「ここだよね…」

旧校舎は入学式の後のオリエンテーションで校舎案内の時に訪れたのと、あとは選択授業で選んだ週一回の音楽の授業のときにしか来たことはない。選択授業は幸いなことに栄純と一緒だったので一人でここへ訪れるのは初めてだった。
青道高校の敷地のはずれにあるここは鬱蒼と生い茂る木々に囲まれ、本校舎からも遠いので昼休みだというのに静かである。梅雨の合間に訪れた珍しい晴天で、久しぶりに今日は天気がいい。輝く太陽を遮る雲すら見当たらない。
一人で校舎に入るのは躊躇われたのですぐ近くの木の陰へと移動する。木々の隙間から零れ落ちる日の光が舗装されていない砂利道に不規則な絵を描き出していた。時折思い出したようにすり抜けていく湿気を含まない軽やかな風がふわりと黒髪を巻上げていく。新しいスカートのすそをひらりと遊ばせ、そのまま風は校舎に伝う草を小さく揺らして消えていった。
旧校舎は怖いところだと思っていたが、案外そんなことないのかもしれない。蔓が蔓延った壁も、校舎を隠すかのように生い茂る木々も、開いた窓からのぞく色あせたカーテンも。じっくり見れば見るほどそれは恐怖から趣へと変わっていく。遠くに聞こえる生徒の声も、ついさっきまであそこに自分もいたというのにまるで異空間での出来事のようだ。御幸先輩がとっておきの場所と言うのも肯ける。気分はトトロを見つけたメイちゃんさながらだ。

「こーどーものときにーだけーあなたにおとずれるー」

「ぶはっ!」

「…」

「っわり、お、おそくなっ、」

「…」

「く、くらも、につかっまっ、」

「……居た堪れないので笑うならちゃんと笑ってください」

そう言うや否や御幸先輩はお腹を抱えて笑い出した。ひーひー言いながら笑ってる。そんな笑わなくても。きっと赤くなっているであろう顔をどうにか冷ましながら心の中で悪態をついた。

「百合ちゃんて意外と天然だったりする?」

「初めて言われましたよ…」

「選曲がまたいいよな」

「もう黙ってください」

「ぶはっ!」

あの独特な笑いを静かな辺りに響かせ、ひとしきり笑った後「腹減ったなー。百合ちゃんが笑かしてくるから腹減った」とかなんとかわけのわからないことを言いながら旧校舎へと入っていった。

「あの、どこで食べるんですか?」

「んー?まあついてこいよ」

そういって行先は教えてくれなかった。
特に会話もなく旧校舎を歩いていると、やっぱりここは怖い場所ではないと再確認できた。少し薄汚れた窓から差し込む日差しは漂う塵を輝かせこの空間をまるで特別なもののように演出している。午前中に授業があったのか所々開けられた窓からは風に乗って初夏を思わせる土の匂いが運ばれてきた。この乾いた土のにおいをかぐと夏だな、と思う。実際は梅雨も明けていないのだから少し得した気分になる。一歩踏み出すたびに小さくきしむ廊下も歴史が感じられて好ましくすら思う。少し薄暗い階段をひたすら登っていくと扉に突き当たった。

「え、まさか」

御幸先輩は鍵がかかっているはずのそのドアノブを何食わぬ顔でひねると同時にその少し下をコンと軽く叩いた。するとカチャリという金属音が響く。

「えっ?!」

「はっはっはっ、百合ちゃん良いリアクションすんなー」

ギィと重たい音をたててひらいた扉と差し込んでくるまぶしいほどの日差し。扉の向こうは予想していた通り屋上だった。何にも遮られることなく太陽光が降り注ぎ、眼下には野球部のグラウンドが望めた。

「すごい!ここ入って大丈夫なんですか?」

「ううん、だめ」

「やっぱり。なんでカギ開くんですか?」

「ボロいからか、良い場所をたたくと鍵が勝手に落ちんだよ」

「へー、さすがですね」

「なんだ、さすがって」

その問いには曖昧に笑って、どーんと屋上の真ん中に座った。

「さ!お昼食べましょ」

「お前…良いけど、そこじゃ日焼けすんぞ。こっちの校舎の影になってるところ来れば」

「大丈夫です。お日様の下で食べた方がきっと気持ちいいですよ」

御幸先輩はきょとんと目を丸くした後また笑いがぶり返したかのように大笑い。なんで?今のどこに笑うところが?

