Good boy

週末、久しぶりに晴れたので朝からあらゆるものを洗濯機に放り込み、掃除機をかけ、部屋中綺麗に掃除をした。午前中いっぱいでこれらの作業をやり切った達成感を噛み締めながら、汗ばむ体をシャワーで流し、一人分の昼食を作って食べた。
梅雨の合間の晴れは貴重だ。開いた窓から吹き込む風がレースのカーテンを揺らす。ソファに座り録り溜めたドラマを見る午後の時間は“これぞ休日!”という感じがして好きだった。

何本かドラマを見終え、乾いた洗濯物を取り込む。山のように盛り上がった洗濯物の山に一瞬尻込みするけれど、気持ちよく乾いたシーツやタオルからは太陽の匂いがして思わず胸いっぱいに吸い込んだ。
早く畳まなければシワになってしまうとわかっているのに、ふかふかのタオルに顔を埋めているとどうしようもなく眠気が襲ってきて、ほんの少しだけ、と自分に言い聞かせて瞼を閉じた。









絶え間なく窓を打つ音でハッと目を覚ました。
床に座り、ソファに持たれるように眠っていた体を起こすと、さっきまで晴れていた空は暗く厚い雲に覆われ、ベランダに突き刺さるように強い雨足が吹き付けている。柔く揺れていたカーテンは空模様を打つかのように激しく波打っていた。
慌てて立ち上がって窓を閉めながら、うちのペットは傘持っていっただろうかとぼんやり考える。
寝る前に放置されていた洗濯物の山に再び手をつけてしばらく経った頃、玄関のドアが開く音がした。
そこで初めて壁際の時計を見れば、どうやら居眠りは“ほんの少し”ではなかったのだと気付く。
もう彼が帰ってくる時間だったのだ。

しかし、しばらく経ってもリビングのドアが開く気配がないので首を傾げつつ玄関まで出迎えに向かった。

「おかえり〜。どうした、の」
「……ただいま…っス」

ずぶ濡れ。
これほどまでに今の彼に似合う言葉があるだろうか。頭から爪先までものの見事にびっしょびしょだ。これは確かに、このまま部屋に上がられるのは避けたい。

「ちょっと待って、タオル持ってくる」
「すんません」

バスルームからタオルを手に取って帰り、飛雄の頭に被せる。尚も着ているジャージやバッグからぽたぽたと玄関タイルに水滴が落ちていくので、インナーや下着も濡れてしまっているのだろう。
当の本人はあまりの濡れ具合に呆然としていて、私がわしゃわしゃと髪や顔を拭いていくのを子猫のように(というにはあまりにも大きすぎるけれど)じっとしていた。

「とにかくお風呂入ろう。これじゃ風邪引いちゃう」

ドラマを見ている途中で、早めにお風呂に入ろうと予約設定していた自分を褒めてあげたい。まさか飛雄がここまでずぶ濡れて帰ってくることを見越していたわけでは断じてない。

濡れたままのスポーツバッグはとりあえず玄関に置いておいて、飛雄をバスルームに押し込む。「お湯張ってるから、ちゃんと温まってね」と言って踵を返したが、バスルームを出ようとした体は飛雄の長い腕によって制された。

「どうしたの?」
「あの…」
「うん?」
「…………」

飛雄が口下手なのは今に始まった事ではない。普段から口数は少ないし、あまり表情も豊かな方ではない。だから飛雄とのコミュニケーションは基本的に“飛雄が話すまで待つ”スタイルだ。
今も私の腕をその大きな手のひらで包んだまま、頭1個半は下にある私の顔を見つめて言葉を探している。

「飛雄、なぁに?」

こういうとき、大体の場合においてこうして助け舟を出してしまう。飛雄が私を見る目はいつも、甘え方を忘れてしまった猫のようなのだ。

「……髪…洗ってくれませんか…」

口籠もったその先を促してようやく、呟きほどの小さな声で飛雄はそう言った。少し赤らんだ頬と腕を掴む力が少し強くなる。照れと緊張が直に伝わってきて、かわいいなぁと素直な感想を胸に、「いいよ」と答える。

「でも先に体を洗って、湯船に浸かってからね。少ししたら戻ってくるから早く入って」
「………ハイ」

私を捉える手をやんわり外して、今度こそバスルームを出た。リビングに戻ると、畳む途中で山積みのままになっている洗濯物の山からタオルを抜き取りまた玄関へ戻る。濡れたままになっている彼のバッグも拭かなければ。
バスルームから響いてくるシャワーの音をBGMに、バッグの外側を拭いていく。撥水加工されているので、内側までは濡れていないだろう。ベルト部分や底面もしっかりと水気を取り、リビングまで運び入れる。あまりこのバッグに触れる機会はないけれど、着替えやシューズやタオル、ドリンクが入っているのでなかなかの重量だ。

水分を含んだタオルを片手にバスルームに近付く。シャワーの音がしなくなっているのでどうやらお湯に浸かっているようだ。洗濯機にタオルを放り込み、浴室のドアをノックする。

