
「…先輩、本当に風邪ひいちゃいますから」
「っ、わり」
弱まる様子が伺えない雨の中、御幸先輩はずっと私を抱きしめていた。いくら最近暖かくなってきたとはいえ、こんなに長時間雨に打たれていれば馬鹿でも風邪をひく。そのことにようやく思い至って御幸先輩に声をかけた。
私も、きっと御幸先輩も正常な思考ではなかった。お互いカッと熱くなって思考することなく本能のまま言葉を形成していたのだ。ようやく戻ってきた正常な思考を働かせればそんな恥ずかしい事実に気付く。
『思わせぶり』
きっかけは他でもないこの言葉だ。
この言葉はとてつもない威力を伴って私の心を突き刺し、理性を打ち砕くほどの強烈なそれは多くの感情を呼び起こさせた。腹立たしいという思いもあったが、なによりも泣き喚いてしまいたい程の悲しみが先立って私の心を支配する。
私があれだけ頑なに付き合えないと告げてきた言葉のどれひとつとして御幸先輩は聞いていなかったのだと知り、愕然とした。悲しかった。私の言葉など何一つ、届いていなかったのだと。
御幸先輩が寄せてくれる好意をただ拒否するだけでは不誠実になってしまうと思い、話せることは話したつもりだ。思い出したくもない傷ついた記憶を心の奥底から引っ張りあげて、それでもこの人に伝えようとあんなことを話したのだ。
旧校舎の屋上。雨の日。もう傷つきたくないのだと。
それは御幸先輩だからこそ話したし、他の誰にも話すつもりなどない。なのに。
『思わせぶり』
そこまでの決心で話したことが全てどうでもいいと、何もかもを踏み躙られたような気分だった。伝わらないのならば話すことに意味や価値は見出せないし、虚しいだけでしかない。
もう御幸先輩の顔も見たくなくなって反射的に逃げることを選んだ。咄嗟にカバンをひっつかんで教室を飛び出し、雨の中傘をさす余裕もないまま全力で家路を駆け出す。
どれだけ息が苦しくなっても何度雨が私の体を叩こうとも、御幸先輩の言葉と、なぜだが少し前に諦めた恋心の痛みが脳裏にチラついて消えないことがベタベタとはりつく制服よりも不愉快だった。二度と思い出したくないと固く心の奥底に沈めていたそれが御幸先輩の言葉によって暴かれ、まるで意志を持った何かの様に私の体内で荒れ狂うのだ。何度も何度もあの光景が目の前を過る。もう忘れたのに、もう違うのに。
「ちょっと待てって!」
がくんと、突然加えられた進行方向とは逆向きの力にたたらを踏んだ。ひどく冷えた手が私を引き止める。ああ、もうすぐ夏大が始まるっていうのに。この人は自分が大切な夏大前だということを理解していないのか、雨の中傘も刺さずに「思わせぶりな女」のことを追いかけてきた。まだ私になにか文句でもあるのかと一瞬で腹の奥底に火が灯る。これは悲しみじゃない、はっきりと分かるほどの怒りだった。意地でも顔も見ないし口もきかない、だなんて今思うと子供っぽい反抗を貫いた。
「あー…、とりあえずここじゃ話も出来ねえしどっか…」
まだ。まだ何か言うことがあるの。もう放っておいてよ。これ以上傷つけないでよ。
そう思っていたのに、どうやら文句を言うつもりでも非難するつもりでもなく謝ろうとしているらしい事に気付いて、つい二度と見たくないと思っていたその顔を見てしまった。
苦しそうな顔をしていた。眉をひそめて息を切らして。酷いことを言われたのは私の方なのに、私より辛い苦しいなんて顔をして何度も謝罪の言葉を口にし、倉持先輩と仲がいいのが許せなかったと、いつもの自身に満ち溢れた彼からは想像もつかないことを言う。
「好きじゃなくていいから嫌いとは言わないで」
そんな弱気なことまで言うもんだから突き放さなくてはならないはずの、このすがりつくように伸ばされた腕を引き離すことがどうしてもできなかったのだ。
「…こういうことを許しちゃうから思わせぶりなんでしょうね」
