「ただいま〜」
「おかえり名前チャン」
社会人5年目、帰宅して暗い玄関に出迎えるのもすっかり慣れた頃、我が家にペットが増えた。
ツンツンの黒い毛並みが特徴的で、私が帰宅すると四六時中後ろを着いてくるのが可愛い。やたらとサイズが大きいこと以外は。
「今日はいつもより遅かったネ」とパンプスを脱いだ私に覆いかぶさるように抱きついてくる。
「ちょっと、まだ帰ってきたばかりだし汚いから」
「汚くないよ、名前チャンだもん」
だもん、じゃない。すんすんと首筋を嗅いでくるものだから思わずベリっと引き剥がす。いくら冬とはいえ、一日中労働してきたあとの身体を嗅がれるのはちょっとね。
不満げな声を背中に聞きながら、寝室にバッグとコートを放り込み、手洗いうがいを済ます。いつものように後ろから着いてくる彼は、もちろんいつものように部屋着へ着替えるために寝室に戻ってきた私の後ろにピッタリと寄り添っている。
「こら」
「なあに?」
「なあにじゃないわよ。毎日毎日同じこと言わせないで」
「別にいいじゃん、俺ペットなんだし。気ニシナイデ」
「ご主人様にもプライバシーがあるのよ」
シッシッと手で追いやると渋々といった体で私から離れる。パタンと閉められたドアは鍵は付いていないが開けられたことはなく、その辺りのしつけは行き届いている。
部屋着に着替えてリビングに行くと、台所に立つ彼の姿。
「てつろー?」
「苗字チャン飯食うよね?鍋作ったから一緒に食べよ」
「待っててくれたの?」
「だって鍋だし。一緒に食いたいじゃん」
今日はほとんど定時に上がってきたけど、なかなか帰宅時間が読めない仕事なので夕食は基本的に別々だ。
だからこんな風に一緒にテーブルを夕飯を食べるのはかなり久しぶり。
私が遅くなるかもしれないのにお鍋を作って待っていてくれたことがたまらなく可愛くて、思わず後ろからギュッと抱きついた。
「ぉわっ!?危ねー!」
「ありがとう、てつろー。嬉しい」
「ご主人サマのためですから」
ついさっき「汚いから」と言って鉄朗を引き剥がしたのは誰だったか。鉄朗が嫌な顔しないのを知っていてやるのだから我ながらタチが悪い。「ほら運ぶからどいて」いなされ、あっさり体を引く。用意しておいたガスコンロに火をつけて、出来立てのお鍋をセット。器やお箸もきっちりセッティングされていて至れり尽くせりな夕食だ。
普段は自分で軽く作って食べるか、鉄朗が作ってくれたものを温め直して食べるかしている。どれも美味しくないわけではないけれど、やはり出来立て、しかも誰かと食べる食事は特別だ。
「いただきます」
「召し上がれ〜」
ほかほかと湯気の上るお鍋はにんじん、椎茸、春菊と彩も鮮やかで、豆腐やつみれ、私の好みで白滝もたっぷり入っている。
「ん〜!つみれにゆずが入ってる!美味しい〜」
「気に入ってくれたみたいで良かった」
「てつろーって実は料理上手だよね。このつみれも手作りでしょ?」
「ま、鍋は基本具材切るだけだから。つみれだって大して手間かかるわけじゃないよ」
そう言って鉄朗は笑うけど、お鍋だって市販のじゃなくてきちんと出汁から取って作ってくれてる。鉄朗が作ってくれるご飯はいつだって美味しい。「簡単なのしか作れない」とは本人の言。確かに難しいレシピではないかもしれない。でも、私の残業が続くと胃に優しい夜食を作っておいてくれたり、本当は塩派なのに私のために甘い卵焼きを焼いてくれたり、今日みたいに隠し味にちょっと私が好きなものを忍ばせておいてくれたり。そういう私を思って作ってくれてる気持ちが伝わってくる料理だ。シンプルでも最高に美味しい鉄朗のご飯。
私の帰宅時間がまちまちなせいで、あまり一緒のタイミングで食べることが出来ないから、今日は本当に貴重で幸せな夕食なのだ。
私も今日はたくさん食べたけど、鉄朗はやはり男の子というのもあって食べる量が段違いだ。四人前はあったんじゃなかろうかという具材はすっかりなくなり、〆に玉子とじの雑炊まで作って食べて見事完食。
「お腹いっぱい〜〜!ごちそうさまでした」
「お粗末サマでした」
