嘘つきと正直者(中編2)

「へ…?あの人、もうここを出たの?」
次の日、善逸が見舞いのために蝶屋敷を訪れると、そこにナマエの姿はなかった。なんでも朝早くに屋敷を出てしまったらしい。
「まあ、ナマエさんは元から蝶屋敷にあまり滞在しない人ですから。骨折くらいなら自力で治してしまいますし、痛み止めさえあれば負傷中の身とはいえ、戦闘にも出てしまいます。無茶はしないでほしいって、いつも言っているんですけどね…」
アオイが平然とそんなことを言うものだから、善逸はたまげてしまった。彼の周りで体が丈夫な人間と言えば伊之助だが、もしかしたらナマエは伊之助の上を行く丈夫で忍耐強い人間なのかもしれない。
「で、そのナマエさんは今どこにいるわけ?」
「さあ…。あの人の行動は誰も読めないので…」
改めて善逸は、自分がなんとも不思議な女性を追いかけているのだと気づかされた。

それから数日後、善逸は炭治郎から「ナマエと任務が一緒になった」という話を聞いた。彼女は救援と言う形で途中から任務に加わり、後輩隊士たちの戦闘に助勢したあと、ふらりと姿を消してしまったそうだ。
「片腕を庇うように戦っていたから、怪我をしてるのかなとは思っていたんだ。でもまさか、骨折していたなんて…すごい人だね、ナマエさんは」
感嘆しながら話す炭治郎に、先を急ぐかのように「それで?」と善逸が被せる。
「それであの人の行方は?どこかへ行くとか言ってなかった?」
「いいや…気づけばいなくなっていたから、どこへ行ったかは誰も知らないんじゃないかな」
ガクリと肩を落とした善逸だったが、一方で彼女が戦いに加われるほど回復していることに安心し、またもう一方でそんな無茶な戦い方をしていることに呆れた。

それからさらに1週間後、善逸は再び仲間隊士の一人からナマエの情報を仕入れた。単独任務に赴いていたその隊士の応援に駆け付けたのがナマエだったというのだ。戦闘後、腕をさすっていたのでどうしたのかと聞くと「少し前に骨折した腕がまだちょっと痛い」と笑っていたのだとか。そして隊士が、念のため蝶屋敷で見てもらった方がいいと提言すると、「そうする」と彼女は素直に頷いたそうだ。

これは有力な情報だと善逸は色めきだつも、蝶屋敷へ直行するようなことはしなかった。のらりくらりと行き先を変えるナマエのことだ。途中で別の任務に加わるとも限らないし、まだ痛み止めの薬で症状を誤魔化している可能性もある。とりあえず、鎹烏のチュン太郎に蝶屋敷付近を探索するよう指示を出し、善逸自身は任務をこなしつつも、周りへ聞き込みを行ない続けた。

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しかし数日後、ナマエとは願ってもない形で再会することになる。単独任務に赴いていた善逸のもとへ、ナマエが応援にやって来たのである。形成が悪く、額から血を流しながら鬼に応戦する善逸を見て、一瞬顔を曇らせたナマエだったが、すぐに戦いへ加わった。任務に私情は挟まない主義のようだ。
相手は2人がかりで挑んでも手こずるほど、しぶとい鬼だった。だから、善逸の刀がどうにか鬼の頸をはねたときには夜明けも間近で、善逸もナマエもドロドロに疲弊していた。

「ナマエさん!大丈夫?!」
その場にしゃがみ込み、疲労の余韻を味わっているナマエへ、善逸が這うようにして駆け寄る。戦闘の際、片目付近を鬼に斬られたらしい善逸は、傷から血を流し続けて瞼が開けられない状態だった。ギョッとしたナマエは、慌てて手ぬぐいを出して、彼の傷口に押し当てる。
「大丈夫?って…君の方が、全然大丈夫じゃないよね」
「へぇっ…?!ちょ、あ、ナマエさん……?!」
「変な声出さないでよ、今応急処置をするから」
それからナマエは懐から出した塗り薬やガーゼを使って、善逸へ簡単な治療をした。まずはこれ以上、悪化しないための応急処置だ。その間、善逸は心臓が口から飛び出そうなほどドキドキしていた。

「君、蝶屋敷へ行きなよ」
伸びをしながら立ち上がったナマエが、善逸を見下ろしながら言う。
「それならナマエさんだって…その腕、まだ完治してないだろ」
「こんなもの、とっくに治ってるよ。あいにく、体だけは丈夫なものでね」
そう言って皮肉っぽく笑う彼女に善逸は、彼女がいつもの張り付けた笑顔を見せていないことに気づく。とはいえ、やっぱり彼女は嘘をついていると思った。だから善逸は、少々乱暴な手段でその”嘘”を暴いてやろうと思った。

「ナマエさん…起こして」
善逸は彼女に向かって右手を差し出した。その手を一瞥した彼女は、嫌なものを見るかのように顔を歪めたが、慌ててその表情を散らす。努めて穏やかな顔を装いながら、怪我をしていない方の手を差し出そうとした。それを見て善逸は、ナマエの”怪我をしている方の手”に飛びついた。
「……ッう!」
善逸が軽く体重をかけた瞬間、ナマエの口から押し殺したような呻き声が漏れる。それから彼女は、善逸に手を引かれたまま、まったくの無抵抗になった。「えっ」と善逸が薄く唇を開いたが、もう遅い。彼女は善逸の上に乗り上げるようにして、勢いよく倒れ込んだのだ。


本来、男女がもつれるように倒れ込む場合、男の上に女が馬乗りになるようなやや破廉恥な体勢になることが望まれる。どんな時代でもそれが男の浪漫だからだ。しかし、現実は甘くない。今や呻き声を上げているのは善逸の方であり、そんな彼を冷ややかな目で見下ろしているのがナマエだった。

