to be continued





借りを作るのが嫌いだ。お前を助けてやったと、馬鹿でかい見返りを求める人間がいるからだ。こういった尊大な態度をとる男は多い。現にわたしの近くにも一人、そういう男が―――。


”君の代わりに任務、片付けておいたよ”
耳元でそう囁かれて全身鳥肌が立つ。今、この部屋にいるのはわたしだけのはず。ドアが開いた音などしなかったはずだ。しかし相手を図に乗らせたくないので、努めて平静を装い、手に持った書類から目を離さずに口を開く。
「どの任務?わたしの耳には入っていないんだけど」
「だって僕が伝えなかったんだもの」
五条は馴れ馴れしくわたしの肩に手を置いた。すぐに振り払ってもよかったが、そうやって触れるのは相手の思う壺だと思い辞める。
「だって君は僕の大事なヒトだから、危ない目に合わせたくないだろう?」
「なに寒いこと言ってるの、本当いい迷惑」
五条はわたしの首筋に手を這わせる。そうして脈を測るみたいに、ぴったりと頸動脈に指を当てた。
「ありゃ、全然ドキドキしてないじゃない」
そう言ってその手をそのまま耳に這わせようとしたので、わたしはデスクに両手をつき立ち上がる。そして振り向きざまに、先ほど書類に走らせていた万年筆の切っ先を奴の頸にピッタリと当ててやった。当の本人はというと、抵抗するでもなくニコニコしながらわたしを見つめている。気味が悪いと思った。こんなにも殺意を寄せている女に向かって、よくもまあそんな呑気な顔ができるものだ。結局はどれもこれも無駄な抵抗ではあったが、わたしは彼に嫌悪を示すことを忘れなかった。

五条はいつもわたしの二手、三手先を行き、純粋な好意からわたしの任務を横取りし、片付けてしまう。おかげでわたしはいつも階級の低い雑魚を片付けるような任務しか回ってこず、かすり傷一つ負うことなく仕事を終える日々を送っていた。呪術高専の「教師」という立場であるのに、こんな間抜けな状況にいる人間を自分以外に見たことがない。さすがに生徒たちと任務に赴くときは、多少歯ごたえのある呪霊を相手にすることが多いが、単独任務が入るとそれはすぐ五条に奪われてしまう。このように五条の一方的な好意という邪魔が入るせいで、わたしは術師として、教師としてレベルアップを図れずにいた。

こうした五条の勝手な行為はもちろんイライラするのだけど、それ以上に「片付けておいた」「片付けてあげた」といった押しつけがましい言葉をかけられることが何よりも苦痛だった。任務を肩代わりしてくれなんて誰も頼んでいない。それなのに、どこか自慢げな、見返りを期待したその言葉をかけられると、怒りで頭が狂いそうになる。

さらに腹が立つのは、こうした状況を周りがさほど問題視していないことだ。夜蛾学長は「ナマエが赴任してから、悟がよく働くようになった」と満足気な顔だし、生徒たちは「ミョウジ先生の前だと、五条先生って本気出すからカッコいい」という最悪の感想を抱いているのだった。


もちろん、過去に本気で五条を怒ったこともある。横取り行為を心から迷惑していたし、また人間として心から五条が嫌いだったから、その気持ちをありのままにぶつけたのだ。しかし、五条は痛くも痒くもないという顔で、激昂するわたしを穏やかな表情で眺めていた。あまつさえ、声が枯れるまで怒鳴り散らし、肩で息をしているわたしを抱きすくめようとするのだから、いよいよこいつは気が狂っていると思った。

また、五条の考えは一貫していた。わたしがあれほど怒っても、五条はハッキリと任務横取りを辞める気はないと言ったのだ。「わたしがこの学校で役に立たない人間になってしまってもいいのか」と言うと、五条は涼しい顔で「むしろそのほうがいい」と答えた。
「正直、ナマエには術師なんて危ない仕事、辞めてほしいと思ってる」
当時、五条はするりと目隠しを外しながらそう言った。
「それよりも、美味しいごはんを作って僕の帰りを待っていてほしいってわけ」
そのとき、わたしは五条がまたセンスの悪い冗談を言っているのだと思った。だからひどく冷たい口調で「面白くない」と一蹴したのだが、五条はあからさまに拗ねた表情を浮かべた。
「えー、僕、結構本気で言ったんだけど」
「冗談は休み休み言ってくれない」
「だから、本気だって!いや、もしかしてナマエって結構鈍いタイプ?」
五条は自分の言葉に自分で笑ったあと、わざとらしいくらい真剣な顔をわたしに向けるとこう言った。
「だから、術師なんて辞めて”僕のお嫁さん”になってほしいって言ってんの」
このとき、わたしは五条のしょうもない台詞に呆れすぎて、言葉も出なかったのだけど、五条はそれを”嬉しさのあまり絶句している”と捉えたらしい。そのため、たちまち表情を明るくさせ「ね?いいでしょ、僕のお嫁さん。絶対に苦労させないから!」と嬉々とした言葉を続けた。そしてこの瞬間、わたしはこの男には何を言っても無駄なのだと理解した。これぞ馬耳東風、馬の耳に念仏だ。