「飛雄〜?準備できた〜?」
「ハイ」

ドア越しだからか、いつもより少し声が大きい。手早く髪を結って浴室のドアを開く。今日は1日家から出ていないから、部屋着もショートパンツを履いていたのでちょうど良かった。
入るね〜と声を掛けながら体を滑り込ませる。蒸気で白く曇った室内でも、飛雄の黒髪は目立つ。背が大きい飛雄にとって、我が家の湯船はかなり小さいだろう。入浴剤で白く濁った湯船から、彼が曲げた膝が突き出している。何とかして肩まで浸かっている姿は小さい子供のようで可愛らしい。

「じゃあ洗うね。体あっち向けて、頭出して」

飛雄は言われるがままに背中を湯船の側面の壁に凭れさせ、顔を上向けるようにして髪を湯船の外に出す。
いい子、と湿った前髪をかき分けてやればくすぐったそうに目を瞑った。

シャワーをノズルから外して温度を確かめ、顔にかからないように飛雄の髪にお湯を流していく。カラーなんてしたことのない飛雄の髪は、黒々と艶やかで指通りもいい。さっと流してシャンプーを手に取り、地肌に馴染ませてから泡立たせる。
シャンプーをしながら、頭皮のマッサージもしてあげる。我流だが、飛雄のお気に入りだ。
今も案の定、気持ち良さそうなため息を吐いている。

「痒いところはないですか〜?」
「…ないっす。最高に気持ちいいです」
「それは良かった」

飛雄の髪を洗ってあげるのは初めてのことではない。何を隠そう、飛雄を拾った日にもこうして彼の髪を洗ってあげた。事情は何も話さない、やたら背の高い青年を拾って帰り、風呂まで入れてやった当時の自分の行動力と警戒心のなさには驚きだが、まぁなんというか連れて帰ってきたのが飛雄で良かったなと思うし、でっかい猫を拾ったと思うことにしている。

そしてあの日以降、飛雄は何かふと思い立ったときに私に髪を洗って欲しいとねだるようになった。初めて飛雄からお願いされたときは、恋人でもない異性(しかもイケメン)の入浴にそう何度もお邪魔していいのだろうかとか、飛雄の鍛えられた肢体に心臓飛び出ないだろうかとか色々考えたものだが、飛雄自身が“髪を洗ってもらいたい”以外の何の欲もないことがわかってきてからは、躊躇なくお邪魔することにしている。それこそ気まぐれに懐いてくる猫みたいなものだと思うようになった。

しっかりと泡を流し、トリートメントをつけて軽く流す。飛雄の髪は短いのでお手入れも簡単だ。

「はい、完了です」
「アリガトウゴザイマシタ」
「じゃ行くね。上せないようにね」

こくり、と頷く姿を確認してバスルームを出る。
リビングに戻り、残りの洗濯物を手早く畳んでいく。

「飛雄が出てくるまでに用意しないと」

とひとりごちてキッチンへ。手を洗い、冷蔵庫から野菜を取り出して夕食の支度に取り掛かる。お米はお昼を食べた後に仕掛けて予約しているから大丈夫。
たまねぎ、ピーマン、パプリカを荒めの微塵切りに。
フライパンを温め、油、ニンニクと鷹の爪を入れて火を通す。ニンニクの香りが出てきたら鶏挽肉に塩を入れて炒め、挽肉に火が通ったら野菜を加える。
隣のコンロではひとまわり小さなフライパンで目玉焼きをふたつ用意し、火が通るまでの間にお皿に炊き立てのご飯を盛る。

「飛雄〜。スプーンとお箸出してくれる?」
「ハイ」

頃合いよくリビングに戻ってきた飛雄にテーブルセットをお願いして、火の通った具材と目玉焼きをご飯と一緒に盛り付ける。疲労回復にもピッタリなガパオライスの完成だ。
副菜は作り置きのおひたしと金平牛蒡を取り出してテーブルに運んでいく。

「さ、食べよー!」
「今日も美味そうです」
「ふふ、ありがとう。いただきます」
「いただきます」

飛雄はスポーツマンなだけあってたくさん食べる。ガパオライスだって飛雄はほぼ二人前盛り付けているけど、間違いなくぺろっと食べてしまうだろう。
目の前で自分が作ったものを毎回美味しそうに食べてくれる存在は、実は結構、愛おしい。

まだ少し湿った髪とお風呂上がりの熱った頬がいつもよりも彼を幼く見せる。髪を洗ってあげたせいもあるだろうか、今日は飛雄が可愛く見えてしまう。

「美味しい?」
「美味いです。名前さん、料理上手っすよね」
「いい子だね〜飛雄〜。名前さん何でも作ったげるよ〜」
「?名前さんの作るメシなら絶対何でも美味いと思います」

どうやら飛雄の胃袋はガッチリ掴んでいるらしい。あれよあれよと言う間に食卓の上は空のお皿だけになった。

「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした。名前さん、俺片付けやるので」
「いいの?ありがとう。じゃあお風呂入ってきちゃうね」
「ウス」

