浪漫なんか、まだ早い

「……寒い」
呻くように漏れたその言葉は、わたしにしか聞こえない程度の声量であったのに、目の前を歩いている炭治郎は耳ざとくそれを聞きつけた。そうして、はじけるようにこちらを振り返ると、意気揚々とわたしに片手を差し出した。
「大丈夫か?!今日は一段と冷え込んでいるからな。ほら…俺の手、あったかいんだ」
それをわたしは、寒さで強張った顔で丁重にお断りする。このやり取りを何度繰り返したか分からない。「いらない」「大丈夫」そう言って断っているのに、炭治郎はなおも握手するように手を差し出しながら「俺、人より体温が高いんだ」「少しだけでも体温を分けたい」などと言う。
「あのねぇ、気持ちはありがたいけど、わたしたち遠足に来てるわけじゃないのよ。そんな風におてて繋いで任務が務まると思う?」
思わず棘のある言葉を吐いてしまうと、炭治郎は見るからにしょんぼりとした。もとはと言えば、わたしが寒いと言ったのが原因なのだし、ここまで言う必要はなかったかもしれないと、慌てて言葉を付け足す。
「えぇと……だから、その、気遣いは嬉しいんだけど、本当に大丈夫だから。それと、もう寒いなんて言わない…気を付ける」
わたしの言葉に、炭治郎は心配そうに眉根を寄せていたが、やがて「そうか」と言って遠慮がちに微笑んだ。


今日は炭治郎と、人里離れた奥深い山での任務である。
しかもこの季節――真冬に山奥となれば、耐え難いほどの寒さが体を襲うというものだ。おまけに山に入ってから間もなくすると雪まで降り始め、その白いふわふわとしたモノはあっと言う間に地面を覆いつくしてしまった。雪が降り始めてからは、さらに突き刺すような寒さが強まり、体を動かしていないとすぐに体温が下がってしまいそうだった。だからわたしたちは、ずっと足を動かし続けていたのだが、それでも刻一刻と体温が奪われていくこの状況に我慢できず、「寒い」という言葉が口の端から零れ落ちてしまったのである。

わたしがあまりに寒い寒いというものだから、長男である炭治郎の性分を駆り立ててしまったのか、彼はわたしのために湯を沸かしてみたり、首巻きを貸してくれたりと、しきりに面倒を見てくれた。そして最終的に彼は、わたしの手を取りたがった。温かい自分の手を握れば、少しは暖を取れるだろうと、そう言うのだ。いや、そんなことより焚き火を起こしてくれ…と思ったのだが、着実に雪の勢いが増している今、手軽に暖を取る方法としては”手を繋ぐ”が一番現実的な方法なのかもしれない。

でも、寒いからと仲間隊士と手を繋ぐなんて、なんか間抜けだ。これから鬼の頸を切りにいくというのに、手を繋いで仲良く山を歩くなんて…あまりに呑気すぎやしないか。だから、わたしは炭治郎の申し出を頑なに断っていたのだった。


しかしながら、件の鬼は一向に見つからなかった。どんなに山道を歩き、探せど、異様な雰囲気も臭いも一切感じられない。まさか、もともと鬼はこの山に潜んでいるわけではなかったのか?それとももう別の場所へ移動してしまったのか?何度と無くそんなことを考える。
そうして鬼が見つからない一方で、わたしの体はますます凍えていった。手はしもやけで真っ赤になり、今や爪先の感覚もない。頬は氷のように冷たくなり、瞬きをするのも精一杯だった。見かねた炭治郎が小さな洞穴にわたしを引っ張り込んだ。
「ナマエ、唇がすっかり紫色じゃないか…!いったんここで雪をしのごう」
炭治郎はわたしの頭や肩に積もった雪を払いながらそう言った。

薄暗い洞穴は雪こそ入り込んでこないが、だからと言って温かいわけではない。堅い岩の上に座っていると底冷えがひどく、寒さが体を這い上がってくる。かといってウロウロと体を動かし続ける体力はもうなかった。
膝を抱えて丸くなるわたしの背中を、ゆっくりと炭治郎は撫でてくれる。彼の撫でた場所は温かく、その体温は隊服越しにでも分かった。彼が人より体温が高い、というのは本当かもしれない。

「恐らくだが、鬼はもうこの山にはいない。何らかの方法で、俺たち鬼殺隊がここに来るのを知って、別の場所に逃げたのかもしれないな。もしくは、この大雪に紛れて人里に降りてしまったか…」
「だったら、早く村の方にも行かないと」
「ああ。だけど、もう少しだけ体力が回復するのを待とう」
正直、ヘトヘトになっているのはわたしだけだ。それなのに、炭治郎はわたしを急かすわけでもなく休ませてくれている。この男は、あまりに人が良い。だが、それがわたしを焦らせたのもたしかだった。

