じわじわと迫り来るような暑さにもうすぐ夏が来るのだと頭の片隅でぼんやりと思った。どうやら関東での梅雨明けも近いらしく幾ばくか湿気も少なくなってきているような気がする。今日は目も眩む様な晴天で開け放した窓からは蝉の音が遠くに聞こえた。青い空、蝉の音、乾いた土の匂い。
もうすぐ二度目の夏が始まる。
だが、今俺の思考を埋めるのはもうすぐ始まる夏についてではない。ここ最近一人の女の子が頭から離れないのだ。まあ小っ恥ずかしい話、その子に恋をしてしまったわけである。だが、それで練習に身が入らないだとかそんな腑抜けたことになっているわけでもなく表面上はいつも通りにしているつもりだ。
けれど、その「いつも通り」は目の前の男には「いつも通り」に見えないらしい。その辺のヤンキーも裸足で逃げ出す悪人面をしたその男は、なんとも可愛らしいいちごミルク味のパックジュースを飲んでいた。鋭い眼光をついとこちらに向けズズズッと音を立てながら穴があくんじゃないかと思う程じっと見てくる。とりあえず音を立てて飲むのはお行儀悪いからやめなさい。
こいつが何を俺に求めてるのかはそんなに熱烈に見つめてこなくたってわかっていた。小さくため息をつく。その殺気でも込めてんのかと思う程ギンギンに見つめてくる瞳に耐えられなくなってポツリポツリと今までの経緯を話始めた。
彼女との始まりは一方的なものだったけれど未だに鮮明に思い出せる。赤い教室、窓から覗く紅霞、湿った土の匂い。そして美しく涙をこぼしていた――――、いや、やめよう。これは俺だけの記憶だ。大切に心の奥底にしまっておきたいほど眩しくて尊いそれを容易に、例え倉持であろうとも他人に話したくはなかった。そう思い直し一度開きかけた口を再び閉じた。
それを目敏く見つけた倉持の額に青筋がピキッと浮かぶ。いやいや、話さないとは言ってねぇし。とりあえず昨日のことを話せばいいだろうと思考を切り替える。この男は顔に似合わず人一倍仲間思いで一度懐に入れた人間のことを大層大切にするのだ。ここまでめずらしく他人の事情に首を突っ込むのは彼女のことがそれだけ心配だからだろう。

(大事にされてんだな、)

胸の奥でチリ、と焦げ付くような焦燥感を味わう。その焦燥感を追い払うように一つ頭を振った。彼女に恋をしてわかったことの一つだが、一々嫉妬していたら身が持たない。倉持然り沢村然り。それにいいこともなかったし。

あの子との出会いは省略させてくれ。俺が一方的に知ったんだ。それで俺が勝手に好きになって告白して、ふられた。それからは俺がしつこく付き纏って昼飯を一緒に食べてただけ。ただそれだけの関係なんだ。あの子とそもそもあまりうまく行っていたとも思えない関係にすがりついてたのは俺だけなんだ。
昨日は分かってると思うけど俺が一方的に悪かった。俺、馬鹿みたいだけどお前に妬いたんだよ。あの子とあんまりにも仲良さそうにしてるから。俺なんにも知らなくて。つい、カッとなってさ。そんな子供みたいな嫉妬から飛び出した失言のせいでただでさえ薄っぺらい関係を余計拗らせ、あまつさえ失うところだった。それをまた俺が縋り付いて仲直りした。それだけ。
ただ、それだけ。
そこまで一息に言い切ってしまえばもう倉持の顔は見れなかった。だってなんだかおかしいのだ。この恋は、この感情は、おかしい。そのおかしさに気付いていながら自分ではその原因どころかなにがおかしいのかすら分からなくて焦る。なにかに追い立てられている様な緊迫感と焦燥があの子のことを考える度に付き纏うのだ。
苦しい。胸の奥が苦しくって思わず胸元のワイシャツをくしゃりと握り締め浅い息を吐き出した。

百合のことは確かに好きだ。けれどその気持ちは今までの好きとどうやら勝手が違う様で、恋情が帰ってこなくてもいいと思えるのは今までにないことだった。
これが何を意味するのか俺はよくわかっていない。
今まで付き合ってきた女の子たちはみんなその時その時に好きだ子で、一度も気持ちがないまま付き合ったりなんてしたことはない。けれど、それは彼女たちも自分のことを好いていてくれてるということが大前提であった。まあ、付き合っていたのだから当たり前なのだろうけど。だって好きになったら好いてもらいたいものだろう?そりゃ、百合にだって好いてもらいたい。でもそんなの一緒にいられなくなるならいらないと思えるのだ。
そんな風に今までの彼女たちにも思えただろうか?
「もうやめましょう」と百合に言われた時、目の前が真っ白になって肺は震え、子供の様に嫌だと泣き喚いてしまいたくなるくらい眼球の奥が熱を持った。別に好きになってくれなくたっていい。それでも俺のそばにいてほしかった。

