焦がれる男

「我妻くん、虫!」
久しぶりに女子に話しかけられたかと思ったら、言われたのはそんなセリフ。俺が、虫?なにそれ、俺が虫ケラ的な存在だって言いたいわけ?いくら何でもそれは言い過ぎじゃない?そう思いながら、件のセリフを発した女子の方を見ると、彼女は何とも嫌そうな顔で俺の肩口を指さしていた。
俺はゆっくりと、指さされた自分の右肩へと視線を落とす。視線の端にウゴウゴと動いている”ナニカ”がいることが分かった。途端に、俺は石膏と化したかのように体が動かなくなる。しかし不思議なのは、口だけは動くということだ。だから俺は恥も外聞もなくこう叫んだわけである。
「だれかコレ取ってーーー!!!」

きゃあきゃあと騒ぐ女子の悲鳴が、今だけは耳障りに思えた。そんな可愛い声はいいから、とにかくコレを取ってくれよという気持ちでいっぱいだ。女子はもちろん、男子でさえ俺に救いの手を差し伸べてくれない。こんなときに限って、頼りの綱である炭治郎も伊之助もいないんだから最悪だ。それでも俺は、助けてくれる誰かを求めて叫びまくる。昼休み、こんなにうるさい教室はうちのクラスだけだろう。それくらい周りは俺を面白がり騒ぎ立てた。血も涙もない奴らだ、全員呪ってやると呪詛の言葉をつぶやきかけたとき、俺のもとに女神が舞い降りた。

俺の肩口でうごめくナニカをつまみ上げたのは、俺の斜め後ろの席に座るミョウジさんだった。昼休みになってすぐ姿を消したはずだった彼女(俺はクラスの女子の動きをほとんど把握している)だが、いつの間にか戻ってきたらしい。彼女は立ち上がり、俺の後ろに立つと、こともなげにナニカをつまみ上げる。それから窓辺に行くと、窓からでも手が届くよく伸びた桜の木の枝に、ナニカを乗せてやった。そのナニカは助けられたのを喜ぶのかのように、うねうねと体を動かしながら桜の木を登って行った。

「ただの芋虫だったよ」
彼女はそう言って、空になった手のひらを俺に見せる。もうお前の騒いでいたモノはいないよ、というかのような仕草だ。クラスメイトの誰もがミョウジさんを異様な目で、いや尊敬の目で、好奇の目で見つめていた。
「いや、素手で虫触るとかミョウジすごすぎない?」
「我妻よかったな、ミョウジが助けてくれたぞ」
「ミョウジさん、カッコイイ〜!」
それから、次々とミョウジさんを称賛する声が挙がる。もてはやされるのが面倒くさかったのか、ミョウジさんは愛想笑いを浮かべてから、立ち上がる。そして、机に広げたこれから食べるつもりだったであろう購買のパンと、ペットボトル飲料を掴むと、教室を出て行ってしまった。ペットボトル飲料は無糖のアイスコーヒーだった。


――あれ以来、俺はミョウジさんが気になって気になって仕方がない。
どうやらミョウジさんは、虫を素手で触ることができて、予定調和のような雰囲気が苦手で、コーヒーは無糖派な人らしい。あのとき助けられたお礼を伝えるタイミングを逃してしまったこともあり、俺は密かに、改めてミョウジさんと話す機会を設けたいと思っていた。

しかし、ミョウジさんはなかなか掴めない人だった。授業の合間の休み時間は、友人と話しているか、寝ているかのどちらかだし、昼休みはふらりとどこかへ行ってしまうことも多い。俺も俺で、朝は朝練が、放課後は部活があるし…で、ミョウジさんと話す時間を作れない。いつもタイミングをうかがっている間に放課後になってしまうのだった。

ただ、そうやってミョウジさんのことを意識していて、新たに気づいたこともある。ミョウジさんは、どんな飲み物も「無糖」または「低糖派」らしい。紅茶を飲むときも無糖を選ぶし、もしかしたら甘いものが苦手なのかもしない。
それから、後ろのクラスメイトに授業のプリントを回すとき、ちらりとミョウジさんの机を見ると、そこには黒いパッケージの板ガムがあった。「ストロングミント」と書いてあったから、かなりミントの強いガムらしい。俺なら絶対に選ばないガムだ。
またあるときは、「ハードミント」と書かれた袋に入った飴も置いてあった。授業中、時折すっきりとしたミントの匂いがするのは、ミョウジさんがミントガムや飴を食べているからなのだろう。

ミョウジさんはときどき、本を持ち歩いている。中身については分からないけれど、大体単行本サイズのものを持ち歩いているので、参考書の類じゃなさそうだ。授業が自習なったときなんかに、それを捲っている姿を見ることもあった。

