瞬間的にそこに立ち入ることを躊躇った。
赤い夕日が照らす放課後。教室。そこで涙を流す彼女は酷く美しく、なにか尊いものを見ているかのようで無意識に息を詰めた。
この高揚感と罪悪感がないまぜになったような形容し難い気持ちになんと名前を付けようか。




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「あれ、沢村は?まだ来てねえの?」

段々と蒸し暑くなってきた6月も半ばを過ぎたこの頃。普段であればこの時間は窮屈な授業が終わり各々放課後の部活に向けアップをする頃ではあるが、今日はその姿もまばらである。監督が急な出張になり監督者が誰も居なくなったこと、また午後になって降り出した雨が強くなってきたので外での練習が出来なくなってしまったこと、そんな偶然が重なって急遽放課後の部活はなくなってしまったのである。しかし、なくなったとは言え自主錬に励む者が大半である。斯く言う俺も自主錬の為にアップをしようと思ったのだが、ふと一つ下の煩い後輩のことを思い出してしまった。今年入学してきた煩い後輩、名前を沢村栄純という。こいつはとにもかくにもうるさい。声がでかい。馬鹿。沢村と書いて馬鹿と読む。やつを紹介するとしたらそんな言葉で片付く。
そんな手の掛かる後輩であるが、つい先日パシらせた…おっと、お使いに行かせたときについうっかり今度球を10球受けてやると約束をしてしまったのである。ただの口約束であるし常にオーバーワーク気味の沢村のためにも受けない、という選択肢もあるのだが、沢村が常日頃から俺に球を取って欲しがっていたのを無下にし続けてきた自覚はあったので、約束したことまで反故にするのは気が引ける。かと言って練習中はスケジュール通りに動くのが常であるので受けてやれるのは部活が終わったあと、就寝時間までの間だと思っていた。だが、たまたま今日はオフとなったので受けてやるなら都合がいい。そう思い沢村に声をかけてやろうと思ったのだが、やつの姿が見当たらなかった。常日頃から投げたりないとフラストレーションを溜め込み、投げれなくともそこら辺をタイヤを引きながら走り回っている沢村が練習が休みになったからと言って素直に休むとも思えない。けれど、その辺にいるのであれば煩い沢村は探そうと思わなくとも目に入ってくるはず。
沢村が見当たらないことに疑問を抱き沢村と仲が良い亮さんの弟、春市に声をかける。

「え?栄純くんまだ来てませんか?先に行っててくれとは言われましたけど…」

「なんで?委員会とか?」

「いえ、個人的な用事らしいです」

「へえ、珍しいこともあるもんだな。いつも教室飛び出して練習にくるようなやつが」

「僕も何の用事かは特に聞いてないですけど、珍しいですよね」

「しょーがねえ。教室覗きに行ってやるか」

珍しく先輩風を吹かせてそう言ってやると春市は大人びた笑みで、栄純くん喜びます、なんて母親のような事を言うもんだからくすりと笑ってしまった。一年生の仲は中々良いらしい。
もう人がほとんどいない校舎を歩いていると雨が上がってきたのに気がついた。この調子だと外で自主錬が出来るかもしれない。グラウンドはぐちゃぐちゃであろうが。
一年生の階は人がいないにもかかわらずそわそわした空気が残っているかのようだった。たった2、3ヶ月前までここの階を使っていたというのになんだか懐かしい気持ちになる。雲の切れ間から赤い夕日が覗き、目の前に伸びる廊下が所々赤く染まる。人気のない校舎を歩くというちょっとした非日常に思考がふわふわと切り離され、そこをたった一人で歩く夢を見ているかのようだった。夏の大会までもう残りの日数は僅かと常に緊迫感のある殺伐とした生活をここのところ送ってきたので、こんなに精神が落ち着いた状態にあるのは久々であった。沢村も案外どこかで今日の練習がなくなったことを聞いて部屋で休んでいるのかもしれないと考えて、いや、と自答する。あの常に元気がありあまってる沢村に限ってはありえねえな。

(なら、こんな人気がなくなる時間まで沢村のやつなにしてるんだ?)

沢村の教室が見えてきてそのドアに手をかけたとき、金縛りにあったかのようにガチリと体が固まった。
ドアの窓越しに見える教室には沢村はいなかった。そこにいたのは一人の女生徒。赤く染まった教室にただ一人で席に座り窓の向こうを眺めている。目元が赤く染まっているのはきっと夕日だけのせいではないだろう。その証拠に瞳がきらりきらりと光っている。瞬きをした衝撃で光るそれが頬を伝う。それを拭うこともなくただただ雲に映る夕日を瞳に写し続けた。次第に顔をくしゃりと歪めうつむいてしまった。まるで、もう耐えられないと言うかのように。前髪をくしゃりと握り締め泣く彼女はひどく美しかった。
先ほどまでここ一番落ち着いていたはずの心臓がものすごい音をたてて鳴り響く。耳の近くに心臓があるのではないかと思うくらいばくばくと拍動している。目が逸らせない。瞬きすら出来ない。彼女がいる空間を汚してしまう気がして思わず息を詰めた。見てはいけないものを見てしまったような罪悪感にかられ、胸が苦しくなる。けれどそれ以上に激しく荒れ狂う感情が体を満たしていく。自分で自分を支配出来ない。訳もわからず涙が溢れそうになる。なんだ、なんだこの感情は。
俺はこんな感情、知らない。

みじめだね、