深夜徘徊のすゝめ





「今日もお出かけですか」
誰もいないと思っていた暗闇から声が聞こえたものだから、わたしは大げさではなく驚きで腰を抜かした。下ろしたてのデニムに容赦なく砂や雑草の切れ端がつく。建物の暗がりから月明りの下へぬっと現れたのは、きっちりとスーツを着込んだ七海さんだ。わたしはいまだ物凄いスピードで脈打つ鼓動をこめかみに感じながら、無表情でわたしを見下ろす七海さんを呆然と見つめた。

彼が黙って手を差し出すので、そうっとその手を握る。ゴツゴツとした堅い手の感触にやや戸惑っていると、ゆっくりとわたしを引っ張り上げてくれた。
「で、どうなんです。こんな夜更けに、お出かけですか?」
「あー…その、喉が渇いたので、ジュースを買いに」
「そうですか。しかし、今アナタがいるのは自販機がある場所とは正反対です」
七海さんはそう言って、腕を組む。
「それからその言い訳、前回も聞きました」
感情の起伏がない、淡々とした口調でわたしを咎める七海さん。居心地が悪いはずなのに、気を抜くと口角が上がってしまいそうだったので、必死に真面目な顔を作った。

「アナタがこうやって真夜中に学校を抜け出そうとしたのは、私が知る限り7回目です」
「…はい」
「任務があるわけではないのに抜け出そうとする。正直、私個人としては、ミョウジさんがプライベートでどんな生活を送っていようがどうでもいい。ただアナタはこの呪術高専の大事な生徒であり術師です。何かあってからでは遅い。だからこうして、わざわざアナタを待ち伏せていたというわけです」
わかりますね?と言って顎を上げ、威圧的にこちらを見下ろす七海さん。わたしは苦笑いしか浮かべられなかった。


わたしにはもともと徘徊癖があった。呪いと対峙するリスキーな毎日から現実逃避がしたくて、「ちょっと不良な普通の高校生」の真似事をしたのがはじまりだ。仲間たちが寝静まったのを見計らって、こっそりと寮を出る。普段あまり着る機会のない私服に身を包み、学校を抜け出すのだ。もし間に合えば深夜バスに乗り込むし、運よくタクシーが捕まればそのまま繁華街まで乗せてもらう。そうしてたどり着いた夜の街を、ただブラブラと歩いて回る。

ときどき頭の悪そうな不良軍団に声をかけられることもある。そんなときは適当に話を合わせ、ついていくフリをして途中で逃げ出す。こういう奴らは追いかけてくるほど粘着するような人間ではないので、わたしが逃げたところで何ら問題はない。しかし、明らかにヤバそうな男たちに絡みつくような目で見られたときは別だ。そういうときは、深夜までやってるマンガ喫茶とか、人通りの多い場所とかへすぐに移動した方がいい。下手すれば拉致られる可能性もあるからだ。

わざわざそんな危険がある場所に行くなんて愚かだと、誰もが呆れるだろう。でも、こういうちょっと刺激的で、ちょっと虚しい時間が、わたしには愛おしい。”普通の10代”って感じがするからだ。だからわたしは学校を抜け出し街を徘徊する、その癖を辞められなかった。

ところがある日、そうして学校を抜け出すところを七海さんに見つかってしまう。七海さんはわたしを叱るでもなく、こんな時間に何をしに行くのか、それだけを淡々と尋問した。最初は任務に行くのだとしらばっくれたが、それなら自分もついて行くと言うので参ってしまう。結局、ちょっと遊びに行くつもりだったと白状し、その日の深夜徘徊は失敗に終わった。

翌々日の真夜中、わたしは徘徊にリベンジした。前回七海さんに見つかった時間よりもさらに遅い時間帯を選び、部屋を出た。しかし、結果は前回と同様。どこからともなく現れた七海さんが、冷たい目をしてわたしを待ち構えていたのである。このようないたちごっこが何度も繰り返され、以来わたしは一度も深夜の街へ赴けていないのだった。

ただいつからかわたしは、”七海さんに見つかること”を嬉しいと感じるようになっていた。普通の10代の真似事を妨害されているというのに、おかしな話だと思う。だけど、静まり返った校内を歩いている中、仏頂面の七海さんが現れると「今日もわたしを見つけてくれた」と嬉しくなってしまうのだ。


