スマート スマート





伊地知さんの運転する車が任務現場に近づくにつれ、車内の空気が重く、粘度を増していくような気がする。胸のむかむかに耐え切れず漏れた「う、」というわたしの声は伊地知さんにも届いていたようで、バックミラー越しに心配そうな顔をした彼と目が合った。なんとか愛想笑いを浮かべてから、ポケットに忍ばせていた酔い止めを取り出す。デコボコとした薬の包装シートに指を這わせ、プチ、と中身を押し出す。転がり出てきた丸い錠剤を口に含み、ゆっくり溶かした。

わたしは任務に赴くと100%の確率で体調を崩す。現場に向かう段階から体調が悪くなっていくので、任務の際は大体いつも伊地知さんに車で送ってもらっていた。五条先生が言うには、わたしは人よりも呪いという存在をひどく拒絶してしまう体質らしい。それが身体反応にも表れているというのだ。そしてこの体質を直すには、ただひたすら任務をこなすしか方法はない、とのこと。五条先生は気遣うフリはしてくれるが、基本的にはスパルタ教育を施す人間だ。口では「かわいそうに」「僕、君が心配」なんて哀れみの言葉をかけてくれるけれど、次の瞬間には「それじゃ、次の任務も頑張って!期待してるよん」と大きな手でわたしの背中を叩き、ニコニコ顔で任務に放り込むのだ。

呪術高専に入って以降、何度も任務をこなしているけれど、この体質が改善される兆しはまだない。一つ良かったことといえば、毎度襲われる体調不良に「酔い止め」が有効だと発見できたことだろうか。気分が悪くなったとき、酔い止めを一粒飲めばそれは幾分改善された。大体現場に向かう段階から体調が悪くなるので、車の中で一粒、現場についてからもう一粒飲むのが、いつの間にか任務でのルーティーンになっていた。

「あと5分ほどで現場につきますよ」
伊地知さんが柔らかい声でわたしに告げる。こちらの体調を気遣ってくれているのだ。わたしが頷くのをバックミラー越しに確認してから、彼は話をつづけた。
「五条さんからお聞きしたとは思いますが、改めて共有です。今回の呪霊はおそらく”2級”に相当すると思われますが、正確な階級はまだ読めません。ですから、手の空いた術師に応援を頼んでいます。しかし、もしその呪霊が1級以上のものだと判断した場合、無理な戦闘はせずいったん撤退してください」
伊地知さんが話を終えたところで、車がゆっくりと止まった。そうして彼がこちらを振り返る。
「それにしてもミョウジさん、今日はいつにもまして顔色が悪い気がしますが…」
任務に向かうわたしを心から心配してくれる大人は、伊地知さんだけだ。そんな心の優しい人をこれ以上心配させたくなくて、「大丈夫です、行ってきます」とわたしは笑って見せるも、相手は逆に不安の色を濃くした。それもそのはず。わたしの口角はちっとも上がってくれず、引きつった笑みすら作れなかったからである。


帳を下ろした伊地知さんが車で去るのを確認してから、わたしはもう一度ポケットから酔い止めを取り出す。一台の車に乗った3人家族のイラストが描かれたそのパッケージは、禍々しいオーラを発する廃ホテルを前にひどく場違いだ。そのニコニコとした家族たちのイラストを一瞥してから、箱を開け中身を取り出す。
「……あれ」
出てきたのは、空っぽの包装シート。1シートあたり6錠の薬が並んでいるのだが、わたしが持つシートはすべて中身が出された状態である。慌てて箱の中身を指で探るも、出てきたのはまったく同じ状態――空の包装シートだ。つまり、わたしの手には空の包装シートがペアで揃っている状態である。

「失敗したなぁ…」
冷静になるために、あえて独り言ちる。この酔い止めを飲むとき、わたしはいつも体調不良の真っただ中にいる。「薬があといくつ残っているか」なんて確認することなく、まさぐるように薬を取り出し口に入れているのだ。その結果がこれだ。

今朝は不快で嫌な夢を見た。内容は覚えていないけれど、あまりに不快で、今日は何だかよくないことが起こりそうだという漠然とした不安を覚えた。朝から胸を覆っていたそんな嫌な予感がみごと的中した。どんよりと曇った今日の天気みたいな不安がみるみるうちにわたしを支配し、気づかないふりをしていた胸のムカつきや頭痛がじわじわと体を蝕みはじめる。片田舎の廃ホテルの近くには、当然コンビニもドラッグストアもなく、今から酔い止めを調達することはできない。

