恋人は「 」
夏油傑と出会う前、わたしは「ストーカー」というのは架空の存在だと思っていた。100歩譲ってこの世にストーカーがいるとしよう。それでもわたしには一生縁のない存在だと、ほとんど確信を持ってそう考えていたのだ。しかし高校生活1年目を終え、2学年に上がると同時に、その確信は粉々に砕かれることになる。
わたしと夏油は、生暖かい空気が体にまとわりつくある春の夜に出会った。新学期早々、クラス担任から雑用を押しつけられてしまったわたしは、予定よりもかなり遅い帰宅となった。家から近い学校に通っているとはいえ、人通りの少ない夜道を一人で歩くのは心細い。わたしは自分の足元を見ながら足早にアスファルトを歩いていた。
そんな姿勢だったから、十字路の角を曲がってこちらにやってくる人間がいることになど、当然気づくわけがない。だからわたしは、この角を曲がってきた人間と盛大に衝突し、これまた盛大に尻餅をついたのである。我ながら、本当に漫画みたいな出来事だと思うのだけど。
わたしが衝突した男は少しもよろけず、巨木のようにずっしりとその場に佇んでいる。身長は180cmをゆうに超えていそうだ。そして、街灯に照らされるその男は全身真っ黒の服に身を包んでいる。学ランに見えなくもないが、なんだか変わった制服のようだ。
しかしながら、この男はさっきから一言も発さない。自分よりも明らかに小柄な女性を吹っ飛ばしておいて(根本的に悪いのはわたしのほうなんだけど)その態度はないんじゃないか。そう思って思い切り男の顔を睨み上げたが、直後わたしは自分の行為を激しく後悔する。
無表情でこちらを見下ろす男は、大の大人でも逃げ出してしまいそうなほど鋭い目つきをしていた。よく言えば切れ長の涼しそうな目元、悪く言えば目つきが悪く、非常に人相が悪いのだ。両耳についた大きなピアスが彼の剣呑な雰囲気をさらに助長させ、筋肉質な体であることは制服の上からでも十分に分かった。
”暴行されるに違いない”と思った。こんな怖い男にぶつかってしまったのだから、それは当然の報いとも言える。それでも何か助かる道はないかと、わたしは素早く左右に目を走らせた。しかし、電柱の脇に生える小汚い雑草以外わたしの周りにはなにもなかった。いよいよ人生詰んだと空を仰ぎたくなったとき、はじめて目の前の男が動いた。
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
予想外の優しい言葉と穏やかな声色に度肝を抜かれる。そのときのわたしは、異様なものでも見るような目つきで男を凝視していたに違いない。
「私としたことが、あなたに見とれてしまって……すみません、今起こしますから」
そう言って彼は、割れ物でも扱うみたいに慎重に優しくわたしを起こしてくれる。
「お怪我はないですか?」
よく聞くと、甘く色っぽい声である。無表情のときとは違い、眉を下げ申し訳なさそうにわたしを覗き込む今の彼の顔は、控えめに言って男前だ。わたしは急にドギマギとしながら、とりあえず怪我がない旨を伝える。
「そうは言っても、あとから体が痛んだら大変だ。…あの、もしよろしければ連絡先を教えてもらえませんか?いえ、変なことは絶対にしませんから。私はただ、あなたの体のことが心配で…」
なんて優しい人なんだろうと思った。だから、わたしはホイホイと連絡先を教えてしまう。(この自分の愚かな行動をあとで後悔するとは知らずに…)こうしてわたしは、この男前にあらゆる謝罪の言葉をかけられ、丁重な扱いを受けながら家まで送られ、この日を終えた。そしてこの日に、めでたくわたしの「ストーカー」が誕生した。そう、この日わたしにぶつかった男―――夏油傑こそが、わたしにとって初めてのストーカーなのである。
夏油がわたしをストーキングする理由は簡単。
「君に一目惚れしたからだよ」
勝手にわたしの帰りを待っていた夏油が、当然のように隣を歩きながらそう言う。
「あのさ、待ち伏せするの辞めてって言ったよね。あんたがわたしの彼氏だって勘違いしてる人が大勢いるの」
「それは光栄だな。ぜひとも君の彼氏にしてほしいね」
「絶対に嫌」
前から自転車がやって来た。すると夏油は「危ない」と言って大げさにわたしの肩を引き寄せる。微かにコロンの香りがした。
「このまま手を繋いでもいいかな」
「なに言ってんの?」
