純情と無鉄砲

杏寿郎には夫婦になりたいと思う女がいた。
女は町で商売をしている。といっても、その商売は定食屋でも呉服屋でもない。自分の描いた絵を売っているのだ。絵はどれも素晴らしく、それなりに売れるらしい。しかしなにぶん気ままな商売のため、気分が乗らなければ店は1週間でも2週間でも閉店となった。

女と出会ったのは、杏寿郎が任務帰りに河川敷を歩いていたときのこと。うららかに流れる小川の近くで絵を描いている女を見つけたのだ。どんな絵を描いているのか気になった杏寿郎は、女にそうっと近づく。しかし絵を覗こうとした瞬間、女はパッと顔を上げ杏寿郎を仰ぎ見た。じいっと女に見つめられ、杏寿郎は身動きが取れなくなった。女に派手さはないものの、その瞳にはキラキラと魅力的な輝きがある。不思議な時間だった。杏寿郎がその女を”綺麗だ”と思った瞬間、女が「綺麗」と言った。それから女は慌てて口を押さえ、視線を逸らす。
「ごめんなさい、あなたが綺麗だと思って」
「俺が、綺麗…?」
「ええ、とても澄んだ綺麗なひとに見えます」
このことをきっかけに、女と杏寿郎の交友関係がはじまった。またこんな風に、女が思ったことをすぐに口に出してしまう人間だということも、のちに分かった。


女は名をミョウジナマエという。
若くして両親を亡くしており、それからは自分の描いた絵を売って日銭を稼ぐようになった。ナマエの絵には一貫性がなかったが、どれも生き生きとしている。何気ない風景画もあれば、西洋風の肖像画を描くこともある。線と柄だけの前衛的な絵を生み出すこともあった。ただ、どんな絵を描くときもナマエは楽しんでいる。

ナマエは杏寿郎の屋敷がある町のふたつ隣にある小さな町に住んでいた。基本的にその町で店を開き商売をしているが、ときには別の町に足を運び絵を売ることもある。当然、杏寿郎の住む町まで来て絵を売ることもあった。そんなとき杏寿郎はナマエを屋敷に招き、思いきりもてなした。ナマエもそんな杏寿郎との時間を心から楽しんでいるようだった。

杏寿郎はあっという間にナマエに惚れ込んでしまった。一見儚げな柔らかな雰囲気をまとっているナマエだったが、実際は一本芯の通った自立心のある女であった。その辺の男が簡単に絆せるようなやわな女ではない。ナマエのそんなところも杏寿郎は好きだったし、尊敬していた。しかし、敬愛する気持ちはいつしか親愛の情へと変わっていく。彼女を一生かけて守りたい、共に幸せな人生を築きたいと思うようになっていったのである。

とはいえ、今さらどのように彼女へ求婚すべきか、杏寿郎には分からなかった。
「一緒になってくれ」「君と夫婦になりたい」そんな言葉をかけようとしたことは、幾度もあった。けれど気ままな自分の暮らしぶりを楽しそうに話してくれる彼女、さらさらと鉛筆や筆を操る彼女を見るたびに、杏寿郎はそれらの言葉を口にするのをとどまった。”夫婦”という形にナマエを縛り付けることが本当に彼女に幸せするのか?と疑問に思ったし、彼女が感じているであろう現在の心地よい関係を壊してしまうかもしれないことに、恐怖を感じずにいられなかったのである。

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杏寿郎はナマエと文通をしている。
ナマエは返事を書くのが遅いし、文章も短い。その代わり、いつも絵が添えてあった。杏寿郎にだけ向けられた世界でひとつだけの絵だ。その絵を見ることが杏寿郎はいつも楽しみだった。

しかしながら、今回ナマエは返事にえらく時間がかかっているようだった。屋敷にいるとき、杏寿郎は日に何度も郵便受けを見に行き、そのたびに小さく溜息をつく。作品作りに忙しいのかもしれないが、そんなときでもナマエの手紙はいつも7日〜10日程度で杏寿郎のもとに届いた。それなのにもう2週間……いや、そろそろナマエから手紙が途絶えて3週間になる。もし郵便受けに手紙が入っていたら持ってくるようにと鎹鴉に命令はしているが、彼らが嘴に封筒を挟んで飛んでくる様子もとんとない。任務をこなしながらも、杏寿郎の頭の中はナマエのことでいっぱいだった。

―――ナマエから手紙が途絶えてとうとう1ヶ月が経った。
もう彼女の店に行って安否を確認するしかないと思った杏寿郎は、任務終わりのその足でナマエが住む町へ向かった。明け方のことだった。こんな朝早くに訪ねたって店が開いているはずがないのに、それでも急く気持ちを抑えることができなかった。

