嘘つきと正直者(後編・完結)

善逸から、愛の告白と文句がない交ぜになったような叱責を受けたあと、ナマエは素直に蝶屋敷へ行き、腕の治療をした。ナマエが素直に治療に来るなど初めてのことだったので、蝶屋敷の看護師たちは大いに驚いた。
当たり前のことだが、万全な状態で臨む任務は不要な怪我を負う確率が下がり、効率良く鬼を狩ることができる。怪我をしたまま騙し騙し臨んでいた任務よりも、各段に早く鬼の頸を切ることができたナマエは、今後はきちんと怪我を治してから任務に復帰しようと密かに反省した。

はたから見ると、ナマエは完全にこれまで通り――面倒事に巻き込まれないよう、のらりくらりと交わしながらも、自分の仕事を全うする――のように見えたが、内実は違った。ナマエの頭の片隅には、いつも小さなモヤモヤが存在していたのだ。それは、善逸に激しく叱責された、あの日からずっと。
ナマエは、善逸が本気で自分に好意を寄せている事実を冷静に受け止めていた。異性から好意を寄せられることは初めてではないし、それによって心が乱されることもない。ただ、あれほど激しく(半ば怒りながら)想いをぶつけられたのは初めてだったため、少なからず動揺した。……いや、あれは強烈な記憶として彼女の中に刻まれた。
だからだろう。
ナマエは朝起きたときも、任務に向かっている途中も、鬼の頸を切ったあとも、何となくモヤモヤしていた。この世界のどこかに、あんなに大声で愛を叫んでくれる人間がいるんだ。そう思うと、モヤモヤがムズムズに変わり、思わずブルリと体を震わせるのだった。


ナマエが見知らぬ男に絡まれたのは、そんなモヤモヤを抱き続けて数日が経った頃だった。
鬼の調査のために赴いた町の定食屋で食事を済ませ、お勘定をしたときから、彼女は嫌な視線を感じていた。それでも気にせず店を出て、薄暗くなりはじめた空をチラと目の端で捉えつつ、寂れた商店街を進んで行くと、案の定自分以外の足音がついてくる。ナマエは小さく溜息をついてから、後ろを振り返る。するとそこには、和装姿の見目麗しい若い男が経っていた。

男はニコニコと愛想よく笑みを浮かべながら、近づいてくる。先輩隊士である甘露寺蜜璃であれば、きゃあ、と歓喜の悲鳴を上げそうだ。しかし、明らかに厭らしい好意を持って、後をつけてきたであろうその男の姿にナマエはうんざりした。鬼殺隊の男であれば手荒な真似をしてでも切り捨てたってかまわないが、相手は丸腰の町人だ。こういう男をいなすのが一番面倒なのだ。

「お姉さん、この町は初めてだろう?今日、泊まるアテはあるのかい?暗くなってきたし、君みたいな素敵な女性が一人でフラついていたら危ないよ。だから僕はこうして後を追ってきたんだ」
男は甘い猫なで声でそんなことを言う。ナマエは舌打ちしそうになるのを何とか我慢してから、無理矢理に張り付いたような笑顔を浮かべた。
「どうぞ、お気遣いなく。今日はこの町には泊まりませんので」
ナマエの笑顔に気を良くした男は、腕を伸ばし、彼女の手を取る。男の手が自分の手を包み込む温度と湿った感触に、ナマエはぞわりと全身に鳥肌が立った。
「そんなことを言って僕から逃げようたって無駄だよ。まどろっこしいことはなしだ。僕は君に惚れてしまったのさ。今日は僕の家に来るといい、盛大にもてなしてあげるからさ…」
息がかかりそうなほど顔を寄せてくる男に、生理的な嫌悪感を抑えられず、ナマエは顔を逸らす。歪めた顔を相手に見せない、精一杯の配慮だ。だが、それがまた男心をくすぐったらしい。男はなおもしつこくナマエを口説いた。
「ねぇ、これはきっと運命なんだ。僕たちが一つになるため、神様に仕組まれた運命だ。だから心配しなくていい、僕にすべて任せて……」
”運命”という言葉の甘さとくだらなさに、ナマエは吐き気を覚える。そして、頭にのぼった血が段々と冷えてゆくのを感じた。

…だから嫌なんだ、男っていうのは。女を下に見て、あわよくば組み敷こうとして。そんな男には制裁を加えて当然じゃないのか?そんな想いがナマエの頭の中に溢れる。

すっかり黙り込んでしまったナマエを、男がにやけ顔で覗き込もうとする。まずは目の端に見える、隆起した喉仏を一突きしてやろう、そう思ってナマエが腕を上げた瞬間、背後から「あのぉ、大丈夫ですか?」と声をかけられた。