「五条、悪いけどわたし、料理嫌いなんだよね」
わたしの声が微かに震えていたことに、五条は気づいただろうか。一息ついたあと、わたしは「それから」と続けた。
「五条のことは、もっと嫌いなんだ」
五条は目をパチクリとさせたあと、相好を崩してこう言った。
「んもう、ナマエのいけず!」
あれ以来、わたしは五条に本気で立ち向かうことを辞めた。

+++

こんな風に、長いあいだ五条という最低最悪の男によってがんじがらめになっているわたしだったけれど、ついに女神がわたしに微笑むときがきた。五条が遠方への出張に出ているとき、緊急任務が入ったのだ。現場には特級呪霊もいるとのことで、あるだけの戦力が集められた。そしてその戦力の中にはわたしも含まれており、招集されたメンバーの中でも即戦力として現場に駆り出されることになった。決して喜んでいい状況ではなかったが、それでもわたしは久しぶりに腕試しができるのだと、舞い上がる気持ちをなかなか抑えることができなかった。

数年前に閉館したショッピングモールであるというその現場に着くと、すでに数名の生徒たちが次々と湧き出る呪いを祓っているところだった。しかし応戦する術師の数が少ないことから、やや形成が悪いようだ。そこで携帯してきた呪具にたっぷりと呪力を流し、なぎ倒すように呪いたちを一網打尽に祓う。そのあと生まれ出ようとした呪いたちも、それらが顔を出した瞬間すぐに薙ぎ払った。その様子を見て生徒たちが感嘆の声を上げる。久しぶりに教師らしいことができて、わたしはますます気分が高揚した。

誰かを守ること、助けることって、こんなに気持ちが良いんだと思った。正直今なら五条の気持ちが少しだけ分かる。自分よりも弱い存在を守り、自分の強さを感じるって、とてつもなく良い気分になれる。きっと五条もわたしの任務を奪い片付けることで、わたしを守ってやっているという快楽を得ていたのだろう。

冷静にならなくてはいけないと思いつつも、わたしはややハイになったまま敵に挑み続けた。何度もヒヤリとした場面が訪れたものの、なんとかそれを切り抜けるものだから、「やっぱり自分は強いのだ」と謎の手ごたえと自信を持ちはじめる。そうだ、わたしだって五条の後ろを走れるぐらい強いに違いない。それなのにあいつがわたしを押さえつけるものだから、力を出し切れずにいたのだ。むしろあいつは、わたしがこれ以上強くなるのを恐れていたのかもしれない。だから次々とわたしの任務を奪うのではないか。そんな風に徐々に思考回路も大胆になっていく。しかし、そんな浮かれた状態の人間が足元をすくわれるのは時間の問題だった。



――
―――背中をしたたかに打ちつけ、数秒呼吸が止まる。芋虫のような体から何本もの手を生やしたおぞましい呪霊がわたしの体に這い上がる、うごうごとした不気味な感触だけが鮮明だ。わたしの胸まで這い上がった呪霊が、顔から生やした左右の手でわたしの顔を包み、上を向き続けるように固定する。それは戦闘中一度も目にしなかった呪霊だった。いつ現れ、いつわたしの背後を取っていたのか分からない。異様な臭いがして振り返ると、そこにその呪霊はおり、何本もの手を使ってわたしを引き寄せた。そうして気づけばものすごい力で地面に叩きつけられていたのだ。