岩壁に寄り掛かり、降りしきる雪を眺めている炭治郎に向かって手を伸ばす。雪に濡れた羽織の裾を引っ張ると、ひどく驚いた様子の炭治郎がわたしを見下ろした。
「手を、」
「えっ…え?手?」
「うん、炭治郎の手」
一瞬ポカンとした彼だったが、慌ててわたしの前に来て膝をつくと、やや緊張した面持ちで片手を差し出した。わたしはその手を取ると、今度は空いている方の自分の手を炭治郎に差し出した。
「もう一つも、貸してよ」
「あ、あぁ」
こうしてわたしたちは向かい合い、両手を握り合う格好になった。

たしかに、炭治郎の手はとても温かかった。氷のように冷たかったわたしの手が、指先からジワジワと体温を取り戻していくのを感じる。彼の手があまりに温かいので、気を抜けば眠ってしまいそうだった。
もちろんこの格好が恥ずかしくないわけではない。むしろ、恥ずかしい。恥ずかしいけれど、一刻も早く体を温め、体温と体力を取り戻すには、こうするのが一番いいと思ったのだ。

「あ、のさ」
「ど、どうした?!」
「そんなに見ないでくれると…助かる」
炭治郎は穴が開くんじゃないかというほど、真っすぐにわたしの顔を見つめていた。おまけに、少しずつ顔が近づいている気すらする。いたたまれなくなり、見つめてくれるなと頼むと、返って来たのは意外な返事だった。
「申し訳ないが、それはちょっと…難しい」
「え?」
「だって、こんな好機…滅多にないだろ?ナマエの手を握れて、こんなに近くで顔を見れて」
炭治郎の目はキラキラしていた。いや、ギラギラしていた、と言っても過言ではない。その目の輝きを認識した瞬間、わたしは彼の手の中から勢いよく自分の手を引き抜いた。彼の手は火傷しそうなほど熱くなっていたと気づいたのも、この時だった。

「はい、ありがとう。温まりました」
わたしは隊服の襟を整えながら立ち上がる。呆気に取られ、中途半端に両手を伸ばしたままの炭治郎が、こちらを見上げていた。
「そ…それはないだろう、ナマエ。せっかくっていう時に…」
「なんのこと?炭治郎が暖を取るのを手伝ってくれるっていうから、ちょっと手を借りただけよ」
「そんな……!俺は、俺はついに君と気持ちが通じ合えたんだって…」
立ち上がってわたしに迫ろうとする炭治郎をするりと交わし、洞穴の入口へ向かう。幾分弱まった雪を見ながら、わたしは細く溜息をついた。

炭治郎が、わたしに”気がある”ことは、もうずいぶんと前から知っていた。だけど、わたしは彼と良き仲間同士でいたいから、勘違いさせるような言動は極力慎んでいたのだ。それなのに、今回わたしは小さな失敗をおかしてしまった。自分から、炭治郎の手を取ってしまったのだ。
しかし一方で、これは仕方がない、不可抗力だ、と弁解する自分もいる。だってこの寒さの中、彼の体温はあまりに魅力的すぎた。凍死したくなければ、炭治郎で暖を取るしかなかった。だがそれは結果的に「浪漫がはじまる」と炭治郎に期待を与えてしまったのだ。

恨めし気な顔をした炭治郎がわたしの横に立つ。その顔を見ないようにしながら、「じゃあ行こうか」と言って足を踏み出そうとすると、強く腕を引かれた。素早く体を回転させ、両手を前に突き出す。案の定、彼は後ろからわたしを抱きすくめようとしていたらしいのだが、わたしが腕を突っ張らせることによりそれは失敗に終わった。
「ごめんね、勘違いさせる気はなかった」
「…ってことは、俺の気持ちに気づいてたんじゃないか」
「気づかないわけがないわ。炭治郎、分かりやすすぎるもの」
なおも、無理矢理にわたしを抱きしめようとするが、わたしの両手が炭治郎の胸を強く押しているので、一向に体は密着しない。
「ナマエ、俺は君が、」
「あーーーっやめて、言わないで、そういうこと今言わないで。今後の任務に影響するから」
「嫌だ!俺は君が、す…」
彼が言葉を言い終える前に、思いきり足を踏みつける。本当はこんなことしたくなかったけれど、暴走する炭治郎を止めるにはこれしかなかった。

炭治郎が痛みに顔を歪めた隙に、彼の腕の中から抜け出す。再び洞穴の入口から顔を出すと、雪はもうほとんど降っておらず、それどころか先ほどまでどんよりと曇っていた空から、一筋の光が差し込んでいた。
なるほど。たしかに、雪が降りしきる中、洞穴に逃げ込む男女が手を握り合い暖を取る…という要素だけで見れば、そこから浪漫が始まってもおかしくなかったのかもしれない。しかし、空を割って差し込むその光は、そんな安っぽい浪漫を一笑するかのような清々しい光に見えた。「お前たちに浪漫なんか、まだ早い」――空に、そう笑われているような気がした。


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