わたしは夏油の腕を振りほどき、彼から離れるように距離を置く。それでも夏油はちっともめげずに、ニコニコしながらわたしについてくるのだ。
「あんたの顔が好みじゃなかったらとっくに警察に突き出してるわ」
「おや、私が君好みの顔でよかったよ」
それから夏油はわたしの腰に手を回し、ぐっと顔を近づける。そうして、わざとらしく甘い声を作ってこう囁くのだ。
「ナマエ、今日も君が大好きだよ。だから、私を君の恋人にしてくれないかい?」
夏油はわたしが通う高校の近くにある、呪術高専という学校に通っているらしい。近く、といっても夏油の学校は山を越えないと通えないくらい辺鄙な場所にあるのだけど、夏油からすると「近い」という感覚らしい。そんな場所で寮生活をしているという彼は、わたしの恋人になるべく日夜奮闘していた。毎日というわけではないけれど、わたしの学校帰りに待ち伏せするのは日常茶飯事。登校時に「たまたま外を走ってたから」と通学路で出会ったことも、数えきれないほどある。また、わたしの行動を細かく把握しているのか、ちょっと買い物に…とコンビニに行けば夏油と出会うし、図書館に本を借りに行くと、すでに夏油が数冊の本を持って閲覧室にいる、なんてことも頻繁にあった。どうすればこんな”偶然”が起こるのか分からないが、とにかく特異なストーカーの素質を持っているらしい夏油は、こうしてわたしのことをつけまわした。
しかし、夏油がそばにいることで得をしたこともある。
まず、変な人間に絡まれなくなった。わたしくらいの年齢だと、制服姿の女子高生というだけで絡んできたり、因縁をつけてきたりする人間が大勢いる。それが夏油という異様な存在感を放つ男が隣にいると、彼らは一様に委縮した。わたしまで強い存在になったような気さえする。
さらに夏油はわたしのどんなに身勝手な買い物にもご機嫌で付き合ってくれた。そもそも、彼がいつも勝手についてくるだけで、一緒に買い物に行ったつもりはないのだけど…まあとにかく、夏油は大変に気が長い男で、荷物持ちも喜んで引き受けるような奴だった。
それから夏油は気持ちいいくらいよく食べる男だった。わたしはたくさん食べる男が無条件で好きである。しかも夏油は食べ方が綺麗で米粒一つ残さず食事を平らげるし、蕎麦などの麺類も上手に上品に食べる。これで好感が持てないわけがない。
そして悔しいことに、夏油の見た目はわたし好みだった。だったら付き合えばいいじゃないか、と言われるかもしれないけれど、それとこれとは話が別だ。これだけわたしに執着し愛を囁きまくる変態を、信用できるわけがない。付き合ったら最後、独占欲と嫉妬心を爆発させとんでもなく束縛するに決まっている。
それに、所詮ストーカーはストーカーだ。いつでも、どこにでも夏油がいる日常は異常だし、夏油がいる限りわたしは恋人の一人も作れやしない。確実に迷惑をこうむっているのである。もちろん「迷惑だ」「もうストーカーをするな」と文句を言ったこともあるけれど、夏油には響かない。「頭がおかしい」「いい加減にしろ」と罵ったってどこ吹く風。なんなら「威勢がよくて可愛いね」と微笑まれてしまう。彼は屈強な心臓を持った最強にして最悪なストーカーなのだ。
+++
そうして夏油にストーカーをされ続けて半年もの月日が経ったころ、わたしに好きな人ができた。もちろん夏油のことではない。たまたま委員活動で一緒になった、3年生の先輩だ。放課後、先輩と一緒に仕事をする機会があり、そのとき同じアーティストが好きだと判明して意気投合。連絡先を交換し、校内で一緒にお昼ご飯を食べるほどの親密な仲になった。
正直、わたしと先輩が付き合うのは秒読みだと思った。わたしから告白してもよかったけれど、やっぱり”好きな人から告白される”という憧れは捨てきれない。だからわたしは、先輩から告白される日を今か今かと待っていた。
夏油は、わたしが恋をしていると気づいていたと思う。だけど、何も言わなかった。いつも通り勝手にわたしの帰りを待ち、勝手にプライベートの時間を邪魔してきた。でも好きな人がいることで有頂天だったわたしは、そんな夏油のことなど気にならなくなっていた。むしろ、話し相手がいて嬉しいくらいだ。わたしは夏油がストーカーだということも忘れて、先輩のことをペラペラと喋りまくった。夏油は聞き上手で、ときどき質問を挟みながらも、ニコニコとわたしの話を聞いてくれた。
