ビリーブ ミー!





夏油は非常に外面が良く大人びているので、彼と出会うほとんどの人間が彼に好印象を抱くだろう。けれど、夏油もあれでいてただの十代男子なのである。五条や祥子とつるめば阿呆なことも言うし、面白い玩具があればしつこく絡むことだってある。その「面白い玩具」が、まさにわたしなのであった。

きっかけは非常に些細なこと。
わたしが自販機でジュースを買おうとしているところを、夏油が見つけたのである。彼はわたしを驚かせてやろうと思い、足を忍ばせ、そのままわたしの背後にまわった。一方わたしはジュースを選ぶことに夢中で、そんな夏油に一切気づかない。ようやくボタンを押し、投下されたジュースを拾い上げようとしたところで、自分がずっと大きな影に包まれていることに気づく。そこで、張り付くように背後に立っていた夏油にやっと気づいたのだった。

このとき、短い悲鳴を上げたわたしは、あまりに驚きすぎて取り上げたジュースを放り投げてしまう。投げ出された缶ジュースは、堅いコンクリートに打ちつけられた勢いで中身が噴射。炭酸飲料だっただけに、それはもう派手な音を立てて中身をまき散らした。そんな取り乱したわたしの姿を見て、夏油は腹を抱えて大笑いした。後にも先にも、あんな風に大口を開けて笑う夏油を、わたしは見たことがないかもしれない。

この出来事のせいで、わたしは夏油の玩具に成り下がってしまった。成り下がるというより、夏油が一方的にわたしを玩具認定した、というほうが正しい。そうして夏油はわたしを驚かせることに心血を注ぐようになったのだ。

曲り角で待ち伏せて、驚かす。開けたドアの向こうにいて、驚かす。そうっと背後に立って驚かす。特に彼は、わたしの背後に立って驚かすことを何より気に入っていたらしく、隙あらばわたしのバックを取りたがった。まったくもってくだらない。

最初の方こそ、その術中にはまり驚いてばかりいたが、やがてわたしも耐性がつくようになった。驚くということは、夏油を喜ばせるということだ。だからあの男を喜ばせないために、驚かない努力もした。たとえ驚いたとしても、無表情を決め込めるようになった。そんな風に、わたしの反応がつまらなくなったとしても、夏油はいつもわたしを驚かせたがった。


そんなある日のこと―――。
予定よりも早く任務が終わったわたしは、あまり制服も汚れていなかったので、その足で街に行った。日用品と、本が欲しかったのである。目当てのものはすぐに見つかり、ビニール袋をひっさげながら、さてバスにでも乗ろうかと歩いていると、大きな公園にさしかかった。その公園は周りに高い建物がないひらけた場所にあり、一面の夕焼け空を見ることができた。わたしは気分が良くなり、その公園に足を踏み入れる。少しだけ休憩してから、寮に戻ろうと思ったのだ。

多くのベンチをカップルが陣取っていたので、空いているベンチを探すのに少し苦労した。腰を下ろし、手に持っていた缶ジュースのプルタブに手をかける。プシュ、と空気の抜ける音を聞くと、いつもあの出来事を思い出す。…はじめて夏油に驚かされ、ジュースを放り投げたあの出来事だ。この音は、缶ジュースが地面に叩きつけられ中身が吹き出す音と同じだ。この不愉快な記憶をさっさと頭から追い出すべく、冷たいジュースを一口喉に流し込む。

直後、わたしは背後に違和感を覚える。何かが「いる」気がしたのだ。わたしは身を固くしたまま、片手で持った缶ジュースを睨む。
「う、」
首筋を下から上へなぞられる、くすぐったい感覚に声が漏れた。何者かの指が、わたしの頸をくすぐったようだ。そんなわたしの声に応えるように、軽快な笑い声が降ってくる。
「やっぱり気づいてたんじゃないか。それなのに気づかないフリするなんて、ツレないね」
その声は、わたしのよく知る人物のもの。だけど、なぜ彼がここにいるのかが分からない。
「隣、失礼するよ」
そう言って夏油は、図々しくわたしの隣に腰かける。ベンチに座るは、制服姿の男女。これじゃまるで、わたしもこの公園内にはびこるカップルの一員のようではないか…と、不愉快な気持ちになる。

夏油は勝手にわたしの手から缶ジュースを奪い、優雅に一口飲んで見せる。それを見て、わたしは一気に喉の渇きが失せてしまった。缶ジュースを返そうとする夏油に「いらない」と冷たく言うと、彼は嬉しそうに目を細めた。
「なんでお前がここに、って顔してるね」
「………」
「君がこの公園に入るのをたまたま見てね、ついていったというわけさ」
にっこりと愛想のいい笑顔を振りまく夏油が鬱陶しくてたまらない。いかなる反応も彼を喜ばせてしまうから、夏油といるとき、わたしは自ずと口数が少なくなった。そうして、早くわたし以外の玩具を見つけてくれればいいのにと思いながら、ベンチを立った。
「じゃあ、あとはごゆっくり」
「行くの?もう少しここで一緒に休もうよ」
「わたしは充分休んだので」
なにも面白いことは言っていないのに、夏油はふふふと小さく笑った。そんな彼を無視して歩き出すと、やがて彼が後ろをついてくる気配がする。もう好きにしろ、と思った。