「馬鹿オンナ…馬鹿オンナ……あは、あはァ」
呪霊はそう言いながら、芋虫の体に埋もれたような顔を近づけてくる。近づくたびに異様な臭いが濃くなったが、相手の両の手で固定された顔を動かすことはできなかった。
「取り込ム、取り込ム、取り込ム…」
そう言って呪霊は大口を開けた。口の中には歯のかわりにヌメヌメとした何十本もの手がある。それらの手がゆっくりとこちらに伸びてくるものだから、わたしは全身が怖気立った。伸ばされた手はベタベタをわたしの顔を触り、中でも多くの手が唇に触れた。まるで、わたしの口の中に入りたがっているようだ。まだ呼吸が上手くできない状態ではあったが、わたしは一文字に唇を結び、鼻で浅い呼吸を繰り返した。

「う、」
口内に錆びた鉄のような味が広がり、思わず呻き声が出る。どうやら呪霊の多くの手の中の1本が、その指をわたしの口内に侵入させることに成功したらしい。それに気づいた他の手たちが一斉にわたしの唇に群がる。吐き気を催すような最悪の気分だった。遠くで仲間たちの怒号と、激しい戦闘音が聞こえる。どうやらわたしを救いに来れるような人員はいないようだ。それに場所も悪かった。突如現れたこの不気味な呪霊は、仲間たちから引き剥がすように、崩れかけた飲食店の店内へとわたしを連行したからだ。

人知れず呪霊に捕食されかけている自分がひどく惨めで悲しかった。五条の言う通り、術師という仕事になど手を出さなければよかったのかもしれない。もしかしたら五条は、こんなわたしの弱さを見抜いていたから、術師を辞めろと言い続けていたのだろうか。結局、死に際に思い出すのも五条のことばかりで、それが余計に虚しかった。

無駄な抵抗を辞め、生きることを諦めかけたとき、ふっと体を覆っていた重みがなくなった。同時に口いっぱいに広がっていた酷い鉄の味もなくなる。何度か瞬きを繰り返して、ぼやけていた視界を明瞭にする。真っ黒い服に身を包んだすらりとした足が見え、それだけでそこに誰が立っているのかが分かるのだから嫌になる。
「ちょっとちょっとぉ〜、僕の未来の奥さんにディープキスするのやめてくれる?」
一度体を横に倒してから、手をつきゆっくり起き上がる。もがき苦しむような声がする方を見上げると、五条の手に首元(と言っても、そこに首としてのくびれはほぼないのだけど)を締め上げられた芋虫呪霊が、苦し気に身をくねらせていた。
「あっ、もしかしてまだしてない?ディープキス未遂だった?でも、もう遅いよ、僕怒っちゃったから」
口調こそくだけているけれど、その声は恐ろしいほど温度がない。血管の浮き上がった五条の手にさらに力が入り、彼の呪力に耐えきれなくなった呪霊が派手な音を立てて爆ぜた。芋虫の体に生えていた無数の手が飛び散り、それがわたしのそばにもボトボトと落ちてきて気持ちが悪い。その手を一本一本を踏みつけながら、五条がわたしの元へやってきた。

「立てるかい?お嬢さん」
そう言って五条はわたしの腕を取り、ゆっくりと立ち上がらせる。素直に、ありがとう、と言いたかったけれど、息を吸った途端気分が悪くなり2〜3度空咳をする。呪霊の手に侵入されたときの不愉快な鉄の味が、まだ口内に残っていたのだ。そんなわたしを見て五条は、
「まったく、僕の居ぬ間になにをしていたかと思えば、君は…」
とぼやくと、出張帰りに携えてきたであろう紙袋(たぶんお菓子が入っている)からミネラルウォーターのボトルを取り出し、キャップを開けた。てっきりそれを飲ませてもらえるのだと思っていたのだが、ボトルに口をつけたのは五条の方だった。意地悪をされたのかな、と恨めし気に高級そうな水のボトル眺めていると、五条に腕を引かれる。そうして屈みこんだ五条がわたしに顔を近づけ、ピッタリと唇を重ねた。

驚いて体を反らせようとするも、背中に回された手がそれを許さない。さらに驚いたのは、わたしの唇を割って五条の舌が侵入してきたことだ。何が起こっているのか分からずパニックを起こしかけたところで、ぬるいミネラルウォーターがわたしの口内に注ぎ込まれた。

