雨の中駈け出したはいいものの彼女の家の場所なんて知らないので正門からのびる一本道で追いつけなかったら実はお手上げなのである。だが、こんな俺にもまだ神様はチャンスをくれるらしい。遥か彼方に傘も差さずに走る彼女の後姿をようやく捉えた。
確かに彼女の足は速い。けれどこちとら現役の野球部員なのだ。
「っぜってえ追いついて見せる!」
日ごろ鍛えている脚力をトップスピードまで上げるが、降りしきる雨のせいで制服は水を吸って動きにくいしメガネに水滴が流れるせいで視界は思考に悪い。最悪なコンディションの中、それでもここで逃がすわけにはいかないと必死にひたすら足を動かす。徐々に近づく背中に手を伸ばした。
「ちょっと待てって!」
ようやく追いつきつかんだ腕はぐっしょりと濡れて冷たくなっている。腕を引かれてよろめきながらもようやく立ち止まった彼女は肩で息をしながら、こちらを見る気配は一切なくうつむいてしまった。俺自身も呼吸が苦しいくらい全速力で走ったのだが、それが落ち着くのを待っているよりもとりあえず何か声をかけなければと内心でひどく焦る。何を言おう、どう謝ろうとぐるぐる考えた結果焦りが思考を上回り何も思いつかないまま口をついて言葉が転がり出てきてしまった。それは日ごろ沢村や降谷に言っているようなお説教じみたもので確実今言うべきことではないことだった。
「…投手なんだろ。肩を冷やすな」
ああ、そんなことより早く謝らないといけねえのに。こんなときまでなんてお節介な先輩なんだと思われてしまっただろう。これ以上自分の株を下げてどうすんだよ、俺。
抵抗することもなく大人しく俺に腕を掴まれたまたの彼女の様子からもう逃げないだろうと判断し、つかんでいた腕をそっと離すとだらりと重力に従うまま無気力に体の横に戻った。その様子に眉を顰めつつ着ていたカーディガンをぬいで彼女の肩にかけてやる。その間も彼女は一言も発することなくうつむいたままこちらを見ようとしない。
「…お前、傘は?」
「…」
「持ってねーの?」
「…」
「あー…、とりあえずここじゃ話も出来ねえしどっか…」
「話すことなんて、何もないです」
うつむいて黙り込んでいた彼女がようやく発したのは拒絶の言葉だった。
「…俺はある。さっきは悪かった。本心であんなこと言ったんじゃない」
「…わ、たし」
「うん」
「御幸先輩とは付き合えないって言いました」
「うん」
「何回も言いました」
「うん」
「ちゃんと何回も…!それは!思わせぶりですか?!」
ようやくこちらを向いた彼女の瞳にはどれだけ雨が降っていたとしても見間違えることなどないくらいいっぱいいっぱい涙をため込んでいて、それを零すまいと瞬きすらしない。苦しみが涙の向こう側に見え隠れしていて、ひどく痛々しかった。
「違う。ちゃんとお前の言いたいことは分かってる。分かった上でお前のことを好きでいるのは俺の自分勝手な行為だってこともちゃんと分かってる」
「だったら…!」
「あんなの本心じゃない。倉持とあんまりにも仲良いから腹が立って。ただの八つ当たりなんだ」
「…私、御幸先輩とは付き合えません」
「うん」
「付き合いません」
「…うん」
「こうやって追いかけてきてもらっても応えることはできません」
「でもお前が泣いてるんじゃないかって心配だったんだ」
「泣いてないです」
「うん」
「付き合えません」
何度も何度もその言葉を繰り返す彼女があまりにも痛々しくて可哀想だ。瞬きなんかしなくても次々とこぼれ落ちていく涙はすぐに雨と混ざって分からなくなる。
「うん。わかってる。それでもいいから傍にいたいんだ」
「…」
「傍にいさせて。…おねがい」
みっともないと、自分でも思う。年上の威厳もあったもんじゃない。でもそう口にして頭を下げることにはなんの躊躇いもなかった。どうしても何をしてでも彼女を失いたくなかった。
そもそも彼女は俺のものではないし、付き合ってすらない。きっと彼女からしたら迷惑な先輩でしかないだろう。それでもその関係すらなくしてしまったらこの薄っぺらい繋がりは簡単に切れてしまう。こうなってしまったのは自分の不用意な発言のせいなのだから、関係を絶たれたくないのなら自分で繋ぐしかない。細い細い関係性でもいい。嫌われていたっていい。…いや、よくないけど。できれば好きになってほしいけど。
そこまで考えて、自分の思い違いにふと気付く。
たしかに、彼女からどう思われようとも関係ないのだろう。そう思ったことは間違いない。けれど、それが最善というわけではないことに気付いた。だってできれば好きになってほしいんだ。付き合ってほしいし、俺のものになってほしい。でもそれが無理だというのならせめて、傍にいたい。その瞳に映っていたい。
ただ、ただそれだけしか君に望まないから。
「お前が俺の事好きでも嫌いでも、いいんだ。ただ、今までみたいに普通に話したり、笑いあったりしたい。一緒にいたい」
「…馬鹿じゃないですか」
「…」
「それに御幸先輩のメリットなんてないじゃないですか」
「俺はそれで十分」
「…私、御幸先輩がよく分かりません」
「…」
「御幸先輩なんて…っ」
ぽろりと大粒の涙が彼女の頬を伝う。眉を顰め唇を戦慄かせた。御幸先輩なんて。その言葉の先は容易に想像出来た。そしてその想像があまりにも破壊力を伴うもので、その破壊力から逃れたくて思わず彼女を抱きしめた。無意識だった。腕の中にすっぽりと収まってしまう小さな彼女の体は全身ひどく冷えていて、どうにか俺の体温を与えてあげられないかとこんな時なのにぼんやりとそんなことを思った。
「好きじゃなくていい」
「…」
「嫌いでもいい」
「…」
「それでも、嫌い、って口に出さないで欲しい」
彼女は瞳を見開いて驚いた顔をしたあと、その顔を次第にくしゃりと歪めていった。何度か口を開き、けれど言葉を発することなく口を閉じる。それを何度か繰り返していくうちに何度も大粒の涙はこぼれ落ちたし、苦しいという瞳の色は濃くなっていった。
やがて諦めたように唇を噛み締め、小さな声でようやく言葉を発した。
「…私は好きじゃないです」
「うん。それでいい」
早く雨の当たらないところに行かないと風邪をひいてしまう。そんなことわかりきっているのに抱きしめられたまま無抵抗でいるこの体を引き離すことがどうしてもできなくて、しばらく動けないでいた。