「…何を笑っているんです」
不服そうな声が降ってきて我に返る。見上げると、怪訝そうな顔をした七海さんがこちらを見ていた。わたしは慌てて真顔を装うも、もう遅い。七海さんは溜息をついて、組んでいた手を解きその手を腰に当てた。
「少しはこちらの気持ちも考えたらどうですか?目を離すとすぐに脱走を企てる人間がそばにいるのは、気が気ではないんですよ」
「でも…」
「はい?」
「でも七海さん、わたしが抜け出すタイミングいつも把握してるじゃないですか。まさか、わたしにGPSでも仕込んでるとか?」
「……面白いことを言いますね」
ぎゅっと眉間に力を入れた七海さんの口調は、表情の割に柔らかい。むしろ、おかしなことを言ったわたしを楽しんでいるみたいだ。
「アナタの思考が非常に分かりやすいから、ですよ」
「え?」
七海さんが突然夜空を見上げた。わたしも釣られて顔を上げる。煌々と輝く半月がわたしたちを照らしていた。
「気づいていないのかもしれませんが、ミョウジさんは月が綺麗な夜にここを抜け出したくなるようですね」
いつの間にか七海さんは、月ではなくわたしを見ている。その目は楽し気に細められていた。
「思い返してください。雨が降る夜に、アナタがここを抜け出そうとしたことはありましたか?」
「………」
単純な思考だと言われているようで、悔しかった。たぶんわたしは、七海さんが言葉で言い表せないような力で、わたしを見つけてくれていたんじゃないかとか、そんな子どもじみたことを心のどこかで考えていたのだ。すっかり黙りこくってしまったわたしを、七海さんは背を丸めるようにして覗き込む。色素の薄いその瞳が、月光を少しだけ反射していた。

「さあ、むくれていないで部屋に戻ってください」
「…七海さんって面白くない」
「何か言いましたか?」
「……いいえ」
深夜徘徊に失敗したとき、七海さんは必ず部屋の前までわたしを送り届ける。きちんと部屋に戻るのを自分の目で確かめるまで、気は抜いてやらないって感じだ。
わざとのろのろと歩いても、七海さんは何も文句を言わない。のんびりと月を眺めながらわたしの隣を歩く。この時間は、七海さんに「負けた」という気がしてちょっと悔しいけど、でも二人で秘密の時間を過ごしているみたいな気分がして、悪くはなかった。
そうして到着した自室の前。鍵を探すフリをしてグズグズしていると、いつの間にわたしのパーカーから抜き取ったのか、七海さんが鍵を使ってドアを開けてしまう。だから観念して薄暗い部屋の中に足を踏み入れた。

「ミョウジさん」
一応、労いの言葉をかけようと口を開きかけたとき、七海さんがわたしを呼んだ。彼が立つ廊下には窓があり、そこから薄く月光が差し込んでいるのが見える。
「私も、アナタを探すのは嫌いじゃないですよ」
静寂の中、ぽつりと七海さんの声だけが浮かび上がった。何を言われたのかよくわからず、わたしは穴が開くほど七海さんの顔を見つめてしまう。目を凝らさないと分からないほどの小さな笑みを、彼の口元に発見した瞬間、七海さんは「では、おやすみなさい」と言ってあっさりとドアを閉めてしまった。


一人部屋に残されたわたしは、七海さんが去っていくその足音が聞こえなくなるまで、ドアの前で呆然と佇んでいた。すべてバレていた。それは、月夜に抜け出すパターンのことではない。わたしが彼に見つけられるのを喜んでいたことも含め、七海さんにはすべてがお見通しだったのだ。
それでも不可解なことがひとつある。
「私”も”、って……なに」
わずかに上がった七海さんの口角を思い出す。なんだか意味深で、不敵な、そんな笑み。大人だからあんなことを言ったのか、大人だからあんな笑い方したのか。どちらにせよすごくズルくて腹が立つ。それなのに、わたしの鼓動はいつまでもスピードを上げ続けていた。

耐えきれずわたしは勢いよくベッドに身を投げる。そのまま布団も枕も腕に抱え、抱きしめる。「私も、アナタを探すのは嫌いじゃないですよ」…あの言葉が嬉しすぎて、頬の緩みを阻止することができなかった。
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