今、ナマエは善逸の腹のうえに完全に乗り上げている格好で、膝立ちをしたその両膝は善逸のみぞおちに深く食い込んでいる。体勢が崩れたときに手をついた場所は善逸の肺あたりで、勢いよく肺を圧迫された善逸は一瞬呼吸ができなくなった。しかし、ナマエが善逸に悪びれる気は一つもなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい…俺が悪かったです、全部俺が悪かったです。本当にごめんなさい…ナマエさんの腕を引いて試すようなことをして本当にごめんなさい。もう二度とこんなことはしませんから、どうか俺の上から降りてください……」
真っ青な善逸が詫び事を繰り返すのを無表情で聞き終えた後、彼女は静かに彼の上から降りた。そしてゆっくりと半身を起こした善逸は、青ざめた顔で自身のみぞおちを丁寧にさすった。

たしかに、ナマエの折れた腕は「完治」とは言いにくかった。たとえば腕を回そうとすればまだ鈍痛が走るし、戦いに不安がないと言えば嘘になる。しかし、完治したかのように振る舞い、周りに弱みを見せないのは、もはやナマエの癖だった。弱っているところを見せれば男に狩られる――昔学んだその危機意識は、今もなお彼女から抜けないのである。

だが、そんな癖など知る由もない善逸は、彼女のことが心配でたまらない。そして、なぜそんなに我慢してしまうのか、自分に嘘をついてまで戦いに加わるのか、まったくもって意味が分からなかった。それは彼自身が我慢強さや忍耐強さから程遠い人間ということもあるだろう。


「あの…さっきのは悪かったけどさ。でも俺、その腕ちゃんと治療したほうがいいと思うの!」
「はあ、まだその話?わたしが大丈夫と言っているんだから、大丈夫」
「いや、でもさぁ!今は大丈夫でも、いずれは取り返しのつかないことになっちゃうよ?」
「じゃあそのときは、そのときね。わたしの体が使い物にならなくなったら、隊士を引退して隠にでもなろうかしら」
「だーかーらー!ナマエさんってなんでいつもそう、刹那的なの?!なんでもっと自分のこと大事にできないの?!」
「…君って本当にうるさいね。もしかしていろいろ命令して、女を思い通りに動かしたい感じの男?」
「はぁ?!俺、別にそういう意味で言ってるわけじゃ……あーーっもう!なんで伝わんないかなぁ!!」
善逸は怒りのあまり頬を紅潮させながら、気だるげな様子で立ち尽くしている彼女に人差し指を突きつけた。

「俺は!あんたのことが大事だから、心配だから、治療してくれって言ってんの!大事な人が、自分のことを大事にしないって辛すぎるんだよ、分かる?!そりゃね、結局はぜんぶ俺都合な発言だろうけど、そこにあんたを従わせたいとか、そういう気持ちは一切ないから!つーか、それぐらい分かれよ!!鈍すぎかよ!!!」
最後の方はほとんど”文句”に近かったが、善逸があまりにも真剣にナマエを叱るものだから、彼女はすっかり圧倒されてしまった。これまで出会った男性隊士たちは、彼女を押さえつけようと威圧的な態度を取るか、媚びへつらうような態度の者しかいなかったからだ。

「ちょっと!なに、なんなのその顔は!!俺なんかおかしなこと言いました?!」
「…おかしなこと、ずっと言ってるよ」
ナマエは戸惑ったような訝しげな表情で善逸を見つめた。
「まずさ、なんでわたしのことを大事に思うのか分からない。だってわたし、君に特別親切にした覚えがないもの」
「待って、そこから…?あのねぇ、大事にしたいって思うのに、特別な理由なんかいらないんだよ」
当たり前だと言うように善逸がそう答えたが、ナマエはまったくピンと来ていない。それを見て、バツが悪そうな顔をしながら、再び善逸が口を開いた。
「だから!!好きになるのに理由なんていらないの!そうでしょ?ナマエさんのこと、いいなって思っちゃったんだからしょうがないじゃん!!…ああもうっ、こんなこと言わせないでくれる?!」
そう言って善逸は、痺れを切らしたみたいに突然立ち上がった。それからズイと足を踏み出し、ナマエに近寄る。相当頭に血がのぼっているようで、口が止まらない。

「正直俺だって、なんであんたみたいな人、好きになっちゃったか分からないよ!いっつも俺の手からすり抜けて、全然捕まえられる気がしない…。でも、それでも俺はあんたを大事にしたいんだよ!たとえ恋が成就しなくても、愛し合う関係になれなくても、好きだと思う人を大事にしたい気持ちは変わらないんだよ!!」
善逸の言っていることすべてが、痛いぐらいに真っすぐな愛の叫びだということは、さすがのナマエでも分かった。だから、混乱した。まったく理解が追いつかなかった。そうして彼女は、まるで珍妙なものでも見るように、こわごわと善逸を見つめ直した。

「あ…あのさ、君、我妻くんさ、ちょっと……変だよ」
愛する人に”変”と言われ、一瞬目を剥いた善逸だったが、すぐに口をへの字にして拗ねたような態度になる。
「俺が変人なら、あんたも相当な変人だけどね!…ま、いいんじゃない?変人同士、俺たち相性がいいと思うけど」
それから善逸はナマエの頬についた土汚れをグイと親指で拭った。
「そんであんたは、そんな変人である俺に好かれちゃったこと…覚悟してよね」
言葉の軽さの割に真剣な表情をしていた善逸の動作が、あまりに自然だったものだから、ナマエは彼が自分に触れてきたことにしばらく気づかなかった。


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