おやすみの温度





ひんやりとしたドアノブに手をかけた瞬間、無意識に溜息が漏れる。今日も無事、終電を逃すことなく家に帰って来られた。おまけに今日は0時を超えていない。日付が変わる前に帰って来られるのも何日ぶりだろうか。

マンションの他の部屋の住民に配慮して、ゆっくり静かにドアを開ける。そうっと中に入ると、言いようのない違和感を覚えた。足元を見ると、わたしのものではないメンズシューズが綺麗に揃えられた状態で置かれている。わたしはもう一度溜息をつきそうになった。

短い廊下を通って自室に入る。朝出勤するとき部屋の電気はすべて消したはずなのに、ベッド脇のサイドテーブルに置いてあるテーブルランプがついている。オレンジ色のほのかな灯りに照らされたベッドはこんもりと盛り上がっており、そこに生き物がいるのを示すかのように静かに上下していた。

自分の部屋なのだから遠慮などする必要がないのに、わたしは足を忍ばせてベッドに近づく。そうして布団をゆっくりとめくり上げた。
「…………」
もう一度溜息をつきかけたところで、慌てて息を止める。あまりに気持ちよさそうに眠る彼を起こすのは、何だか忍びなかったからだ。わたしは布団をもと戻すと、静かに鞄を下ろす。そしてクローゼットから着替えとバスタオルを取り出し、浴室へ向かった。

+++

わたしのベッドで布団にくるまり、すやすやと眠っていたのは伏黒恵だった。断っておきたいのは、わたしと恵は恋人同士ではなく、このように勝手に自宅に入られ、堂々とベッドで寝られるのは非常に不本意だということだ。

恵と知り合ったのは半年も前のことだっただろうか。わたしの職場付近で不可解な殺人事件が起こり、その事件の解決にと派遣されたのが恵だった。当時は、なぜ高校生が凄惨な殺人現場に?と思っていたけれど、のちに呪霊により引き起こされた事件であることや、”呪術高専”の存在を知り、恵が派遣された理由にも納得する。
とはいえ、わたしははじめから素直に「呪い」だの「呪霊」だのといった存在を信じ、受け入れたわけではない。一応恵より大人で、一介の社会人であるから、高校生である彼の主張を受け入れた、というだけだ。だってわたしにはその「呪い」や「呪霊」がはっきりと見えないのだから。それに恵と会うのはこれっきりだと思っていたから、ここは素直に高校生の話を聞いてあげようと、聞き分けの良い大人を演じていた側面もある。

あのとき恵がなぜわたしに呪いの存在を教えたのか、自分の正体を明かしたのか、今なら分かる。実はあの殺人事件には続きがあり、その呪いたちの標的になりうるのがわたしだということに、恵は早くから感づいていたのだ。
よってわたしはあの殺人事件から1週間後、恵と再会する。変質者(もとい、呪いによって狂わされてしまった人間)に殺されそうになったわたしを、彼が助けてくれたのだ。このとき、わたしははっきりと呪いの姿を見ることができ、恵の話に嘘偽りはなかったのだと悟った。こんな経緯もあり、わたしは「また何かあったら心配だから」と恵から半ば強引に連絡先を渡され、彼との関係がはじまった。

しかし、ほどなくして恵がわたしに”好意”を抱いていることに気づく。わたしは高校生をたぶらかす趣味はなく、彼をまったくと言っていいほど恋愛対象として見ていなかったので、かなり戸惑った。期待を持たせては悪いと思い、デートの誘いはなるべく断り、たまに会って話す…くらいの最低限のコミュニケーションにとどめる。それでも恵は諦めず、わたしにアプローチを繰り返した。そうしてあるとき、彼はわたしに想いを告げた。「アンタが好きだ」「俺をちゃんと男として見てほしい」「迷惑をかけないから、付き合いたい」そのようなことを、耳を真っ赤にさせながら言ってきた。
想いが本気であるのは伝わった。でもわたしは、彼からの交際の申し出を丁寧にお断りした。だって高校生の彼と、社会人のわたしとじゃ、絶対に釣り合わない。お互いに無理をするのが目に見えている。

