しい言葉に、彼の顔から見る見るうちに血の気が引いていく。鬼の仕業とはいえ、わたしは無一郎を傷つけているのだ。無意識に涙が零れる。
「お前といると虫唾が走る。師範、師範と言いつつ、どうせお前はわたしを見下している。わたしを憐れんでいるんだろう」
「違う!僕は、あなたのことを…」
「黙れ!!ああ、鬱陶しい、気持ちが悪い!お前みたいなガキ、この世に生まれてこな……」
その瞬間わたしは自分の口を両手で塞いだ。間一髪だった。

この鬼が使っている血鬼術は、体を乗っ取るだけでなく、乗っ取った人間の記憶までも把握する力があるのだろう。わたしの口から出る言葉はまったく本心ではないが、記憶をもとに”無一郎が確実に傷つく言葉”を生成しているように思う。

両手が口から離れようとするので、自分の手に向かって歯を立てる。痛い、でもこの痛みがわたしを正気にさせる。口がもごもごと動き、呪詛の言葉を発しようとするが、歯を立てている限りその言葉は不明瞭に生み出されるだけだ。

「師範、いま楽にします」
無一郎が静かにそう言った。視線を上げると、無一郎が刀の鍔に手をかけている。
「師範の体を使って汚い言葉を吐かせたお前を許さない」
彼はわたしの後ろを睨んでいた。わたしは大人しく目を瞑る。噛みついた手からは血が滴っており、口内に錆の味を感じた。

突風が吹き、間を置かずに何かを切り裂く鋭い音が聞こえる。続いて醜い叫び声が上がり、わたしの体はふっと軽くなった。しかし目の前が真っ白になり、体を支えられなくなったわたしはそのまま前に倒れる。それを無一郎が受け止めてくれた。
「大丈夫ですよ、師範」
彼はわたしの背中に手をまわし、優しく抱きしめながらそう言った。そうしてわたしは再び意識を手放した。

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わたしが目を覚ました場所は、藤の家紋の屋敷の一室だった。清潔な布団に包まれ眠っていたらしい。起き上がると割れそうなほど頭が痛く、それから徐々に最悪な記憶が蘇ってくる。
「無一郎に、謝らなくちゃ…」
わたしは立ち上がると、障子戸を開けて廊下に出る。無一郎を探してふらふらと屋敷内をさまよっていると、隊服の裾を後ろから引っ張られた。振り返ると、呆れたような顔をした無一郎が立っている。
「怪我人は大人しく寝ててくれる?」
こういうとき、彼はわたしにもズゲズゲとした物言いになる。
「でも、」
「はいはい。いいから部屋に戻るよ、師範」
彼はわたしの手を引いて、先ほどの部屋に向かう。
「無一郎、待って。謝らせて」
「そんなのいらない」
「駄目だよ。鬼の仕業とはいえ、わたしは最低な言葉を君に浴びせた」
「でも鬼の仕業でしょ?じゃあいいじゃない、僕は気にしてない」
「だけど…」
無一郎は部屋の戸を開け、わたしを中に引き入れる。
「じゃあ、気にしてるのは師範のほうだ。僕に罵詈雑言を浴びせて気まずい、そういうことでしょ?」
彼はわたしを布団の上に座らせながら言う。その顔はいつもの飄々とした表情に見えるが、本当の気持ちは分からない。
「そうかも、しれないけど…」
「ふーん。じゃあ、前向きな言葉で上書きしたらいいんじゃない」
「……え?」
「僕に前向きな言葉、かけてよ。”無一郎は一番、出来の良い弟子だ”とかさ」
自分で言ってクスリと笑ってしまう無一郎。すると彼は調子が出てきたのか、その”前向きな言葉”の提案を続ける。

「ほら師範、言ってよ。”無一郎は一番、出来の良い弟子だ”って」
「む、無一郎は一番、出来の良い弟子だ」
「うん。剣技はどう?」
「えぇと、剣さばきも言うことなしで、あなたほど巧みに霞の呼吸を使える剣士はいないし…」
「じゃあ僕の人柄は?」
「うーん、生意気なところはあるけど、わたしには人懐っこくて、可愛くて、憎めないというか…」
「そんな僕のこと、師範は好き?」
「えっ?」
「……鬼のせいとはいえ、僕、師範に大嫌いだって言われて傷ついたんだけど」
無一郎は拗ねたような上目遣いでわたしを睨む。
「……もちろん、好きよ」
そう言うと、無一郎は弾かれたように目を輝かせる。
「本当?」
「え、ええ。可愛い弟子だもの」
「……あのさぁ。弟子とかそういうことじゃなくて………まあ、いいや」
それから彼は一歩わたしに詰め寄ると、一層笑みを深めながらこう言った。
「じゃあ師範、もっとたくさん”好き”って言ってよ。僕の心の傷が癒えるまで、もっと」
あのときの罵詈雑言は鬼の仕業なのだから気にしていない、と言っていた無一郎はどこに行ったのだろうか。しかし、言うことを聞いてやらないと彼がとんでもなく拗ねてしまうことは、目に見えている。わたしは溜息をつくと「好きよ」と言った。

「良い子で、強い無一郎が好き」
「うん」
「わたしに優しい無一郎が好き」
「うん」
「助けてくれてありがとう、好きよ」
「うん」
「それから……好き」
誉め言葉が尽きてしまい、好き、とだけ伝えると「うん、僕も好き」と無一郎が言った。わたしたちは見つめ合ったまま数秒の時を過ごす。
「え…」
「僕の初恋は師範だから」
このときになってようやくわたしは、自分が可愛い可愛い愛弟子のペースに乗せられていたのだと気づいた。
「ねぇ、師範は僕のことが好きなんでしょ?ってことは僕たち両想いだ」
否定する間も与えず、無一郎はわたしを抱きしめた。でも結果的にそれでよかったと思う。情けない師範のわたしは、『愛弟子』から『一人の男』に成長した無一郎にどうしようもなく動揺して、生娘のように顔を赤らめていたのだから。

身から出た錆が師弟関係をこうも変えてしまうだなんて、思ってもみなかった―――無一郎の体温を感じながら、わたしは密かに苦笑いをした。


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