「いやー、予想裏切ってくれてばっかでいっそ清々しいな」

「?」

「はっはっはっ、さー飯食お」

御幸先輩が持ってきたコンビニの袋からはパンやらお弁当やら次から次へと出てくる。さすが野球部。

「私ずっと外の部活だったんで今更日焼けとか気にしないんです」

「ああ、そういうこと。何部だったの」

御幸先輩からしたら小さいであろうお弁当箱を膝の上に広げる。主に昨日の残り物を詰めただけの可愛くもなんともないお弁当。今はこんな小さいお弁当で足りるが、部活をやっていたころはこんなんじゃ確実にぶっ倒れていた。部活をやめてから食欲は落ちる一方で、それと比例するように筋肉も落ちていってしまった。
御幸先輩の問いに答えないか迷って、けれどその選択には何の意味もないと口を開く。

「野球部です」

「へー、マネージャーやってたんだ」

「いえ」

「ん?」

「プレーする側として所属してました」

「、っごほっ!え?!まじ?」

「びっくりしました?」

「それこそ意外だろ。そもそも運動してそうに見えねえ」

「失礼ですね。まあ確かに部活やめてから筋肉は落ちる一方ですけど」

唯一朝作ってきた卵焼きをぱくりと口に入れる。砂糖たっぷりの甘い卵焼き。

「中学の時は全然でしたけどリトルのころは優勝とかしちゃったりしたんですよ」

「ポジションどこなの?」

「ピッチャーです」

「へえ、高校ではやんないの?」

「え?」

心底不思議そうな顔で御幸先輩が問う。

「…だって女の子は…」

「そりゃここではできないかもしんねえけど、他所行けば女子の野球部があるところもあんだろ」

その問いに返せる答えは生憎持ち合わせていなかった。理屈付けようと思えばきっといくらだってできた。誤魔化し、嘘をつくことだってきっと。それでもあの時の自分を裏切るような後ろめたさがそうはさせなかった。
いまだに時々思い出すのだ。初めて見たときの興奮も、輝かしさも。どうしても、そう思った遣る瀬無さも。もう理不尽に怒ることも羨んでばかりいるのも、確かにやめた。けれどこれはそうそう割り切れるものではない。あのとき生まれた輝きやどろりとしたそれまで一緒くたにして詰め込んだその箱を、懐かしんで開けるにはまだ早すぎる。そういった気持ちで開けるにはまだ心の整理がついていない。
言い訳することも出来ずに苦く笑えばそれ以上聞いてはこなかった。
御幸先輩は意外とこういうところで空気を読める人だった。いつも人の話すら聞かずにずかずかこちら側に踏み込んでくるくせに、本当に立ち入ってほしくないと線引きしたそれ以上には決して入ってこない。きっと私が思っている以上に人の機微を読んでいるのだ。それが元来のものであるのか、キャッチャーとして培われたものなのかは判りかねるがなんとなく元来のものなんだろうなと思う。やっぱり悪い人ではないんだよなあ。
もくもくとお弁当を食べているとひょいと箸を持っていない方の手を取られる。

「本当だ。この豆、バット振ってできたやつだろ。」

そう言うとするりと手を撫でられてからきゅっと握られた。

「…なんですか、この手は」

胡乱げな視線とともに返せばいつもの厭味ったらしいとしか見えなくなった笑みをみせる。

「百合ちゃんはどんな男が好きなの?」

「付き合ってもない女の手を軽々しく握ってこない人」

「…」

「手を握るのにも照れちゃう人」

「…」

「チャラくない人」

「…ごめんなさい」

悪い人ではない。それは確かだがたまにイラっとするのもまた、確かである。

きみは笑った。