good night





一度目、そのキスを阻止することができなかった。
理由は簡単。唐突だったから。目の前には五条を慕う生徒たちがおり、そんな彼らの前でとんでもない所業を彼はやってのけた。
「やぁ、愛しのナマエ。ご機嫌いかが?」
唇をぺろりと舐めて、あいつはそんな言葉をかけてくる。一方生徒たちは驚愕した様子でわたしと五条を見比べたあと、「えっ、五条先生とナマエ先生ってもしかして付き合ってんの?」「五条先生の恋、実ったんだ!やったじゃん!」などと、口々に見当違いなことをのたまう。頭に来たわたしは、言葉よりも先に手が出てしまい、気づけば怒りのままに五条の首元を捩じり上げていた。といっても、長身なこの男の胸倉を掴むのはなかなかに困難であるから、肘をピンと張った状態で襟首を捩じるのが、今のわたしの精一杯だった。

「今のは、なんだ、五条」
あまりの怒りの息が上がっているわたしに対し、「まぁ、まぁ、そう興奮せず」なんて余裕を見せる五条。
「だって僕たち、この間の任務でめでたく”そういう関係”になったでしょう?」
意味ありげにそう囁く五条に、予想通り生徒たちが色めきだつ。
「うわぁ、やっぱそうなの?!だからって生徒の前でキスするとか、いくらなんでも大人気ないわよ!」
「そうそう!いきなり見せつけられたら俺らも驚くって!」
再び騒ぎ立てる生徒たちを落ち着かせるため、わたしは襟首を捩じる手に力を込めた。ぐぇ、と五条の苦し気な声がする。

「違うでしょう、五条。なに生徒に嘘吹き込んでるのよ、いい加減にしないとその目潰すぞ」
「いやーん、ナマエったら物騒なんだからぁ」
そう言ってヘラヘラと笑いながらにこちらに手を伸ばしてきたので、慌てて手を離し後ずさるも、すでに手首を掴まれている。
「僕に守られないくらい強くなるんでしょ?だったらもっと反射神経を鍛えなきゃ」
最高の煽り文句に、足が震え、全身の血液が逆流しそうだった。つまり五条は、前回の”五条が嫁に来いだなんて言えないくらい、強くなる”というわたしの言葉を逆手にとって、今まで以上にちょっかいを出してやろうという魂胆らしい。キスを阻止できなかったのは、わたしが五条より弱いから。手首を取られたのも、わたしが五条より弱いから。そうやって半強制的に、半合意的にわたしのパーソナルスペースを侵すつもりなんだ。わたしがそんな五条の底意地の悪さに震えていると、彼は輝くような笑顔を生徒たちに向けてこう言ったのだった。
「ってことで僕、彼女と両想いになるつもりだから、みんなも応援よろしくね!」


2度目のそれは、阻止できた。
それは2年の真希と呪具に関する意見を交換しているときのことである。ふらりと現れた五条が突然顔を近づけてきたので、反射的に右頬に平手を叩き込んでいた。
「は…?え…?」
真希は、頬を抑える五条と、彼を睨みつけるわたしを交互に見比べながら、戸惑いの声を漏らした。そりゃ自分との会話の途中、教師が突然別の教師の頬を打ったら、誰だって動揺するだろう。
「つーかあんた、なにやってんだ?」
結局真希が疑問を口にしたのは、五条に対してだった。
「今回は君の勝ちだね、ナマエ」
「なんだ、そーいう遊びか?」
「違う、この馬鹿がこうやってわたしにプレッシャーをかけてるの」
「プレッシャーだなんて、滅相もない!この機会を利用して、ストレートな愛情表現をしているだけだよ」
「ふざけるのも大概にしろよ
「あー…まあ、楽しそうでいいっすね」
後にも先にも、あんな下手くそな愛想笑いを浮かべた真希は見たことがない。


そんな五条が仕掛けてくるのは、なぜだか生徒たちの前が多かった。キスだけでなく、肩や腰に手を回そうとしたり、頭を撫でようとしたり…そんな風に親し気にわたしに接触を試みる五条を見て、勘違いする生徒も少なくない。しかし、そうやって生徒たちを絡めることは、わたしにとっていい指標になった。つまり生徒たちと接する場面があるとき、五条の来襲に備えれるようにすればいいからである。

なお、誤って頬にキスをされることがあっても、あの一度目以来、わたしがあの男から唇を奪われることはなかった。それだけはどうしても嫌だったからだ。一度などは、取っ組み合いになるような格好でそのキスから逃れたこともある。ただ、そうやって全力で抵抗するわたしを見る五条に悔しそうな表情は少しもなく、むしろ楽しそうな顔をしていることが、少しだけ気がかりだったけれど。