そうして立ち尽くしていると、突然額に水滴が垂れた。驚いて顔を上げると、次々と大きな雨粒が降ってくる。
わたしはため息をつくと、持っていた酔い止めの空箱を片手でつぶした。グシャリ、という小気味良い音を合図に、重苦しい空気に包みこまれた廃ホテルへと足を踏み入れたのである。

***

―――嫌な予感というものは、ここまで的中するものか。
わたしは制服の袖を強く口に押し当てながら、必死に息を殺した。先ほどまで全速力で走っていたため、こうしていないと荒い息が呪霊に聞こえてしまいそうだったのだ。

今回の呪霊は、とてもじゃないがわたし一人の手に負えるものではなかった。あれは1級だ。一目見ただけでわかる。伊地知さんの言葉通りだったわけだ。
さらに最悪なことに、呪霊はわたしの侵入をすぐに察知し、逃げられないように低級呪霊をホテル中に放った。この低級呪霊たちはわたしを探して這いまわり、こちらの姿を見つけるとけたたましい声を上げて1級呪霊に居場所を知らせる。だから問題のボスが来る前に、わたしはまた走り出す。そして今度はまた別の低級呪霊に見つかり、方向転換。そんな呪霊とわたしの、史上最悪な鬼ごっこが繰り広げられていた。

そうして割れそうなほど痛む頭を抱えながら、わたしはホテル中を駆け回り、たまたま見つけた従業員用ロッカーの一つに飛び込んだのがつい先ほど。こめかみがドクドクと脈打ち、額を冷たい汗が流れる。無理矢理に自分の口を塞いでいるため息苦しかったが、辛抱するしかなかった。

一つの場所にとどまるのは得策ではないけれど、一度自分を落ち着かせたかった。しかし「ロッカーで一息ついたら、また頑張れる」なんて考えは甘かったらしい。一度足を止めてしまったわたしの身体には、これまでの負担がドッと押し寄せる。頭痛、寒気、吐き気、震え…それらが一気に襲い掛かった。
あ、やばい、そう思った時には足に力が入らなくなり、狭いロッカーの中で背中からズルズルとしゃがみこんでしまう。貧血を起こしていた。ザーザーと耳鳴りがうるさく、暗いロッカーの中であるのに目の前がチカチカとした。

そのとき、閉じられていたドアが乱暴に開かれた。小さくうずくまっているわたしを見て、低級呪霊がにたりと笑う。それから、歓喜の色を滲ませながら咆哮した。見つかった。もう後はない。情けなく涙がこみ上げ、低級呪霊の醜い姿が歪んだ。

「動くな!」

時が止まるような、凛としたその声にハッとした。わたしの方に手を伸ばしていた低級呪霊は中途半端な姿のまま固まっており、次の瞬間、突如現れた人間に蹴り上げられ吹っ飛んでしまった。
「しゃけ、高菜!」
その声とともに差し出された人間の手。恐る恐る見上げるとそこには、心配そうにこちらを覗き込む狗巻先輩がいた。呪言を使ったばかりのため、口元は露わになったままだ。突然の救世主に、わたしは安心よりも戸惑いの方が勝ち、半ば放心状態になった。

固まってしまって、いつまでもその手を取ろうとしないわたしに痺れを切らし、狗巻先輩は無理矢理わたしの腕を取りロッカーから引っ張り出す。
「こんぶ、ツナマヨ…」
こちらがあまりにも情けない顔をしていたのか、先輩は一瞬困ったような顔をしてわたしの目元を拭うと、一度ぐしゃりと頭を撫でてくれた。それから、こっちに来いというように手招きをし、先に立って走り出す。すでに退路は確保していたのか、彼が導く道の先々で低級呪霊の残骸が転がっていた。

しかし、当然ながらわたしたちがやすやすと退散するのを、相手は許さない。わたしと狗巻先輩を分断するかのように、突如足元に亀裂が走った。反射的に背後へ飛びあがると、亀裂から問題の1級呪霊が姿を現す。奴は狗巻先輩のことなど眼中になく、まっすぐわたしだけを見据えていた。一つ目のその呪霊に見つめられた瞬間、わたしは絶望に包まれる。体中が痛く、気持ち悪くなり、こんなに苦しい想いをするのなら死にたいとすら思った。わたしが気を失うのと、呪霊がこちらに腕を伸ばすのと、狗巻先輩が口を開くのはほとんど同時だったはずだ。ただその中では、先輩の唱える呪言が頭ひとつ早かった。