それと、この前の授業中のこと。その日は結構風が強くて、窓を細目に開けていたんだけど、その隙間から小さな蝶々が転がり込んできて、俺の隣の生徒の背中に止まったことがあった。あのときも、ミョウジさんは何食わぬ顔で蝶々をつまみ上げ、外に出してやった。一貫して虫に親切なミョウジさんを見て、俺はなんだかドキドキしてしまった。


そうこうしているうちに、俺はやっとミョウジさんと話をする機会をゲットした。ミョウジさんが担任に「明日の授業に使う英語教材を教室に運んでおいてほしい」と用事を頼まれ、たまたまそこに居合わせた俺も、その用事を手伝うよう言われたのだ。「一人で運べる」と言うミョウジさんの言葉を押し切って、俺は彼女と一緒に教材室へ向かった。

ただ、教材は二人で往復して運べばそれで終わりという程度の荷物。だから、実質ミョウジさんと話をできる時間はわずか数分たらずというわけだ。1回目、俺たちは無言で教材を運んだ。ただただ、謎の気まずさをまといながら運搬に徹した。重たい教材を教卓に置くと、最初の運搬はこれで終了だ。何をどんなふうに話しかければいいのか分からず、一人で慌てているうちに、ミョウジさんは再び教材室へと向かってしまう。これで残りの教材を運んでしまったら、俺とミョウジさんとの時間はこれで終わり。だから、思い切ってその背中に声をかけた。

「ミョウジさん、てさ、あのっ、虫が好きなの?!」
「…え?」
怪訝そうな顔で彼女が振り返る。その隙に俺は彼女の隣に立った。
「う、うん。だってほら、少し前、俺の肩についた虫を取ってくれたし…あと、蝶々も助けてあげてたし…」
ミョウジさんは一瞬、何を言っているか分からない、という顔をしたあと、目を泳がせながら小さくうなずいた。
「あぁ…蝶々、あれ見てたの」
「う、うん、実はこっそりと…」
「別に、虫が好きなわけではないけど…見殺しにするのも可哀想だし」
「そ、そうなんだ。あ、じゃあさ、コーヒーは?よく飲んでるよね、あと、無糖の紅茶とか!」
ひどく気持ち悪い畳み掛け方をしてしまったと気づいたのは、すぐあとのこと。虫が好きなのかと聞いたかと思えば、今度はよく飲んでいる飲み物についての質問だ。俺はミョウジさんのことを観察している男ですと発表しているようなものだ。やばい、気持ち悪がられると慌てるも、ミョウジさんは少し思案顔をしただけで、それほど表情を変えなかった。

「あれは、その…眠くならないように飲んでるだけ」
「えっ、そ、そうなの?」
「うん、わたしすぐ眠くなっちゃうから、コーヒーや紅茶で意識的にカフェインを取るようにしてるの」
だから、ほら…と、ミョウジさんさんがブレザーのポケットからガムを取り出した。
「こんな辛いガムも持ってるわけ、美味しくもないのに」
本当は甘いものを飲んだり、食べたりしたいんだけどね…と困ったようにミョウジさんが笑う。このとき、俺ははじめてミョウジさんの笑顔を見た。クールそうに見えたミョウジさんは、笑うと目じりが下がり、緩やかに口角が上がる、可愛らしい人になった。そして、そんな彼女の笑顔に、俺のハートは見事に射抜かれてしまったのだった。


その日以来、俺とミョウジさんは少しずつ言葉を交わすようになる。相変わらず、授業の合間に突っ伏して寝ていたり、昼休みにふらりといなくなったり、つまらなさそうにコーヒーを飲んだりするミョウジさん。でも、ときどき辛いガムや飴を勧め、断る俺の顔をおかしそうに見つめる悪戯っぽい顔は、たまらなくキュートだった。
ほかのクラスメイトにとって、ミョウジさんは”平気で虫に触れるちょっと変わった生徒”に映るかもしれない。ミョウジさん自身も「別にわたし、ただの普通の人だよ。虫に触るのに抵抗がなくて、人より眠たい体質ってだけの」とよく言っている。しかし俺にとってはそんな個性の一つひとつも魅力的であり、めったにお目にかかれない可愛らしい笑顔の存在も知っていた。ある意味、俺って彼女にとって特別な存在なんじゃ?なんて、調子の良いことまで考えそうになる。

君が特別だって言いたい、でもきっと、まだ早い。彼女が素敵な子なんだって教えてやりたい、でも独り占めしたい。恋って思った以上に突然始まるんだなぁなんて、少し生意気なことを考えながら、俺は彼女に焦がれていた。


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