「片付け私するね。てつろーお風呂入ってきなよ」
食べ終わった食器をキッチンに運び、洗い物を開始する。お言葉に甘えて〜とバスルームに行った鉄朗を見送りながら多くはない食器を洗っていく。
一人暮らしが長かったから、この土鍋も呑水もお箸もすべて鉄朗がうちに来てから新しく買い足したものだ。水切りに綺麗に食器を並べ、コンロを吹いて箱に戻し、テーブルを拭いてお片付け終了。
ちょうどそのタイミングで鉄朗がお風呂から出てきたので、入れ違いにバスルームへ向かった。
鉄朗はオールシーズンシャワーでOKらしいけど、私は夏でも湯船に浸かりたい派なので、特に寒さ極まるこの季節はバスタイムが至福の時間なのだ。お気に入りの入浴剤を入れ、髪や体を洗って足先からゆっくりと湯船に浸かる。
ついため息を吐いてしまうほどに心地よい最高の瞬間だ。疲れの溜まった足をほぐした後、持ち込んだ文庫本をめくる。本当はキャンドル焚いたりもしたいんだけど、鉄朗に「名前チャンは寝落ちするからダメ」と言われて断念。寝落ちしたのなんて、本当に疲れていた時に1,2回なのに。鉄朗は意外と心配性だ。
たっぷりと30分以上長湯を楽しんだあと、髪を乾かしてリビングに戻る。ソファから飛び出した黒い頭は、どうやらバラエティ番組を見ているようだ。
「面白い?」
「………」
おや、とソファの後ろから鉄朗を覗き込めばうつらうつらと船を漕ぐ姿が。鉄朗が居眠りとは珍しい。ぐるりと回り込んで鉄朗の隣に座るとソファが重みで少し沈んだけれど、それでも鉄朗が目を開ける気配はなく。
自分自身より30cmも大きな彼が無防備に眠りこける姿が可愛くて、ついまじまじと眺めてしまった。
きめ細かい肌にすっと伸びた鼻筋、シャワーを浴びて寝癖の取れた黒髪は持ち主の額を覆うように隠している。
本当に綺麗な顔立ちしてるなぁなんてぼんやり考えていたら、さすがに視線を感じたのか、うっすらと開いた鉄朗の瞳とかち合った。深く眠ってはいないと思ってはいたけれど、覚醒する気もなさそうな緩慢な動き。ゆるゆると伸びてきた左腕は、いとも簡単に私の腰に巻きついてぐっと鉄朗の方へと抱き寄せられる。
「寝てた…」
「そうだね。お疲れ様」
「んー…」
身長が違いすぎるのは座っていても同じことで。抱き寄せられた私は抵抗するでもなく鉄朗の胸元あたりに寄り添った。とくとくと脈打つ鉄朗の鼓動が聞こえる。
鉄朗は少し首を屈めると乾かしたての私の髪にその鼻梁を埋めた。お風呂上がりの私に対して、鉄朗がよくやることだ。
「今日もいい匂い」
「本当好きだね、それ」
「だって名前チャンの匂い落ち着くんデスヨ」
「自分じゃわかんないな」
ボディソープもシャンプーも、全部鉄朗と同じの使ってるのに。と少し顔を傾けて鉄朗の首筋に鼻をつけて息を吸い込んだ。すんすん、と確かめるように匂いを嗅ぐと、あからさまに鉄朗の体が硬直した。
「!?…名前チャン…!?」
「てつろーも、いい匂いだよ」
固まってしまった鉄朗には気付かないフリをして、そのまま額を鉄朗の首筋に預ける。確かに、なんとなく自分とは違う匂い。だけどなぜだか落ち着く匂い。人肌の温かさと鉄朗の鼓動の音が心地良い。
「ねぇ、名前チャン…」
「なーに?」
「……チューしたい」
「…」
鉄朗は普段はとても聞き分けが良くて賢い。人の感情の機微にも聡いし、ワガママを言うこともほとんどない。そんな彼だけど、極稀にちょっとぶっとんだ…もとい、行き過ぎたおねだりをすることがある。
鉄朗の首筋に預けていた額を起こし、少し顔を傾ける。そして…
「……っ!?痛っ!か、噛んだ!?」
嘘デショ!?とテンパる鉄朗を尻目にソファから立ち上がる。せっかくいい気分でリラックスしてたのに台無しだ。
「ペットのくせに調子乗るんじゃないのー。お仕置きです。オヤスミ、てつろー」
私に噛みつかれた首筋を摩りながら「オヤスミナサイ…」としょぼくれる鉄朗の髪をくしゃくしゃと撫でる。ツンツンしてない彼の髪質は、実は結構柔らかくて触り心地がいい。
たまに躾が必要だけど、献身的で人懐こくて、甘えん坊な彼は、明日からも可愛い私のペットくんだ。