+++

その日、わたしは夜蛾学長の仕事を手伝っており、学校内にあてがわれた自室に戻る頃には夜もすっかり更けていた。頼まれたのは、学長が溜めに溜め込んだ事務業務を片付けるという、そこそこの激務。おかげで首や肩が石のように凝ってしまい、重くなった体を引きずるようにして廊下を歩いていた。

ふと、人の気配を感じて立ち止まる。廊下の一番奥にわたしの部屋があるのだけど、暗闇に目を凝らすと、大きな人影が見えた。
「おっ、そんなに遠くから僕の存在に気づくなんて、さっすが」
数メートル先から聞き慣れた声がする。わたしはうんざりして、無意識に目を閉じ呻き声が漏れた。やっと長い一日が終わると思ったのに、最も気力と体力を削られる最悪の相手に待ち伏せされていたなんて。

すっかり歩みを止めてしまったわたしを迎えに来るかのように、足取り軽く五条が近づいてくる。
「正直、油断してたんじゃない?僕が生徒の前でしか君にちょっかいを出さないって、そう思ってたでしょ」
五条の声には悦びが隠しきれておらず、そのあからさまに喜んでいる様子には腹が立ったが、そんな彼に抵抗するほどの体力はもう残っていなかった。

わたしは五条が後をついてくるのにも構わず部屋の前まで行き、鍵を開ける。部屋に入り、ドアを閉めようとするも”閉まらない”のは想定内だった。諦めてドアが半開きのまま中に入ると、「いいの?僕入っちゃうよ?」とドアの閉扉を阻止していた張本人が声をかけてくる。
「…好きにすれば」
彼はわたしの言葉に面食らったようだったが、結局は図々しくもわたしの部屋に入ってきたのだった。


あまりの疲労困憊ぶりに、すべてのことがどうでもよくなっていた。もう煮るなり焼くなり好きにすればいい。たとえ今ここで五条に犯されたところで、わたしは一切の無抵抗を決め込むだろう。それくらい、この展開に疲れていた。

五条がいるのにも構わず、わたしはベッドに倒れ込む。そんな無防備すぎるわたしを見て、少なからずこの男も動揺したらしい。
「えーっと……その、僕を誘っているわけじゃないよね?」
しかし、わたしから返答を得られないと「…ですよねぇ」と彼は独り言ちた。それから、珍しく遠慮がちな様子でわたしが横たわるベッドに腰かける。

「ねぇ、いいの?僕という男がいるのに、そんな無防備さらして」
「もういい、疲れた」
しつこく声をかけてくる五条に、背を向けるように背中を丸めて寝返りを打つと、彼が小さく笑ったようだった。それから、「よいしょ」という声が聞こえ、ベッドが大きく揺れる。背中に体温を感じ、耳元に吐息がかかる。大きな体がわたしの体を包んでいることは、目をつぶっていても分かった。

「はい、じゃあおやすみ」
優しく髪を撫でられ、まどろんでいた意識が現実に引き戻される。おやすみ、って。五条はここでわたしと眠ろうというのか。調子に乗るのもたいがいにしろ、と怒りの炎が燃え盛ったのは一瞬のこと。結局は、背中に感じる体温を心地いいと思う気持ちの方が勝った。今はただ疲れて、ただ眠すぎたのだ。とはいえ、全て受け身になるのは癪に障るから、「あんた、なに」とどうにか文句の言葉を紡ぐ。
「なに、って。……あっ。どうも!喋る布団でーす」
「…はぁ?」
「毎日頑張っている先生の心と体を温めにきました」
お腹に腕を回され、五条とわたしの距離がゼロになる。背中から伝わる体温が体の末端まで届き、ポカポカと全身が温かくなっていった。そうして、眠りたい、ということしか考えられなくなった。

「…ひとつ弁解したいんだけど。僕さぁ、別に君に意地悪したいわけじゃないんだよ。本当はこうやって、ただ、一緒にいたいだけなんだから」
言い訳がましい文句で耳元をくすぐられ、身を捩る。眠ろうとしている人間に話しかけるんじゃない。このお喋りな布団を黙らせる言葉を考えるも、鈍った頭では何も思いつかない。だから、気づいたときには「おやすみ」と言っていた。

息を呑むような音が聞こえたあと、ふふふ、と息を殺した笑い声がする。それから、再び耳元でお喋り布団の声がした。
「おやすみなさい、ナマエ」
いつもは眠りの浅いわたしだけど、この夜は本当によく眠れた。この心地いい眠りの記憶が”五条”によって築かれていたなんて、知る由もなかったこのときのわたしったら――…嗚呼なんて平和なことだろう。
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