男とナマエが同時に振り返ると、そこには怪訝な顔をした我妻善逸が立っていた。男の姿に隠れ、ナマエがそこにいると気づかなかったのだろう。男に絡まれていたのがナマエだと気づくや否や、善逸は血相を変え、「はあぁ?!ちょっ、あんた、なにやってんだよ!!」と男とナマエの間に無理矢理割って入った。
「えっ、うそ、なんでナマエさんがここにいるの?まさか、俺を追いかけてきてくれたの?!いや、違うよね、違うと思うけど、そうだったらいいな!!」
男をひと睨みしたあと、ナマエに向かって希望的観測をまくしたてる善逸に、彼女は「……調査だよ」と一言返す。
「調査?え、俺も調査なんだけど…っていうか、ナマエさんこの調査から外れたはずでしょ?」
ナマエは一瞬、思考が停止する。その間にも、善逸が事の仔細をとうとうと並べ立てた。

「俺、詳しいことは分かんないけど、たしかナマエさんが別の任務と被っちゃったんだよね?だから、替わりに俺がこの町の調査に駆り出されて…。でも、ここに来てるってことは、任務の方は早く終ったのかな?いずれにせよ、ナマエさんはこの町に来なくていいはずだったと思うんだけど…」
善逸がすべてを語り終える前に、ナマエはすべてを思い出した。

今、ナマエは任務明けの疲弊した体でこの町に来ている。しかし、善逸の言う通り、本来彼女はこの町に来なくてよかった。なぜなら善逸が代わりにこの町の調査をすることになっていたからだ。それなのに、彼女はこの調査に代理があてがわれたことなどすっかり忘れて、任務後の体に鞭を打ちここまでやって来たのだ。

こんなこと初めてだ、とナマエはこめかみを抑える。
きっと、あのモヤモヤのせいだ。今日も朝から、そして任務中も、ずっとモヤモヤしていた。最近このモヤモヤのせいで、ぼうっとしてしまうこともある。だから予定が変更されたことも忘れて、この町に来てしまった。

そんな彼女の様子を見て、善逸はすべてを察した。ナマエが誤ってこの町に来てしまったことは、正直彼にとって嬉しい誤算ではあったが、おかげで彼女が変な男に絡まれてしまったのはいただけない。さて、この気に食わない男をどうしてやろう、と考えたところで、善逸は突然その男に突き飛ばされる。尻餅こそつかなかったが、不意を突かれた善逸は身体がよろけてしまった。

「お前が彼女のなんなのかは知らないけれど、僕たちはもう共に一夜を過ごすことになっているんだ。そういう”運命”なんでね。邪魔者はさっさと消えてくれないかな?」
そういってナマエの肩を抱こうとする男の手を、すかさず善逸が掴んで止める。その額にはひっそりと青筋が立っていた。
「へぇ、運命…?あんた面白いこと言うね。だったら、俺が調査に来ているこの町にナマエさんが来ちゃったことの方が、何倍も運命的だと思いますけどね!」
軽口を叩きながらも、善逸がギリギリと腕を捩じり上げるため、男は情けない声を上げる。
そうして善逸は、ズイと男に顔を寄せて凄んだ。今や彼は完全に”キレる”一歩手前であった。
「…あのね、俺もだいぶギリギリなの。本気で怒ったら、あんたに何するか分かんない。腕の一本や二本、簡単にいっちゃうかも。だから、ここは大人しく引いてくんねぇか?彼女、俺の大事なひとなんだ」
善逸の気迫に押し負けた男は、青ざめた顔を何度も縦に振る。そしてナマエはそんな二人の様子を、少し離れた場所でただただ傍観しているしかなかった。


男がよたよたと情けない格好で走り去っていくのを見届けたあと、善逸がナマエのもとへ戻ってくる。男に凄んでいた先ほどまでの恐ろしい顔とは打って変わって、いつもの困ったような笑みを浮かべている。そして、そんな善逸からはナマエへの溢れんばかりの好意が見て取れた。
自分に好意を抱く異性が目の前にいる、という意味では、先ほどの状況とほとんど大差ない。それなのに、どこかホッとしている、それどころかこの状況を好ましく思っている自分がいることに、ナマエは驚いた。
なぜ?どうして?と思考するよりも先に、じわじわと頬に熱が帯びてくる。そして、そんなナマエを見て善逸の頬も紅潮する。
そうして、善逸がポツリとこぼした。
「ナマエさん…なんでそんな可愛い顔してんの?」