夕焼けで真っ赤に染まった空の端々に、青みが侵食している。間もなく日が落ちるのだ。まだ街灯がつくほどではない薄暗さの公園内では、カップルたちの情緒も最高潮に達しているようだった。体を密着させるだけでなく、なりふり構わず唇を合わせているカップルも少なくない。顔を歪めてしまいそうになるのを必死で耐えながら、足早に出口に向かっていると、夏油がわたしを呼んだ。
「ナマエ、もしかして彼らが羨ましい?」
「わたしをあんな発情した猿と一緒にしないで」
「おおこわ……言うねぇ」
思わず夏油の呼びかけに答えてしまった自分を情けなく思い、足早にこの場を抜ける。しかし、先ほどとまるで同じ景色かのように、そこら中にカップルは点在しており、わたしは心底うんざりした。

「でもさ、私はちょっと羨ましいな」
突然、背後の夏油がそう零す。ただの独り言だろうと無視を決め込んでいると、体が動かなくなった。背中にぴったりと体温を感じ、重い腕が肩を通ってわたしの体を包んでいた。
男が女を後ろから抱きしめるなんて、漫画かドラマでしか見たことがない。そのポーズを今、わたしと夏油が取っているのだと思うと、ぞぞぞと体中に鳥肌が立つ。すぐさま、その腕を振りほどこうとしたが、それは無駄な抵抗に終わった。

「ナマエって、私にバックを取られることに慣れすぎてるよね」
耳に夏油の息がかかり、驚いて首をすくめる。
「まあそのおかげで、こういうことができるんだけど」
夏油は少し体を離すと、するりと腕を滑らせわたしの手に自身の手を重ねた。
「ね、こうやって歩こう」
「イヤ」
「相変わらず威勢がいいね。でも、」
夏油はにやける顔を隠しもせず、わたしの顔を覗いた。
「嫌がれば嫌がるほど、私が面白がるのを君は知っている。だからこの手を甘んじて受け入れているんだろう?」
もちろん、何も答えてやらなかった。


夏油はわたしと手を繋いだまま、ゆっくりと公園を散策した。彼は機嫌よく何かを話していたが、わたしがそれに応じることはなかった。1回だけ、話の流れに紛れて「キスする?」と聞かれた。そのときだけはハッキリ「しない」と答えたけれど。
それにしても、玩具にここまでやるのは正直やりすぎだと思う。また、こうして体に触れてくるということに一種の危機感も覚えていた。このままグズグズと淫らな関係にもつれ込むつもりなのではないか、という危機感だ。それは最悪だ。絶対に嫌だ。

「ってことで、私はナマエのことが好きなんだけど」
「………え、なに?」
「ほら、さっきから上の空。ずっと君のこと口説いてたのに」
突然現実に引き戻され、わたしは自身を落ち着かせるために素早く瞬きをする。「好き」というワードが聞こえた気がするけれど。
「だから、私たち付き合おうよ。君のことが好きなんだ」
「は…?今度はなんの冗談?」
「冗談なわけないだろう。私はずっと本気だよ」
「うそ、ずっとくだらない悪戯してきたくせに…」
「だって、そうしていればごく自然に君に近づき、触れ合えるだろう。こう見えて私、結構不器用なんだ。要は好きな子、虐めちゃうタイプってことさ」
どうせまた夏油が始めた茶番だろうと思っていると、公園の出口が見えてきた。そうだ、もうこんなところ出てさっさと寮に帰ろう。任務に夏油にと、今日は二重に疲れてしまった。

「私の気持ちを信じてくれるまで、帰さない」
出口に向かって歩を進めるわたしを逃がすまいと、夏油は握る手に力を入れる。その力強さに恐れるよりも、怒りの方が勝った。
「今までのあんたの行ないが悪いんでしょ。都合よく好きだなんて言い出して、信じろっていう方が無理。それよりも、わたしに信じてもらえるよう努力すれば?」
一気にまくし立てると、夏油は相好を崩した。…気味が悪くなった。
「いや、申し訳ない。私、ナマエの怒ってる顔もすごく好きなんだ」
「気持ちわる」
「なんとでも言ってよ」
それから夏油はわたしの手を離し、意外な言葉を続けた。

「分かった。この気持ちを君が信じてくれるまで、プラトニックな関係でいい。勝手に触れたりもしない」
その言葉を100%信じたわけではない。なぜなら彼はこう見えて、悪戯好きの十代男子だからだ。こうやって、また別角度からわたしを弄ぶつもりかもしれない。しかし、もし本気なのだとしたら「わたしが信じるまでプラトニックな関係でいい」というのは、随分厳しい縛りだ。正直、その縛りに負けるみっともない夏油の姿を見たくなってしまった。
「言葉の割に、余裕そうな顔してる」
「だってわたしの気持ちは本物だからね。あのカップルの猿どもみたいに、肉欲には溺れないさ」
夏油は自信満々にわたしに微笑む。だから、ますますわたしの好奇心も駆り立てられた。

「そこまで言うなら、やってみたら?わたしはあんたがボロを出すとしか思っていないけど」
気づけば、そんな挑戦的な言葉が口をついて出ていた。すると、夏油はみるみるうちに嬉しそうな顔になる。一瞬わたしの手を取ろうとしたが踏みとどまり、その手を下ろしてから口を開いた。
「ありがとう、チャンスをくれるんだね。じゃあ、君に信じてもらえるよう、私なりの方法で精一杯君を愛すよ」
このときのわたしは、じゃあせいぜい頑張ってね、なんてヘラヘラしていた。けれど、結果的にそんなチャンスを与えてしまったこと自体が間違いだったと気づくことになる。


その日のうちに、わたしと夏油の関係はガラリと変わった。夏油はわたしにしょうもない悪戯を仕掛けなくなった。その代わり、これでもかと言うほどわたしを丁重に扱い、熱いラブコールを送るようになった。行動から、態度から、言葉から、夏油がわたしに重々しいほどの愛情を抱いていることが伝わってくる。
―――そう。わたしが「信じる」という名の「根負け」をするのは、時間の問題だった。
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