心は複雑怪奇





五条先生にも好き嫌いってあるんだ、と思った。
そりゃ、そうか。先生だって人間だ。嫌いな生徒よりも、好きな生徒の方を構いたいと思うのは、人として当然の心理。ただ一つ疑問なのは、わたしが先生に嫌われるようなことをした覚えがない、ということだ。

五条先生はわたしにだけスキンシップをしない。わたしにだけ雑用を押しつける。わたしにだけマンツーマンで授業をしてくれない。悠仁や恵、野薔薇たちが先生とじゃれているところを見て、最初こそ傷ついていた。でも今は「嫌われているのだから仕方ない」と思えるようになった。

そしてわたしは今日も、先生に雑用を押しつけられる。
五条先生と廊下ですれ違う瞬間、「ナマエ」と呼び止められた。久しぶりに名前を呼んでもらえた、と微かに喜びを感じながら振り返ると、背中を向けたままの五条先生が、持っていた鍵を放り投げる。慌ててその鍵を受け取ると、
「今度授業で使う呪具、磨いといてくれない?僕これから会議で忙しいの、ゴメンネ」
と先生は一方的に述べ、一度もこちらを振り返ることなく去ってしまった。

じわじわと嫌な気持ちになる。だからと言って頼まれた仕事を投げ出すのも嫌だったため、握っていた鍵を確認した。キーヘッドには、わたしも何度か出入りしたことのある武器庫の名前が書かれている。今日は緊急任務もなかったため、大人しく武器庫へと足を向けた。


呪具を眺めるのは、けっこう好きだ。わたしもときどき呪具を使うことがあるので、ある程度種類を把握していると思っていたけれど、武器庫の中は見たことのない呪具で溢れていた。それでも、これは数ある呪具の中のほんの一部で、もっと希少価値の高い呪具はさらに厳重に保管されているのだろう。
武器庫の中ほどに、雑多に呪具が詰め込まれた箱が置いてあった。どれも血や土などの汚れがついていたり、錆びついていたりと、切れ味が悪そうなものばかりだ。そのそばにはクロスや汚れ落としのようなスプレー、さらには砥石まで置いてある。
呪具のメンテナンスに関する知識はあったので、これらを磨くこと自体は何ということはないのだけど、問題はその呪具の量だった。正直一人で磨き上げるには骨の折れる量だし、授業で使うとはいえ明らかに量が多すぎると思う。とはいえ、文句を言ってもしょうがない。五条先生がわたしを嫌っていることにはもう慣れっこだけど、雑用もまともにできない、とますます嫌われてしまうのはやはり嫌だった。

わたしはまず、真希さんが使っているような”屠坐魔(とざま)”によく似た呪具を手に取る。ズシリと重みがあり、よく使い込んでいるのか、柄の部分はだいぶ黒ずんでいた。刃にスプレーを吹きかけると徐々に汚れが浮きあがってくる。その汚れをクロスでゆっくりとふき取った。それを数回繰り返す。自分の顔が映るほどピカピカに磨き上げたら、仕上げに砥石で刃を研いだ。こうして磨き終えた呪具は古布で巻き、空いていた別の箱に入れることにした。

集中力が求められるものの、無心で取り組めるこの作業は嫌いではなかった。汚れていた呪具が美しくなるたびに満たされた気持ちになる。わたしは時間も忘れて、この呪具磨きに夢中になった。