+++

藤の花の家紋の屋敷へ向かうあいだ、二人は始終無言だった。しかし耳の良い善逸は、ナマエの心音などから彼女の心情の変化にとっくに気づいていた。ただ、本人の前では気づかないフリをしてあげる。それが彼の優しさだ。
またナマエはと言うと、自分の気持ちに半ばついていけなかった。ナマエは馬鹿ではない。自分が善逸に「好意らしきもの」を抱いているのだと、理解している。頭では理解しているけれど、あまりに突拍子のない心情の変化に、まったくついていけなかった。

屋敷についたあと、二人は無言で食事を取った。ナマエは羞恥心がまとわりついてやまないので、早く布団に入り一人になりたかった。しかし善逸は、そんなナマエとの会話がない時間も楽しかった。自分のドキドキしている相手が、同様にドキドキしてくれているのは幸せだった。

それから二人はそれぞれ湯浴みをし、鎹鴉と翌日の任務などについて確認のやり取りをしたあと、床につくことになる。部屋の構造上、善逸とナマエの部屋は、障子戸を隔てた隣同士だった。否が応でもお互いの存在を意識してしまう間取りだったので、何も考えたくなかったナマエはさっさと灯りを消し、布団に入った。
目を瞑ると、隣部屋で善逸がゴソゴソと寝支度をしている音が聞こえる。その微かな音を聞いていると、今日自分が変な男に絡まれたところを助けてもらったのにも関わらず、善逸に一言もお礼を言っていないことなどが気にかかり、ナマエの目は冴えていくばかりであった。

そうこうしているうちに、隣部屋の灯りも消える。いまだ、ナマエの頭の中は思考で溢れていたが、その消灯はこの慌ただしい一日をやっと終わらせてくれる合図のような気がした。
ほう、とナマエが小さく溜息をつくと、それに示し合わせたように、隣部屋の善逸が「ナマエさん」と小さく声をあげた。ここからお喋りが始まるなんて絶対に嫌だ、と思っていたナマエは、その呼びかけに応じない。そんなことになど構わず善逸が続けた。
「今日さ、ナマエさんに何事もなくてよかったよ。いや、もちろんあんたがあんな軟弱な男にどうこうされるとは思ってないよ?でもナマエさん、あのままだとどうしてたか…分からないでしょ。だから、ナマエさんが後悔する結果にならなくてよかったな、って思う」

「で、今日のこと、本当気にしなくていいから。俺は、好きな人を守るっていう当然のことをしたまでだし。何ら特別なことじゃないからさ、本当に。だから、ナマエさん、全然気にしなくていいからね」

「……でも、なんていうか?ナマエさんがそこまで今日のことを気にしてるなら?まあ、別の形でお礼してくれたらいいんじゃないかな、なんて思ってまして。いや、あくまでナマエさんがね?少しでも俺に責任や恩を感じちゃってて辛いっていうなら、それ、どうにか消化した方がいいじゃない?」

「…うん、だからさ。もし何らかの形で俺にお礼とかしたいって考えてるなら、俺に考えがあって。あのさ、お礼に…今度こそ、俺とちゃんと会ってよ。すっぽかされた約束、あれ……俺けっこう根に持ってんだよね。だからあれをちゃんと実現させてよ。俺、ナマエさんと一緒に町を歩きたいんだ」

もちろん、ナマエは返事をしなかった。あくまで寝ているテイを決め込んでいるからだ。しかし、善逸は自分の言葉が彼女に届いていることを分かっていたし、ナマエも概ね狸寝入りがバレているであろうことも分かっていた。不器用な今の二人は、こういった形で会話をするのが一番よかったのだ。

「それじゃ今のこと、ちょっと考えておいてね、ナマエさん」
善逸がそう言ったあと、改めて布団にくるまるような布擦れの音がした。そして、そんな善逸に呼応しようとしたわけではなかったが、ナマエはひとつ、小さなくしゃみをしてしまう。まるでそれが”返事”の代わりのようで、ナマエ自身少しおかしくなってしまった。
「風邪ひかないでね、ナマエさん。おやすみなさい」
吐息を漏らすように小さく笑ったあと、ひと際優しい声で善逸がそう言った。もちろん、ナマエは答えない。でも、彼女は口元まで引っ張り上げた布団の下で、小さく唇を動かしていた。おやすみなさい、と。
そうして二人はゆっくりとまどろみ、夢の中へと落ちていった。


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