そんな気持ち、今までに感じたことなど決してないと断言できる。

一部の噂で俺が女の子と付き合っては捨てているというなんとも不名誉な噂が流れているらしいが、事実無根である。実際毎回フラれているのは俺の方なのだ。なぜか誰と付き合っても長続きせず、長くても一か月程度でフラれてしまう。その度にもうやめようだとかいう言葉を浴びてきたけれど一度も昨日百合に対して思ったような「嫌だ」という強烈な感情が湧き上がることはなく、ただそうかとその言を受け入れてきた。
自分の思考回路のことなのになぜそんな違いが生まれたのか分からず、上手く文章を組み立てられないまま思いついた言葉達を並べて倉持に尋ねたところ、心底馬鹿にしたような返答をいただいた。

「はあ?お前そんなのも分かんねえの?」

「分かんねえから聞いてんだけど」

「…お前って…お、噂をすれば」

倉持は何かを言いかけ、廊下の先にいる百合に気付いてやめた。お昼前の授業がここ旧校舎でのものだったので百合を待つのも兼ねて倉持と一番最後まで教室に残っていたのだがビンゴだったようだ。昨日の今日なのでもしかしたら来ないかもしれないと思っていたのだが杞憂だったらしい。
倉持との会話の雰囲気を自分の中でリセットして百合に笑いかけた。

「百合、遅かったなー。授業長引いたの?」

「…俺は未だに百合とお前が仲いいだなんて信じらんねーわ」

「おいこら、なんてこと言うんだ。仲良しだっつの。な?」

「うぜー」

倉持と軽口をたたきあっていてようやく百合の異変に気付く。彼女はニコリともせずぼーっとしたまま一言も口をきかないでただ突っ立っていた。百合は今時珍しいくらいすごく礼儀正しいやつで、先輩に会っておいて無視だなんて失礼なことをするようなやつではないし、俺はともかく昨日の感じからすれば倉持を見れば嬉しそうに飛び跳ねているはずなのに。
…自分で言っていて悲しくなってきたんですけど。
倉持もそんな彼女のおかしな様子に気が付いたようで眉をひそめた。

「おいバカ。シカトか」

「…」

「え?百合?どうした?」

無表情で突っ立ったままの彼女の目を少し屈んで覗き込めばようやく目が合った。

「百合?」

「…みゆきせんぱい?」

今まで聞いたことのない甘えるような小さな子供の様なしゃべり方にどくりと心臓がはねた。甘い熱を持った瞳が俺を貫く。
だが、それも一瞬。いつもと違う光を放つ瞳にみるみる涙が浮かび上がってきたと思ったらその美しい瞳から瞬きもしないままにボロボロと大粒の涙が零れ落ち始める。これには俺も倉持もギョッとした。

「え!?百合どうした!?」

「テメーまたなんかやらかしたのか!!」

「いやいや、俺今回なんもしてねえ!濡れ衣!!え!?俺なんもしてねえよな!?」

こっちがギャーギャー騒いでいると次第に#渚#はしゃくりあげ始めその場にうずくまってしまった。

「本当にどうした。誰かになんかされたか?言ってみ?」

膝を抱えうなだれたまま泣き続ける百合にできる限り優しい声で問いかけると、可哀想になるくらいの涙声でようやく口を開いた。

「……い、」

「ん?」

「あたま、いたいぃ」

「「……は?!」」

ギョッとして慌てて百合のうなだれた首筋にかかる髪を払い除けそこに触れると驚くほどの熱さだった。

「あっち?!え!お前本当に風邪ひいたのかよ!?昨日あんだけ言ったのに!」

「ううぅ、」

泣き続ける百合に立てるかと声をかけても泣いてばかりで返事は望めそうになかった。それどころか嗚咽はどんどん酷くなるばかりで譫言のようにずっと頭が痛いとこぼしている。あまりの異常さに躊躇うこともなく手にしていた荷物を倉持に渡し、百合を抱え上げた。

「うおっ、本当に全身あっちいな。相当熱あるんじゃねえか?」

百合は意識が朦朧としてるのか、昨日の発言からは考えられない程えぐえぐ泣きながら俺の首に腕を回し顔を肩口にうずめてくるようにしてくっついてきた。触れたところ全てから彼女の高すぎる体温が伝わってくるようで少しゾクリとする。それが悪寒なのかはたまた全く別のものなのかは考えないようにした。
そのまま倉持と百合を保健室に連れて行った。清潔そうな真っ白のベッドに百合を下ろすと保健医が彼女の脇に体温計を突っ込む。保健医しかいなかったらしいこの部屋は昼休みだというのにひどく静かで余計に彼女の泣き声が耳についた。
少しして鳴り響いた計測終了の音。そこに表示されたのは

「39.2℃…?」

「あらまあ、相当高いわね。親御さんに連絡してくるわ」

俺自身があまり風邪などひかないので、突きつけられた数字のあまりの高さに百合が死んでしまうんじゃないかなんて馬鹿みたいなことを思ってしまった。だが、保健医のその言葉にずっと泣き続けていた百合が反応する。