お言葉に甘えて寝室から着替えを取りバスルームへ。
飛雄の髪を洗った時にしっとり汗をかいていたので、お風呂に入るとスッキリした。
飛雄と同じシャンプー、コンディショナーで髪を洗い、飛雄には使わなかった洗い流さないトリートメントでしっかりと保湿をした。
カラーで傷んだ女性の髪には念入りなケアが必要なのだ。

タオルで髪を乾かしながらリビングに戻ると、飛雄がちょいちょいと手招きしているのが目に入る。

「なーに?」

と寄っていくと飛雄の右手にドライヤーが握られているのが見えて。彼の意図が読めたので、飛雄の手に促されるまま、ソファに座った飛雄の横に腰を下ろす。

「至れり尽くせりだわ」
「それは俺のセリフっす」
「はは、確かに」

顎あたりのラインで揃えられた私の髪に飛雄が指を通す。温かい風と遠慮がちに触れてくる飛雄の指が何だかくすぐったい。少し身を捩ったら「動いちゃダメっす」と嗜められてしまった。

美容院以外で人に髪を乾かしてもらうことなんてないから、なんだか不思議な感覚だ。飛雄の大きな手が私の湿った髪を攫っていく。

「名前さん、頭小さいですね」
「飛雄の手が大きいんだよ」
「あんま意識したことないスけど、そうなんすかね」
「絶対大きいよ。ほら」

と頭の位置は動かさないように気を付けながら、飛雄の左手に向かって手を突き出す。そっと合わせてくれた飛雄の左手は、やっぱり私の一回り以上大きかった。

「ほらね?」
「いや、やっぱり名前さんが小さいだけじゃ…」
「私は平均サイズだってば!」

158cmだぞ!日本人女性の平均身長ど真ん中なんだから。未だちょっと納得が行ってない様子(そんな気配を感じる)の飛雄だったけど、そのあとは黙々と私の髪を乾かすことに専念していた。

「終わりです」
「ありがとう。楽できちゃった」

ドライヤーを片し、途中キッチンに寄って冷えた麦茶を二人分のグラスに注ぎ持ってくる。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」

テレビもついてないリビングは音もなく静かだ。飛雄はあんまりテレビを見る習慣がないらしく、私がつけている時以外で彼が率先してテレビをつけているところはほとんど見たことがない。

「飛雄、ちょっと髪伸びたね」

麦茶を飲み干す飛雄の目元を覆う前髪を避けてやる。サラサラと手触りの良い髪が流れていく。反射で目を閉じる飛雄が可愛くてちょっと笑ってしまった。

「今日練習中も気になったんで、明日切りに行こうと思ってました」
「そうなんだ」

アンニュイな感じが格好いいのにな、と思うけれど仕方ない。彼にとってバレーの支障となるものは許されない。視界不良なんて論外だろう。それでも何となく名残惜しくて、あとサラサラの髪質が気持ちよくて、髪に指を通していると不意に飛雄に手を取られる。
うっとうしかったかな?と思っていると、飲み干したグラスをテーブルに置いて体を少しずらし、そのまま体を私の方へと倒してきた。いわゆる膝枕の体勢だ。

珍しいこともあるものだ。

飛雄は普段、あまり身体的な接触をしてこない。どちらかというと一定の距離を保ちながら、こちらの様子を伺っているような(本当に野良猫のような)タイプなので、髪も洗った上に膝枕まで要求してくることなど滅多にない(というか初めてである)。

「……重いですか?」

つい感慨に耽ってしまってフリーズしていた私を訝しんで、飛雄が不安げな視線をよこしていた。その母性をくすぐる視線と女子みたいなセリフはやめてほしい。
飛雄は間違いなく天然だけど、たまに物凄く上級なあざと可愛い系なんじゃないかと思う時がある。今がまさにそう。

「大丈夫だよ。手、邪魔だった?」
「いえ…名前さんの腕が辛そうだったので」
「今日はやたら私が小さいネタでいじってくるね?」
「いじってるつもりは…」
「あるでしょ、絶対」

思わず遮って突っ込むと、飛雄が小さく笑う。

「まぁでも、この体勢なら飛雄の前髪は触り放題だね」

そう言ってまた前髪を透いてやると、すっと目を細める。本当に猫みたいな子だ。そのうち喉でも鳴るんじゃないかとありえないことを考えてしまう。仰向けに寝転んでいる飛雄には眩しいかなと思い、手元のリモコンで照明を少し暗くする。
しばらく髪を撫で続けていると、ふと飛雄の力が抜けていくのがわかった。規則正しく上下する胸元とピッタリと閉じられた目元。いつも硬い表情の彼だけど、今は無防備な寝顔を私の前に曝け出している。

「今日だけ、特別だからね」


かすかに聞こえる寝息が途切れないように、ゆっくりと髪を撫でる。窓を叩く雨音が、だんだんと弱くなっていく。身動ぎもせず深く眠る飛雄を眺めつつ、梅雨の夜は更けていく。