しかし、この集中力の糸は突然断ち切られる。何の前触れもなく開いたドアの音に驚き、わたしは持っていた呪具を落としてしまった。
「…いっ」
わたしの手を滑り落ちる瞬間、研いだばかりの鋭い刃がわたしの人差し指を切る。呪具の刃が、薄い指の皮に切れ目を入れる瞬間をばっちり見てしまったからか、痛さが倍増した。呪具が床に転がる音が空しく響いたあと、急くような慌ただしい足音がこちらに近づいてきた。
「ちょっ…大丈夫?!いま、なんか嫌な間があったけど……」
やって来た五条先生は、人差し指を握るわたしを見下ろして絶句する。そしてハンカチを取り出すと、迷うことなくそれでわたしの人差し指を覆った。細い切れ目から浮き出ていた血が清潔なハンカチに吸収されるのを感じる。
「ナマエ、このまま押さえられる?」
「あ…はい」
「僕、ダッシュで救急セット持ってくるから、ちょっとだけ待ってて。ちょっとだけ、1分、いや30秒で持ってくる」
「えっ、あ…分かりました」
「痛いかもしれないけど頑張って、すぐ戻るから」
そう言って五条先生はくしゃりとわたしの頭を撫でると、嘘ではなく本当に目にも止まらぬ速さで武器庫を出て行った。

まるで人が変わったかのような対応に戸惑いながら、頭の中で「1…2…」とカウントしていると、きっかり30秒で先生が戻ってくる。手には十字マークのついた救急箱が携えられていた。息一つ乱れていないものの、走って来たのか柔らかな白髪は乱れ、かけていたサングラスもずり落ちている。
五条先生はまず消毒液をつけたガーゼを用意してから、わたしの手を取り、慎重にハンカチを外した。
「…少し染みるかもだけど、我慢してね」
そう言って真剣そのものの顔で、ゆっくり丁寧に傷口を消毒してくれた。ピリピリとする痛みに手を引っ込めそうになるも、「ごめんね、あと少しだけ」と先生が優しい声で諭してくれるので我慢した。
続いて先生は、ばい菌が入り込むのを防ぐという透明の塗り薬を塗り、そこにガーゼを当てる。そうして最後は綺麗に包帯を巻いてくれた。

「どう?まだ痛む?」
わたしの顔をよく見ようと顔を近づけてくる先生に驚いて、わたしは大げさにのけ反ってしまう。だって、わたしは一度だって先生の顔をまともに見たことがない。目が合わなくて当然、顔を合わさないのが当たり前。そんな関係だったから、突然至近距離で顔を合わせるのは恥ずかしいに決まっている。そして何より、初めてまともに見る五条先生の顔があまりにも整っていたので、反射的に距離を取ってしまったのだ。
わたしの反応を見た五条先生は、何が起こったのか分からない、というように一瞬キョトンとする。しかしすぐに気を持ち直し、もう一度顔を近づけてくる。

「ねぇ、どうなの?痛むの?」
「な、なんです急に」
「なに、って……心配してるんだよ。だってこれ僕が押しつけた仕事だし、それで君を怪我させちゃうなんて……本当に反省してる。ごめんね、ナマエ」
五条先生の言葉は本心からのようで、その声色には申し訳なさがいっぱいだった。本当に五条先生はどうしてしまったんだろう。「ごめん」だなんて言葉、今まで一度もかけられたことがないのに。
そんな戸惑いからか、わたしの口からは「お気遣いありがとうございます」という堅苦しい言葉しか出てこない。それに、早くこの場から立ち去りたかった。こんな風に優しくされるのには慣れていないし、先生がいつもの調子に戻る瞬間を目の当たりにするのが怖くて仕方なかったからだ。

五条先生はわたしの指を切った呪具を取り上げると、角度を変えながらマジマジと観察した。
「こんなに綺麗にしてくれたんだね、ありがとう。残りのは、僕がやっておくから」
彼はそう言って優しくわたしに微笑む。心臓がぎゅっと掴まれたかのように痛くなった。わたしはちょっと指を切っただけだ。たいした怪我でもない。それなのに、なぜこんなにも大げさに騒ぎ立てるんだろう。なぜこんなに甘い顔をするんだろう。まったくもって意味が分からない。