「…せんせ」

「どうしたの?」

「お父さんもお母さんもいないです」

「あら、そうなの?お仕事?」

「はい。だから連絡しなくていいです」

「でもあなた一人で帰れないでしょう?悪いんだけど私これから出張だからここにあなたを一人で置いておくことも、送って行ってあげることもできないのよ」

「…」

「困ったわねえ」

年若い保健医は心底困ったように眉を顰めた。それを見て百合が申し訳なさそうな顔をするもんだから思わず口をはさんでしまう。

「じゃあ俺らが送っていきますよ。こいつん家知ってるし」

その提案に保険医は少し悩んだ様子だったが背に腹は代えられないと思ったのか反対することもなくあっさりと了承した。

「じゃああなた達の先生とこの子の先生に伝えておくわ。何組?」

「俺らは2-Bでこいつは1-Cです」

あまり時間がなかったのだろう、保険医はそう言うや否や慌てて出て行った。その間も百合は相変わらず泣き続けたままだ。

「で?なんで俺までこいつを送っていくことになってんだよ」

「いやー、俺が百合抱えたら百合の荷物誰が持つんだよ」

「知らねえよ!ったくよぉ、めんどくせーことに巻き込みやがって」

そんなことを言いつつも倉持も百合が心配なのだ。泣き続ける百合をいつもの悪人面からは考えられないほど心配そうに見つめたまま、そこから立ち去る気配はない。

「じゃあ、俺百合の荷物とってくるわ」

そう言って二人を置いて保健室をでた。


▼ ▼ ▼


「おい、バカ。あんま泣いてっと余計頭痛くなんぞ」

涙で張り付いた髪の毛を払ってやるときに少し触れた頬からはものすごい高熱であることが嫌でも分かった。39.2℃だもんな。そりゃあっちいわ。
この後輩とはひょんなことで知り合ったのだが、それ以来なぜか知らないが大層懐かれてしまったのである。
年下の女の子。最初は扱い方なんて分からなかった。こんな風に懐かれても困るだけだと思っていたのに、野球が好きで沢村と一緒になって馬鹿をやっているのを見ているうちに自然と構ってやるようになってしまった。唯一野球部の後輩以外で目をかけてやっている後輩。しかも女。それは「特別」というものなのかもしれないが、もはやこいつは沢村と同じような扱いだし実際そんな風に意識したことはない。
だがそいつを同じクラスでチームメイトのあいつは好きだという。寝耳に水の発言だった。百合が御幸のことをどう思っているかは知らないが、告白を断ったらしいし好きではないのだろう。
問題は御幸の方だった。自分の気持ちを正確に把握していないらしく昨日はこいつを傷つけ、今日は訳のわからない質問をしてくる。俺なんかよりよっぽど多くの女と付き合ってきたはずなのに恋愛初心者かと突っ込んでやりたくなった。

「…お前も大変なのに好かれたな」

ずっと泣き続けていた百合が少し視線を彷徨わせ、俺の顔を見るとその泣きぬれた瞳を固定させた。

「くら、もちせんぱ」

「なんだよ」

「みゆきせんぱいは?」

舌っ足らずな口調で話すこいつの口から出た名前に案外こいつも御幸のことを気にかけてやっているのだと少し驚いた。完璧なる御幸の一方通行、片思いだと思っていたのに。

「お前の荷物取りに行った」

「…」

答えてやったのにうんともすんとも言わないこいつを見て、本当に意識が朦朧としているんだなと改めて思った。普段こいつは沢村とは違い基本的に礼儀正しいやつで、意外と先輩後輩という礼儀を重んじている。中学まで野球部だと言っていたから叩き込まれているのだろう。騒々しかったり、アホなのは沢村とそっくりなのにそういうところは真逆である。

「ねえ、倉持先輩」

だからこんな風に口をきくのも服の裾を引っ張ってくるのも今日だけだと見逃してやることにする。

「だからなんだよ」

「私、御幸先輩を好きになりたくないんです」

「……………は?」

「苦しくって胸が痛くって、」

「………それが好きってことじゃねえの」

彼女は譫言の様にたどたどしい言葉を紡いでいく。

「違うんです、そうじゃなくって」

「…」

「怖いんです」

「…」

「怖いの…」

彼女の瞳から大きな涙が一粒、音もなく転がり落ちる。それはまるで何かの宝石の様に美しく煌めいて呆気なく消えていった。

「…わかった。今は何も考えなくていいから、寝ろ」

「…」

じっと見つめてくる不安げな瞳に思わず苦笑してしまった。

「元気になったら仕方ねえから一緒に考えてやるよ」

そう言えばようやく彼女は安心したように頬を緩め瞼を閉じた。泣き声が消えた保健室でほ、と小さく息をつく。
どうやら問題は御幸だけではなくこいつにもあるらしい。「怖い」とそう告げた理由は検討もつかないが、それはどう考えてもおかしいことだった。

「…なんだこいつら。めんどくせー…」

そう言いつつもこいつらを見捨てられない自分にまたため息をついた。

彼女はみじめだと笑った。