一方、恵はわたしが断った理由に納得できないようだった。その表情はみるみるうちに険しくなり、最終的に「俺は諦めないからな」と吐き捨て、その日は帰っていた。


恵の言葉に偽りはなく、彼はあの日…わたしに想いを告げて以来、分かりやすいくらいに”開き直る”ようになった。まず、毎日のようにわたしに連絡をしてくる。もともと無口な方だし、メッセージアプリを通して話が弾むようなこともないのだけど、それでも「おはよう」とか「お疲れ様」とか、はたまた「会いたい」とか、そんな何気ないメッセージをこまめに送ってくるのだ。
それから、突然わたしの家にやってくるようにもなった。わたしが残業で帰りが遅くなると、恵はまるで忠犬のようにドアのそばで待ち続ける。”いたいけな高校生を外で待たせるヤバい女”だと思われたら大変だと思い、早々に合鍵を渡してしまった。
合鍵を手に入れてからは、恵は当然のように家の中でわたしの帰りを待った。そしてわたしの帰りが遅すぎると、今日みたいに勝手にベッドで眠ってしまうのだ。つくづく、犬のような猫のような本当に身勝手な男の子だと思う。

そんな風に、わたしにつけ入る隙を虎視眈々と狙っている恵だけど、肉体関係にもつれ込もうとするなど、わたしに無理矢理迫ったことは一度もない。彼のそういうところはとても好感が持てたし、だからわたしは恵を突き放さず受け入れてしまうのだと思う。

+++

長々と説明してしまったけれど、結局のところ、恵がわたしのベッドですやすや眠ることなど日常風景の一つであり、わたしはさして驚きはしなかった。だから、家の中に恋人でもない異性がいるのにシャワーを浴びるのも、今となっては何てことないのだ。

濡れた髪をタオルで押さえながら部屋に戻ると、テーブルランプは消され、代わりに部屋の電気がついていた。そして、ベッドの上で胡坐をかいた恵が眠たそうな目でこちらを見ている。
「……おかえり」
ぼそりと呟いたあと、恵は小さく欠伸を噛み殺す。それから彼はベッドを降りると、わたしの脇を通って冷蔵庫のもとへ行き、冷凍庫からカップアイスを二つ取り出した。
「どっちがいい」
不愛想な顔でバニラとストロベリーのアイスを持つ恵が可愛くて、わたしは笑いたくなる気持ちを抑えながら「バニラ」と答えた。

恵がわたしの家に来ると、一緒にだらだらテレビを見ながら雑談したり、彼が借りてきた映画を観たりして過ごすことが多い。けれど、今日はもう時間も時間だったため、アイスを食べ髪を乾かしたあとは、早々に就寝することになった。なお就寝時はわたしがベッドで、恵はソファで寝るのが暗黙のルールなのだけど、なぜか今日の恵はソファに行く素振りを見せない。不思議に思いながらもわたしがベッドに上がると、恵もそれに続く。「え?」と疑問の声が口をついて出るも、恵は当たり前のように布団の中に入った。そして、
「俺は今日、ここで寝る」
と、清々しいくらいに堂々とわたしに宣言した。呆気に取られて彼の顔を見つめていると、徐々に耳が赤くなっているのが分かる。わたしが耳に注目しているのが伝わってしまったのか、恵は素早くテーブルランプを付け、部屋の電気を消した。

シングルベッドに二人で寝ているのだから、肩が触れてしまうのは仕方ない。恵が突然襲ってくる可能性は低いと思うけれど、仮にも自分に好意を抱いている異性と触れ合いながら眠るのはなんとも居心地が悪かった。
「俺、ナマエさんに嫌われるようなことはしたくない。だから、その……諸々、我慢はしてるんで」
「あ、うん…そう」
恵の言葉に、”恵を我慢させている”という覚えなくていい罪悪感を植え付けられる。そんなことを言うなら隣で寝ないでくれ、とすら思った。

ごそごそと隣で恵が身じろぎをする。指先に人肌の温かさを感じた、その瞬間に指を絡めとられた。恵がわたしと手を繋いだのだ。
「…これ以上、何もしないから」
わたしが口を開くよりも先に、恵が懇願するようにそう言う。聞き分けの良いお利口な恵からの、滅多にないワガママ。わたしは不覚にも少しときめいてしまった。
わたしより一回り大きい恵の手はゴツゴツとしていて、温かい。思わず握り返したくなるも、まだ”そのつもり”はないのに、期待させてはいけないと思い踏みとどまる。でも、握り返したくなる温かさと感触であることはたしかだった。

わたしは空いている方の手でテーブルランプを消す。暗闇がふわりとわたしたちに被さった。
「おやすみ」
わたしが言うと、恵の手がピクリと動く。それから彼はわたしの手を握る自身の手に力を込めながら、
「好きです、ナマエさん」
と言った。彼の手の温度に心地よさを感じながら、わたしはもう一度「おやすみ、恵」と言った。
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