「ありますよ」

「もうあんな風に傷つきたくないんです」


彼女はいつだって人の目を真直ぐに見る。漆黒の瞳を決して逸らすことなく、こちらが少したじろいでしまうくらいに真直ぐ。それがいつだって心地よかった。どんなに馬鹿みたいなことでも彼女に話しかければその美しい瞳に映ることができる。どうでもいいことでも話を振れば彼女は必ず拾ってくれたから。
だから、なんだって話そうと思った。好きという言葉ですら彼女は無視することなく応えてくれるから。それがどんなに否定されようとも、あの瞳に映れるならなんだってよかったのだ。
彼女の瞳は言葉よりも雄弁に語る。楽しいとき、怒っているとき、驚いている時。口に出さなくても、表情に出なくとも、彼女の瞳は彼女の心情をまるで鏡のように映しだした。彼女の瞳を見れば彼女が考えていることなどなんだって分かってしまう。
だから驚いたのだ。初めて見る彼女のその瞳に。

「もうあんな風に傷つきたくないんです」

吐息が零れ落ちるような小さな声。ザーザーと降りしきる雨の音にかき消されてしまいそうなほどのそれは、けれどはっきりと俺の鼓膜を揺らした。真直ぐに向けられた瞳から伝わってくるのは、深い哀しみ、諦め。そしてそこにほんの少し織り交ぜられた息もつけぬ程の、きっとそう、あれは。

(絶望)

その重みに耐えきれぬというようかのように彼女はその美しい瞳から俺を締め出した。常の彼女であるならば絶対に有り得ないその行為に、俺は彼女の核心に触れてしまったのだと気付く。あの日見た、ひどく美しく涙する彼女に再び出会ったのだと。
たった十六年しか生きていないはずなのに、いったいこの子はどんな恋愛をしてきたというのだろう。苦しくてもう二度としたくないと絶望を味わうほどの恋情を、いったい誰に向けていたというんだ。先ほど彼女が理屈をこねて並べ立てていた言葉たちも決して嘘ではないのだろう。でも、付き合わない、そう頑なに言い続ける理由はきっと。
悔しかった。彼女の美しい瞳から締め出されたことが。それをさせたのがどこの馬の骨とも知れぬ男だということもまた、腹立たしかった。俺だけをその瞳に映してほしい。沸き立つ嫉妬心と子供のような独占欲は、もう見て見ぬフリが出来ぬほど大きく大きく育ちすぎていた。早くそんなもの忘れてしまえばいい。その暗く影を落とした瞳も魅力的で美しいとは思うが、俺を映さないというのならそんなものいらない。
だが、その瞳に俺への恋情を映し出してほしいのかと言われると首を傾げるしかない。たしかにあの瞳にずっと映っていたいとは思うが、そこに見えるのが恋情でなくても例え負の感情が映っていたとしてもそこに俺が映れば満足なのだ。

だから早く。

「大丈夫だって」

そう言い、彼女の手触りの良い髪をなでるとようやくその瞳に俺を映した。

(ほら、満足だろう)

そんな自分の声が雨の音に混ざって聞こえた気がした。


▼ ▼ ▼


「今日の放課後、沢村たち教室で勉強していくらしいからちょっと邪魔してくる」

一日の授業が終わり、ともに青心寮に戻ろうとした倉持ににやりと笑ってそう声をかけた。今日からテスト週間に入り放課後の部活動は全面的に禁止となる。いくら夏大が近いとはいえ野球部も例にもれず放課後の部活は禁止なのだ。

「ひゃははは!お前大概にしとかねえと後輩に嫌われんぞ」

「うるせー」

「俺も行こうかな」

「お前も人のこと言えねえじゃん」

にやにや笑う倉持と沢村は同室の先輩後輩である。もともと面倒見の良い倉持は、――本人にいうと否定されるが――同室の後輩である沢村のことを一段と可愛がっている。今回のテストのことも心配していたんだろう。でなければついてくるとも言わないはずだ。

一年の教室につくと、そこには倉持が心配するのも分かってしまうような光景が広がっていた。半泣きで机にかじりついている沢村とビシバシとスパルタ指導を繰り出す金丸。…そんなにテスト危ないのか、お前。
それから、そんな二人の間をうまいこと取り持っている

「あれ、百合じゃん」

そう発したのはもちろん俺ではない。それは彼女の表情を見てもわかる。自分の名を呼んだのが誰であるかわかると顔いっぱいで破顔した彼女。彼女が俺にそんな表情を向けてくれたことなど、ない。