「……む」
ナマエの店の前までたどり着いた杏寿郎は人知れず唸る。灯りはついていないものの、彼女の店が開いているのだ。ナマエの店はちょっとした画廊のようになっており、8畳ほどの店内に小さな机と椅子がある以外は、彼女の作品が壁に雑然と飾られているだけだ。そしてその奥に平屋の彼女の住まいが続いている。杏寿郎は彼女の家の居間で数回茶を飲んだことがあった。店に入ると迷わず画廊を抜け、引き戸を開けた。その瞬間、杏寿郎は息を呑む。そこ、居間には乱れた着物のナマエが倒れているではないか。杏寿郎は慌ててナマエを抱き起すと、呼吸をたしかめる。息は…している。というより、安らかな寝息さえ聞こえる。

そう、ナマエは寝ていたのだ。
しかし着物から露わになった手足にはところどころ傷があり、着物と顔には土などの汚れが付着している部分もある。杏寿郎は何が何だか分からなかったが、とりあえずナマエが無事であることに喜んだ。そうしてナマエはそのまま1時間ほど杏寿郎に介抱されたまま眠りこけた。

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「心配をかけてごめんなさい」
杏寿郎の勧めもあり、湯浴みをし、清潔な着物に着替えたナマエは恥ずかしそう言った。
「珍しい西洋の絵の具を扱っている店があると聞いて、少し遠くまで出かけていたの。絵の具は問題なく手に入ったわ。でもその帰り、盗賊に襲われて……」
温かい茶を飲もうとした杏寿郎が、驚いて湯飲みを取り落としそうになる。
「わたし、どうしてもこの絵の具だけは渡したくなくて、すごく抵抗したの」
「て、抵抗って言ったって、君は丸腰だろう?」
「ええ。でも、火事場の馬鹿力って言うのかな……とにかくめちゃくちゃに抵抗して、抵抗しまくって。その結果、こうやって絵の具も命も無事に、家まで帰ってこれたってわけ。まあ帰って来たのは今朝なんだけど」
彼女が死守したという西洋の絵の具(油彩絵具というらしい)のチューブや、パレットと呼ばれる不思議な形の皿のような道具を眺めながら、杏寿郎は長い長い溜息をついた。

「えぇと、怒っている…の?」
ナマエは空気が読めない女ではなかった。杏寿郎からただならぬ気配を感じ、恐る恐る尋ねる。
「ああ、そうだな。怒っているというか、呆れているというか……」
杏寿郎は両腕を組むと、目に力を込めてナマエを見つめる。彼女はビクリとして居住まいをただした。
「ナマエ、君は無鉄砲すぎる。どうか自分の命を粗末に扱わないでくれ」
「だけど……」
「君の絵に対する情熱は十二分に理解している。君の作品は素敵だし、絵の可能性を広げるのも素晴らしいことだ。だけど、だからといって命まで天秤にかけてはいけない。今回は運よく盗賊の手を免れることができたが…下手をしたら命まで奪われていたかもしれないんだぞ」
「………」
「そんなことになったら、俺は……悲しい。きっと、二度と立ち直れない」
杏寿郎は片手を伸ばし、行儀よく膝の上に乗っているナマエの手に自身を重ねた。
「俺には君がいないとダメなんだ。だって俺は君を愛しているから」
それから二人のあいだに、しばし沈黙が流れた。


ナマエはぶるぶると震えていた。そして、震える唇を開いて杏寿郎に尋ねる。
「杏寿郎、それはその……本気?」
彼女の言葉に杏寿郎は困ったように眉を下げ笑う。
「ああ、本気だとも。もうずいぶんと前からナマエを愛している。そして迷惑でなければ、俺はきちんと君に求婚したいんだが……」
「迷惑なわけ、ない……でも、どうして…わたしなんか」
「違う。君だから、だ」
やっと自分の想いを告げることができると、杏寿郎は体中に喜びを感じていた。そしてナマエの前まで移動すると、自身もきっちりと正座になって彼女と向き合う。
「ナマエ、俺は君と夫婦になりたい。ずっと君を愛し、守り続け、一秒でも長く幸福な時間を共にしたい。どうか俺の想いを受け取ってくれないだろうか?」
そう言って杏寿郎は温かい眼差しでナマエに微笑む。
「あ、えっと、わたし…その、」
ナマエは真っ赤になりながら、そわそわと自分の手を握ったり開いたりする。
「杏寿郎が、好き。…あ!じゃなくて、ええっと……!」
また思ったことを口にしてしまった、というように自分の口を押さえたあと、ナマエは控えめな照れ笑いを浮かべながら続けた。
「あ、ありがとう。……わたしもあなたと、夫婦になりたい」
互いに伸ばした手が触れ、握り合い、堅く結ばれる。手の中の熱を通じ、互いの気持ちが手に取るように分かった。そしてこの手を決して離すまいと、杏寿郎は強い愛おしさを感じながらナマエの手を強く握り直した。


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