「、だから」
「いいんです」
「…」
「分かってるんです。付き合えないなんて言いながら、気を許し過ぎてたんです」
「…」
「突き放せなかった私が悪いんです」
「、百合…?」
「だから、もうやめましょう」
しっかりと彼の目を見た。ひどく不安定にゆらゆらと眼鏡の奥で揺れているそれがどういう意味を持つのかは分からなかった。
「私にとって御幸先輩はうざかったりすることもありますけど、なにより大切な先輩なんです。別に倉持先輩だけが特別なわけじゃないですよ」
「…」
「大切な先輩にこれ以上みっともない所、見られたくないんです」
「…」
「だからやめましょう」
「…」
「私はもうあなたとは関わりま…」
「いやだ」
御幸先輩は力なく首を横に振って私の言葉を遮り、もう一度同じ言葉を繰り返した。雨がまるで涙のように彼の頬を伝った。
「いやだ」
「みゆ、」
「本当にいいんだ、好きになってくれなくたって付き合ってくれなくたって、キスもせックスも、抱きしめることすらできなくたっていい。本当にそう、思ってる」
「…」
「お前が嫌がることはしない。好きって言われたくないなら二度と言わない。触れることも…できる限りしない」
「…なんですか、できる限りって」
「だってお前が落ち込んでたら頭なでてやりたいし、泣いてたら涙ふいてやりてえし」
「…」
「本当にそれだけでいいんだ。だから、頼むから」
そんなこと言わないで
苦しそうに喉の奥から絞り出したような、あんまりにも小さな声。それは雨がアスファルトを叩く音にすら負けてしまいそう。けれどその小さな響きはたしかに私の鼓膜と心を震わせた。
なんでこの人はこんなに必死なんだろう。
「…どうして……」
その言葉の先はあまりにも思い上がった発言で慌てて口を噤む。
いつも自信に満ち溢れた御幸先輩がここまで必死になる理由はわからない。それでもここまで私との関係を断ち切らせまいとしてくれる人を手酷く突き放す方法を、私は知らなかった。
「…御幸先輩」
「…はい」
「好きにならない、付き合わないって自分勝手な理由で拒否し続ける後輩が傍にいることで苦しませることはありませんか」
「絶対にない」
即答だった、考える間もない反射的な答え。真摯な目が私の心を突き刺す。
「…私、御幸先輩の後輩で、いたいです」
そう告げると御幸先輩は強ばっていた表情を少し緩ませはあーっと大きく息を吐いた。
「よかった」
「…御幸先輩って意外と強情ですよね」
根負けしたといっても過言ではない。粘り負けだ。
私も自身が頑固な性質なのは知っていたがそんな私を負かす御幸先輩の方が類を見ない程の強情さを誇ると思う。だがそう言うと御幸先輩は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「…お前人のこと言えんのか、それ」
そっぽを向いて口を尖らすその癖は親友がよくやっているそれにすごく似ていた。バッテリーって似てくるもんなんだなあと思うとこんな時なのに笑いがこみ上げてくる。
「ふは、すいません」
「…こら、」
「ははっ。先輩、ほらこっち」
「?」
少し歩いて突き当たりのT字路を右に曲がってすぐ見える家へと入っていく。
「…え?お前ん家ここ?」
「はい」
「近くね?」
「だから青道を選んだんですもん。ほら、早く入ってください。いつまで雨に打たれてるつもりですか」
「…はい」
「ふふ、なんで敬語なんですか」
鍵を開けて先輩に入るように促すがつっ立ったまま動く気配がない。
「どうしました?」
「え、いやいや。それこっちのセリフなんだけど。親、いねえんだろ?」
私の手元の鍵を指さしてそう口にした先輩にようやく合点がいく。
「ああ、いませんけど。別に先輩を中まで上げるつもりはないので。もう、そんなこと分かってますから早く入ってくださいよ」