「倉持先輩!」

彼女は倉持の顔を見て、周りに花が飛んでいるのが見えそうなほど嬉しそうに笑っていた。声音もいつもよりはずみ、倉持に会えてどれだけ嬉しいのかということを表している。

「倉持先輩!どうしたんですか?」

「沢村たちが勉強してるっつーから邪魔しに来た」

「ははは!どうぞ邪魔していってください」

「お前頭よかったから沢村につかまっちまったのか」

「夏大前ですし少しでも勉強してもらわないと」

「ひゃははは!あんだけぴーぴー泣いてたやつがよく言うぜ」

「ぎゃあ!ちょ、それは内緒ですってば」

ひどく慌てながらしーっと口元に人差し指を充てる彼女はなんていうか。ぶっちゃけ可愛い。けれどその視線の先が俺じゃないことがひどく腹立たしかった。しかもなんだ、内緒って。倉持と彼女が知り合いだったことも知らなかったし、こんなに仲が良い男が沢村以外にいたということも知らなかった。

「…二人知り合いだったんだな」

「まあな。こいつが野球部の…」

「わーわーわー!倉持先輩!内緒ですってば!」

「ひゃははは!わりーわりー。つい」

「ついじゃねーですよ!さっきから!二回目!」

「あ?文句あんのかコラ」

「ひっ!」

ないです!そう怖がりながら叫んではいるが、その瞳からは楽しいとか嬉しいという感情しか伝わってこない。
ああ、本当に。
倉持にびくびくしながらも彼女はようやくこちらを向いた。

「ちょっと私が倉持先輩にご迷惑をおかけしちゃったことがあって。そのときに助けてもらったんです」

「たっくよー、野球部の後輩だけでもてのかかる奴らばっかりなのに、こんな手のかかる後輩までできちまってよー」

「す、すいません。でも私は倉持先輩と仲良くなれて嬉しいです。今度キャッチボールしてもらいたいくらい」

「お前あんま調子のってんとシメんぞ」

「すいませんでした!」

「…仲、いいんだな」

「はい!」

「そーでもねー」

両極端な二人の返答に倉持は笑い、彼女はショックを受けた顔をしていた。けれど、倉持の一言で彼女はまた破顔する。
倉持の一言一言で一喜一憂しすぎじゃねえ?そんな彼女に怒りは積もっていくばかり。ああ、このままだと制御が効かなくなりそうだ。今すぐ怒鳴り散らしてこちらに視線を向けさせたい、そんな野蛮な思考が脳みその隅っこに浮かび上がってきたのには見て見ぬフリをした。

「で?お前御幸とも知り合いだったわけ?」

「知り合いというか…」

けれど、困ったように言いよどむ彼女に押さえ込んでいた感情が一気に暴れだす気がした。

「俺がずっと好きだっつってんのに百合ちゃんなかなか付き合ってくんねえんだよな」

「はあ!?あの噂って百合のことかよ!」

「ね、百合ちゃん」

そう言うとようやく彼女の瞳には俺しか映らなくなった。その瞳は『なんで』とひどく傷ついた色をしている。それを見て少し溜飲が下がった気がした。傷ついた彼女ににっこり笑ってやる。そうやって俺だけ見ていてくれれば満足だ。そこに映る感情など関係ない。

「どうしたら付き合ってくれんの?」

「…」

「思わせぶりな態度とって、楽しい?」

「おい―――」

ガタン!!

椅子を蹴立てて立ち上がった彼女に驚いたのか、先ほどまで騒がしかった沢村も金丸も一様に口を噤み、何かを言いかけていた倉持も黙った。しんとした教室に彼女の小さな呼吸が一度響く。

「ごめん、栄純。先に帰る」

ぱっと鞄を手に取り、誰にも声をかける暇すら与えずに教室を飛び出していった彼女にサアっと血の気がひいた。
―――一度もこちらをみなかった。
腹立ちまぎれにぶつけた言葉は彼女の心を粉々に割ってしまったのだとようやく気付く。

「もうあんな風に傷つきたくないんです」

そう言っていたじゃないか。それを知った上で俺は彼女になんて言った?

「このバカ!なにがしてえんだ、テメーは!!」

怒鳴る倉持に反論の仕様がなかった。本心ではなく腹立ちまぎれに言ったとはいえそんなもの彼女が知るわけもない。言い過ぎだし、理不尽だ。

「ちょっとあいつ追いかけて…」

そう言いかけた倉持を置いて荷物も何も持たずに教室を飛び出した。いてもたってもいられなかった。
廊下にはすでに彼女の姿はなく、下駄箱まで全速力で走っても後姿さえ見られない。

「〜〜〜っあいつ足早えな!おい!」

外は相変わらずの土砂降り。けれど傘など取りに行っている場合じゃねえと、そのまま雨の中へ駈け出した。

肌薄い影のなかにいる