そういえば、先輩を好きになって以降、夏油から口説かれなくなった気がする。さすがにわたしのこと、諦めたのかな。だから、恋人じゃなくて「友達」になろうとしてくれているのかな。わたしは楽天的にそんなことを考えながら、再び夏油に惚気を垂れ流した。
―――しかし、そんな関係は長くは続かなかった。
ある日突然、先輩から一切連絡が来なくなったのだ。どんなにメールをしても、電話をかけても「現在使われておりません」といった無機質なメッセージに跳ね返される。先輩はわたしからの連絡を拒否しているのだ。校内でも明らかにわたしを避けているし、声をかけようものなら気持ちいいくらいに無視される。
とうとう我慢できず、校内で先輩を捕まえて詰め寄った。すると先輩は、顔を引きつらせ素早く周りに目を走らせる。何かに怯えているようだ。
「本当ごめん。でも、もうミョウジさんに関わるなって言われたから…」
「誰にですか?」
「……言えない」
「はぁ…?そんなの納得できませんよ、ちゃんと説明してください!」
わたしが声を荒げると、先輩はますます怯えたような顔をする。
「やめてよ、俺はもう嫌なんだよ。君のことが飽きたんだよ!」
「嘘ばっかり!そんな言わされているみたいな台詞、信じるわけないでしょう」
そのとき、わたしはある一人の男の顔が頭に浮かんだ。まさか………いや、そのまさかだ。その瞬間、一気に体の芯が冷えていく。
「先輩、」
「な、なんだよ」
「正直に答えてください。先輩を脅した人って、もしかして………」
わたしがあの男の特徴を一つずつ口にするにつれ、先輩の顔は徐々に青くなっていった。
+++
放課後、近くの公園に寄り道をした。すると公園にはすでに先客がいる。ブランコに乗り、ゆらゆらと揺れている夏油はわたしを見ると「やぁ」と言って片手を上げた。わたしはすぐに回れ右をする。しかし、そんなわたしを逃がさんと言わんばかりに、再び夏油が声を上げる。
「もしかして、振られちゃった?」
聞き捨てならない言葉に、わたしの足は地面に縫い付けられたかのように固まってしまった。ザク、ザクと砂を踏みしめ、夏油がこちらに近づいてくる。自分の手がぶるぶると震えるのを抑えられない。
「…じゃあ、私が慰めてあげようか」
気づけば、夏油の頬を力いっぱい叩いていた。彼は少しも避ける素振りを見せず、大人しく頬を打たれる。乱れた前髪の隙間から、伏し目がちな彼の瞳が見えた。
「嫌いになったかい?」
「……大嫌いよ、最初から」
「そう。わたしはナマエが大好きだ。どんなに汚い手を使っても手に入れたいくらいに」
泣き顔は死んでも見せてやりたくなくて、必死に涙をこらえる。噛んだ唇から血の味がした。
「あんたはおかしい、狂ってる。異常者だ」
「否定はしないよ」
夏油は馬鹿みたいに優しくわたしを抱きしめる。その瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「だって、ナマエに狂っているんだもの。仕方がないだろう」
「だからって、普通、こんなこと…する?」
「君が私以外の男と付き合うなんて…そんなこと、あってはならない。だから当然のことをしたまでだ」
わたしは力いっぱい夏油の背中を殴る。ドン、ドンと鈍い音がし、殴るたびにその振動がわたしにも伝わった。
「ごめんね、ナマエ。私はもう自分で制御できないくらい、君のことを愛してしまっているんだ」
だから、と言って夏油はわたしの体を離す。そうして、ゆっくりとわたしの顎をすくい上げた。
「大人しく私のものになれ」
愛しそうに細められた目が、魅力的だと思った。わずかに口角の上がった唇が色っぽいと思った。わたし、夏油の顔だけは本当に好きなんだよなと、場違いなことを考える。そして彼は、そんなわたしの考えを見透かしたかのように薄く微笑むと、そっとわたしの唇を塞ぐ。生涯における、はじめてのキスだった。
一度夏油の唇が離れると、わたしはどうしようもない寂しさと不安を覚えた。なぜそんな感情を抱くのか分からず、混乱する。でも夏油はその理由を分かっているようで、また小さく微笑む。そして、再びわたしに口付けをした。甘くて、甘くて、本当にどうにかなってしまいそうで、縋りつくように夏油の背中に手をまわす。彼の術中にはまっていることから目を逸らすには、こうして熱を分け合い、我を忘れるしかなかったからだ。