いつまでもつっ立ったままの先輩にしびれを切らして腕を引いて玄関に入れる。
「(こいつまじでわかってねえ)」
「ちょっとここで待っててください。タオルとってきます」
自分は適当にそこら辺のタオルで床が濡れない程度にザッと拭き、靴下だけとりあえず洗濯機に放り投げた。髪の毛もスカートも絞れそうなほど濡れていたが、そんなのは後だ後。私が風邪をひく分には構わないが御幸先輩に風邪をひかせるわけにはいかない。
自分の部屋から大きめのタオルを2、3枚ひっつかんで急いで玄関へと戻る。
「先輩、これ使ってください」
「おー、さんきゅ…ってお前なぁ」
「はい?」
「なんでお前ちゃんと拭いてねぇんだよ」
「だって御幸先輩が風邪ひいちゃうと思って…」
「お前だってそうだろ」
「私はいいんです。でも御幸先輩は夏大前なのに…。ほら、早く拭いてください」
ぶつぶつ文句を言う先輩にため息をつく。
「だいたい、夏大前じゃなかったらここまでしてません」
「分かったから。お前もさっさと拭け」
「はぁい。先輩も寮に戻ったら早くお風呂に入ってくださいね。傘も貸しますから」
「わりぃな」
二人で黙々と拭くがお互い脱いで拭いているわけでもないので、水分を極限まで吸った制服の冷たさは結局変わらない。だったらいつまでもこんな所にいるよりもさっさと帰ってお風呂に入ってもらった方がいい。
玄関の隅に置いてある傘立てから誰も使っていない大きめの傘を差し出す。
「これ、使ってください」
そう差し出したのだが、御幸先輩は俯き気味に手元のタオルを弄ぶだけで受け取る気配がない。
「先輩?」
「あー、あのさ」
何かを言いよどむと、首の後ろをガシガシとかいてからようやく真っ直ぐ此方を見た。
「お前がさ、沢村みたいに人が投げてるところなんて見たくないって思うなら別にいいんだけど。もし平気なら、夏大初戦。観に来てくんねぇ?」
「え?」
「お前が頑固なのはよーく分かってるから。ピッチャー向きの性格してるっていうか。な。だから無理なら無理でいいんだけど」
「…」
「出来れば…観に来てほしいっす」
そう言ってまたふいっと視線を外してしまった。
意外だった。たかだか野球の試合に誘うのにこんなに色々考えて気を回してくれるだなんて思いもしなかったのだ。けれど、そこまで考えて本当に意外だっただろうかと首をかしげる。
御幸先輩は悪い人ではないのだ。人の事をからかってばかりで、嫌味のようなこともよく言うし、人の話を聞かなかったりもする。けれど御幸先輩は今まで私の「地雷」を踏んだことはない。そんなことは今回が初めてだった。いつだって踏み込んで欲しくない一線はわきまえていて、そういった空気を読むのにひどく長けている人である。
一見して余裕綽々な態度から横暴な性格のように見えるが、その実誰よりも人の顔色を窺うのが上手く、人に気をつかってばかりの人なのだ。揉め事を起こさないように、自分が決して火種になることのないように。そうやって上手く人生を渡ってきていたのだと思う。
そんな人がもし本当に思っていたとしても「思わせぶり」だなんて言うのだろうか。確実にそれは私の「地雷」だし、火種になること間違いなしだ。本心であればあるほど隠したがる人である、だったらあれは本当に咄嗟に出てしまった苦し紛れの反抗の言葉なのかもしれない。
そう気付いてしまえば、駄々をこねていたのは自分だったということも理解してしまう。相手の事を考える余裕がなかったのは私も同じだ。挙句逃げることしか考えていなかった最低な私をひきとめ、諦めずに関係を立て直してくれたのは御幸先輩であった。
「行きます」
「え」
「初戦だけじゃなくて二回戦も、三回戦も」
「…」
「甲子園まで応援に行きますから」
そう言うと目を丸くしたあと、ようやくメガネの奥をいつものように自信満々の笑みで歪ませた。
「まかせとけ」