先生は立ち上がると、わたしが立つのを手伝ってくれるのか、片手を差し出した。わたしはその手を無視して自力で立ち上がる。
「ナマエ、」
「あの、」
わたしと五条先生が同時に口を開く。しかし、先生はにこりと微笑み会話の主導権を譲ってくれた。
「その…怪我をしたのはわたしの不注意でもありますし、だから…そんなにちやほやしていただかなくて結構です」
早く逃げ出せばよかったのに、気づけばそんなことを言っていた。たぶん、手に平を返したような五条先生の態度がどうしても許せなかったのだ。
「えっ?どういうこと?」
「だから、先生に優しくされると…逆に怖いので」
先生はわたしの言葉をまるで理解していないようで、これでもかというほど首を傾げる。
「僕はいつも誰にだって優しいよ?なんでそれに怒るのさ」
「………」
「なんで黙ってるの。だって僕、ナマエにだって……」
そこで先生は、自分の置かれた状況に初めて気づいた、というように目を丸くした。そして、明らかに狼狽する。

「あーーーー、待って。そっか、今、僕と君は二人きりで……うぅん」
「やっぱり先生は、わざとわたしにそういう態度を取っていたんですね」
「違う!いや、違わない、のかな……じゃなくて、いったん僕の話を聞いて欲しいというか、」
「先生の話は聞きたくありません。代わりに、わたしの何が気に入らないのか教えてください」
「いやいやいや、気に入らないところなんて、あるわけないでしょ?!むしろ、ナマエのことは気に入りまくり……!」
「…は?」
「…気に入りマクリマクリスティーなぁんちゃって、あはは…」
「意味、分かんないです」
「だよね、うん」
五条先生は細い溜息を吐くと、「僕は君の指だけでなく、心も傷つけていたってわけだね」と弱々しく笑った。

「じゃあさ、今から僕の話すこと、笑わないで聞いて欲しい」
「内容によります」
「ですよネ。でも、まあ…とにかく聞いてよ」
先生は落ち着かないのか、そばにあった救急箱をいじりながら話しはじめる。
「あのさ、僕ってこの通り、グッドルッキングガイでしょ?でもね、”心”は君らと同じ16歳なの。つまり僕の心って、うぶな思春期の男の子同然ってわけ」
「………」
「うん、でさ……思春期の男の子ってさ、こう、難しいでしょ。気になった子とかに、素直にアプローチできなくて、絶妙な意地悪とかしちゃって……でも本当はね、大事に思ってるのよ。だって気になってるんだもん!優しくできたらいいな、好かれるようにいいとこ見せたいな、とか、思うよ?でも、体が言うことを聞かないっていうか…自分の本心と実際の行動が、いつも裏腹なんだよね」
「あの、」
耐えきれず言葉を挟む。
「なぁに?」
「これって……五条先生の話ですよね?」
「そ、僕の話」
そして、と先生は続ける。
「”君の話”でもある」

五条先生が一歩足を踏み出し、彼の影がわたしを覆う。再び先生が近くにいるという緊張よりも、彼がこれだけ大きい人だということに今の今まで気づかなかった、その驚きの方が大きかった。
「でもさ、僕って仮にも先生じゃない?そういう風に、教え子に特別な感情を持つのってどーなの?っていう葛藤はもちろんあったわけで。その葛藤があるが故の、行動というか…自分を自制するための行動というか…」
先生の大きな手がわたしの頭に乗り、優しく髪を撫でる。そしてその手は緩やかにすべり、わたしの頬を包んだ。サングラス越しのキラキラとした美しい瞳が、射るようにわたしを見つめていた。その瞬間、わたしの体が沸騰するように熱くなった。
「ねぇ、僕の気持ち、言ってもいい?」
わたしは間髪入れずにこう答えた。
「ダメです」
すると五条先生は天を仰ぐようにして、大口を開けて笑った。その隙にわたしは足早に武器庫の出口へ向かう。わたしは先生の話を信じていなかった。それなのに、情けないくらいドキドキしてしまった。子どもをからかう大人は嫌いだ。そして、そんな大人に自分の恥ずかしい顔を見せ続けるのも嫌だった。

「ナマエ」
重たいドアを開け、外に出ようとした瞬間、名前を呼ばれる。肩越しに振り返ると、五条先生がゆっくりとサングラスを外すところだった。
「僕、本気だから…ね」
そう言って彼がいやらしく片目をつぶるので、わたしは逃げるようにドアの外へ飛び出した。
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