「爆ぜろ…!!」

呪霊の指先はわたしの喉元をかすめたあと、跡形もなく爆ぜ飛んだ。

***

そのあとのことは、ほとんど覚えていない。
だから、高専にて硝子さんから適切な処置を受けたあと、わたしは自分が気を失ったあとのことを伊地知さんから聞かされることになる。
「今回のことは、ギリギリの状態だったあなたを止められなかった私の責任でもあります…」
そう言って何度も頭を下げようとする伊地知さんによると、狗巻先輩は気を失ったわたしをおぶって現場を後にしただけでなく、高専に戻るまで付き添ってくれたらしい。
「それから狗巻術師は、大変憤慨した様子で五条さんのもとへ行きましてね。どうやらあなたのことについて、大変なボイコットを起こしたみたいです」
「ボイコット?」
「えぇ。実は彼、あなたが現場に出ることをずっと気にかけていたみたいです。ですが、五条さんは何と言いますか…あなたに荒療治を施していたでしょう?呪霊と体調不良との関係も、いずれ折り合いがつくと考えていたようですし。でも、その結果が見ての通り…です。狗巻術師の到着があと一歩遅ければ、ミョウジさんは命を落としていたかもしれない。だから、彼は五条さんに強く意見を申し立てたわけです」

穏やかな狗巻先輩が五条先生に盾突くなんて、想像もできない。そして何より、わたしのためにそれほど強い調子で意見をぶつけるなんて、意外を通り越して不思議でならなかった。

「…それで、ですね」
伊地知さんは眼鏡のブリッジに触れてから、何かを決意するかのように一呼吸置いた。
「ここからは五条さん、および私からのご提案にはなるんですが…」
「はい」
「ミョウジさん。今後私たちは、あなたに”補助監督”をお任せしたいと思っています。正直、あなたの呪術師としての実力は申し分ないですし、術師の人員が減るのは少々痛手です。ですが、これ以上あなたに苦しみながら任務に赴いてほしくない。私はもちろん…狗巻術師は、そう強く願っています。
ですから、よろしければ今度はあなたの力を、術師をサポートする補助監督というポジションに活かしませんか?まずは”補助監督アシスタント”として、少しずつ仕事を覚えてもらえればと思うので…」
それから伊地知さんは、自分がしゃべりすぎていたのを恥じるかのように、ハッと口をつぐんだ。
「一方的に申し訳ありません!返事はすぐではなくて結構ですので、まずはよく考えてから…」
「あ、伊地知さん」
「はい!」
「わたし、やりたいです」
「えっ」
「補助監督…頑張ってみたいです」
伊地知さんは目を大きく見開いたあと、その顔いっぱいに笑顔を広げた。


――数日後、わたしは高専内で狗巻先輩と会った。彼は自販機でジュースを買っているところで、わたしが寄っていくとニッコリと笑顔を見せてくれた。
その頃には、わたしが正式に「補助監督」へポジションチェンジすることが仲間や教員に伝わっていたし、みんなそれを気持ちよく送り出してくれていた。ただその件について、わたしは狗巻先輩へきちんとお礼ができていなかった。あの日以来、彼が任務に忙殺され会う機会がなかったことも一因ではあるけれど。

「狗巻先輩、あ、ええと…」
どう切り出そうか迷っていると、先輩が「おかか」と言って言葉を遮った。それから自販機の方を指さす。何か奢ってあげるよ、という意味らしい。
お言葉に甘えて、彼が自販機に小銭を入れた後、サイダーのボタンを押す。すると、ガコン、と音を立てて落下してきた缶ジュースを先輩が取り出してくれた。それを受取ろうとする前に、冷たいそれをおでこに押し当てられる。おでこはヒヤリとして、反射的に「わっ」と声を漏らすと、狗巻先輩は嬉しそうに笑った。
「しゃけ、明太子…ツナマヨ!」
そう言って、くしゃっと一度わたしの頭を撫でると、彼は足取り軽く去って行ってしまった。

なんてスマートに去っていくのだろう。もはや呆気に取られてしまう自分がいた。わたしは、狗巻先輩のおにぎり語が堪能ではない。そんなわたしでも、彼が何を言っているか分かった。
”頑張ってね。一緒に任務に行けるの、楽しみにしてるよ。”
…彼はたしかにそう言っていた。
手の中にあるひんやりとしたサイダーだけが、わたしの心みたいに汗をかいている。スマートで、ずるい狗巻先輩に、弱くて初心なわたしの心が乱されないわけがなかった。
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