「っく、けほっ…」
わたしは全力で五条の胸を押すと、体を思いきり捻って水を吐き出した。それはほとんど反射的な行為だった。というより、突然水を口移しされてそれを受け入れられる人間なんて、どれほどいるのだろうか。
「ああ、口をゆすぐ感じね。それでもいいよ」
五条は咳き込むわたしを再び引き寄せると、先ほどと同じようにボトルを傾け、水を口に含んだ。
「あんた、なに考えて…!」
「ん」
「ん、じゃない!嫌だ、やめ……!!」
背中にまわっていた手が後頭部に添えられ、いよいよ強制的にこの行為を受けさせられる。まず唇が合わさり、そのあと五条の舌が入り、水が流れ込む。口の端から垂れた水が首や胸を濡らすのも嫌だったし、命を助けてもらった代償がこの男とのキスだと言うのは、あまりに屈辱的すぎた。

2度目に注がれた水も、見事に全て吐き出してしまう。そんなわたしの姿を見て、なぜだか五条は目隠しをすっかり取ってしまった。
「…どうしよう。僕、新たな性癖に目覚めちゃうかも」
「五条…いい加減にしろよ」
「ね、じゃあ最後にもう一回だけ」
抵抗する間もなく、水を口に含んだ五条の唇が押し当てられる。もはや呪霊が残した鉄の味はしなかったが、それでも五条から与えられるこの水を飲む気にはなれなかった。

3度目に与えられた水も残らず全て吐き出してしまったあと、五条は乱暴にわたしの顎を掴み、すぐさま唇を重ねてきた。しかし、いつまでたっても水が浸入してくる気配はなく、それどころかこちらが一切望んでいない熱をはらんだ五条の舌がわたしの口内を犯しはじめた。
五条は逃げ回るわたしの舌に執拗に絡みつき、吸い上げたかと思うと、優しく愛撫するように唇を食んだ。胸や腕を殴っても、足や腹を蹴り上げても、五条はこのディープキスを辞めなかった。実際はさほど長くなかったのかもしれないが、わたしにとっては病的なほど長くしつこいディープキスに思えた。

+++

「いやさ、呪霊がナマエを襲ってるのを見たら、なんか妬けちゃって」
「…これなら呪霊とキスした方がましだったわ」
わたしがシャツの袖で口を数回拭うと、五条は「ひどい!」と大げさに嘆いてみせた。あんな行為をしておいて、あっけらかんとした態度で接してくるのは、唯一五条の良いところだと言えるかもしれない。
「それにしても、ナマエにはやっぱり僕がついていないとダメだね。ちょっと目を離したら、こんなことになっちゃうんだから」
「………」
本来なら言い返してやりたいところだったけれど、今回ばかりは状況的に文句は言えなかった。しかし、こうした言葉をかけられたとて、もうわたしの気持ちが揺らぐことはなかった。
「やっぱり僕的には、五条悟という最強の男に庇護された”お嫁さん”っていう職業が、ナマエに一番合っていると思うんだけど、どうかな?」
予想通りのくだらない口説き文句を五条が発したとき、わたしはほとんど笑いそうになっていた。そんなわたしを見て、「なになに?やっと僕のお嫁さんになる気になった?!」と五条は目を輝かせる。

「実は今日、戦闘の中で自分のキャリアについて考え直していたの」
「うんうん、それでそれで?」
五条ははしゃぎながらわたしの両手を取る。そんな彼の目を見ながら、わたしはこう言った。
「わたしはあんたがいる限り、絶対に術師を辞めない」
「……え?」
「わたし、やっぱり五条がむかつく。わたしみたいな弱い人間を助けることで快楽を感じてる五条には、反吐が出そう。でも、舐められるくらい弱いんだって分かった。だから、五条が嫁に来いだなんて言えないくらい、強くなる」
呆気に取られる五条の手に包まれた自分の手を引き抜くと、「だから、次任務の邪魔したら殺す」と付け加えた。
「んー……なんていうか、僕はあくまでナマエが好きなだけなんだけど…まあ、君がそうしたいなら、それでいいか」
このとき、五条は初めてわたしに困ったような笑みを見せた。けれど、すぐにまたいつものお調子者の顔に戻り、「”お嫁さん”のポストはいつでも募集中だからね」とおどけてみせた。それからわたしたちは、どちらからともなく今もなお呪霊と戦っている生徒たちの応援に行くべく、この荒廃した店舗を後にする。途中、五条が当たり前のように手を繋いで来ようとしたのでその手を引っぱたくと、今日一番のいじけた顔をした。
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