涙で世界は救えない

彼女が泣いているのを見たのは初めてだと、こんな状況なのにそんなことを思っていた。



外は寒いだろうにじわりと額に汗をにじませ息を切らしてここに駆けてきた彼女は、まだ少女と言っても可笑しくない幼さの残る顔を真っ青にして全身を可哀想なくらいカタカタと震わせていた。寝台に横たわる随分と窶れてしまった悠舜を、唇をきつく噛み締め今にも溢れ落ちそうな涙を落とすまいと瞬きもせずにじっと見つめている。否、最期の一瞬たりとも見逃すまいと思っているのかもしれない。
その様子を見ていて彼女がなぜ、ここ最近悠舜の所へ見舞いにも来ずにいたのか解ってしまった。

「千星」

溜息のように悠舜の口から転がり出たその名前に彼女はピクリと僅かに反応した。だが、そこから一歩も動こうとはしない。

「千星、今まで私を助けようとあちこち治療法を探してくれていたんでしょう。……すいません、ちゃんと助けられてあげられなくて」

ぶんぶんと顔を横に振った拍子にころりと涙が転がった。

「ごめ、なさ…!」

何度も何度も言葉を詰まらせ、不必要に息を吸い込み謝罪する。見ていて痛々しい姿に悠舜は手を差し延べる。

「……こちらにいらっしゃい」

小さく微笑む悠舜はいつもの何処か影のあるものではなく、じんわりと滲みでる情が窺い知れた。
彼女はまるで近付いたら悠舜が消えてしまうとでも思っているのか、恐る恐るといったふうに震える小さな足を踏み出した。ころりころりと転がり出る涙は止む気配がない。

「おとうさん」

悠舜は彼女にそう呼ばれるといつも本当に嬉しそうな顔をする。10年一緒にいた俺ですら見たこともない、凛姫に向けるそれともまた違う笑顔。けれどもその笑顔もすぐに曇り、枯れ木のような細い骨張った腕を伸ばし彼女の青白い頬に触れ、哀しさと後悔と憐憫をごちゃごちゃに混ぜたような苦い顔をした。この顔も彼女の前でしか見たことがない。けれど、この顔はよくしていたように思う。

「#渚#をまた悲しませてしまいますね。あなたは人が亡くなるのを何度も何度も目にして、その度に傷ついてしまう本当に優しい子なのに。私まであなたを傷つけてしまう」

悠舜がこんなにも素直に感情を顕すのはきっと彼女にだけだ。彼女のなにが悠舜をここまで素直にさせてしまうのか俺は知らない。
とうとう彼女は小さな子供のようにしゃくり上げて泣き始めた。頬に触れる悠舜の手を握り締め、ころりころりと涙を零す。形の良い眉毛を歪ませ、けぶる様な睫毛に囲まれた大きな瞳を真っ赤に染めて。

「おとうさん、おいていかないで」

彼女の姓も知っている。悠舜と彼女が本当は血が繋がっていないことも知っている。
しかし、俺が今まで見てきた何処の親子よりも悠舜と彼女は親子だった。
可愛い娘の一番心の奥底に仕舞いこんでいた願いを叶えられない悠舜の悔しさは、きっと彩雲国広しと言えども誰にも分かるまい。俺にだって分からない。大事な、自分を愛してくれる人の懇願が世界で一番叶えられないことだなんて。
悠舜はもぞりと寝台の中で身じろぎした。俺は慌てて悠舜に手を貸す。ここ最近寝台にずっと臥せっていた悠舜が一人で起き上がれるはずがない。触れた背の冷たさに心が震えた。
どこにそんな力が残っていたのか。壊れ物を扱うかのように慎重な手つきで彼女を抱き締めた。

「先にいって待ってますよ。ずっと。時が来たら必ず迎えにいきますから。それまでは……」

どうかいきてください。

それがどんなに彼女にとって残酷な願いなのか悠舜はわかっている筈なのに、それを口にする。何度も何度も聞いた悠舜の願い。
彼女は返事をせず曖昧に首を振った。それは肯定とも否定ともとれるもので、ただころりころりと涙を溢すだけの行為だった。

「やだ、やだよ。おとうさんと一緒にいたい」

普段は顔に似合わず大人びている彼女だが今はまるで頑是無い幼子のよう。けれど、普段の大人びた言動よりはこういう方が年相応に見える。
悠舜はそんな彼女を宥めるように優しい手付きで背を撫でる。俺が知っている限り悠舜の側にはいつも彼女がいた。悠舜の好きな物の中には必ず彼女が入っていて、それは燃えるような恋情なんかでは決してなかったけれど深い深い親愛の情をいつだって覗かせていた。悠舜は宝箱の、誰だって見える所に彼女仕舞いこんでいる。それはとても珍しいこと。悠舜の好きな物は分かりにくいところに仕舞われていて、分かる人にしか分からない。梨の花や雨垂れの音。そんなものとは少し違うところに彼女はいる。凛姫とも少し違うように見えた。

悠舜の宝箱から彼女が消えた事はない。
けれど、最期の最期。

「さあ、もう行きなさい。……主上が来てしまいますよ」

手放したのは悠舜だった。
宝箱の鍵をカチャリと開ける音が俺にも聞こえた気がして。
彼女は濡れた瞳を絶望の色で染め上げ、全てを悟る。賢い彼女はたったこれだけで分かってしまう。それは幸か不幸か。きっと仙人様にだって分からない。

「……千星。もうここに来てはいけませんよ」

「………いや、いやだ!おとうさん!!おいていかないで!」

「千星」

強い声だった。決して大きな声ではないが有無を言わせない悠舜の声が彼女の慟哭を遮る。
深い悲しみと奈落の底を思わせる瞳。いつも煌めいていた彼女の星はそこにはもうない。
ころりとまた落ちていく。
まるで鏡のように彼女の絶望を己の心に映す悠舜の手が軽く彼女の首を打った。

「燕青」

崩れ落ちる彼女の躯を抱き留め悠舜に視線をやる。
あの王様が悠舜に尚書令を辞す事を許さなかった時だって、療養することさえ認めなかった時だって、こんな後悔を滲ませた顔なんてしていなかった。
何時だって彼女だけが悠舜にこんな顔をさせる。

「この子を頼みますね」

「この子は平気な振りをして無茶をする子なんです」

「一人が寂しいと啼く子で」

「人の死を目の当たりにして平気でいられる子じゃないんです」

たくさんの愛情と。

「もっと早く手放すべきだった」

「この子が悲しむことなんて分かってたのに」

「もっと」

「もっと一緒にいてやりたかった」

たくさんの後悔。

宝箱からなくなった音だと思った。けれどどうやらあの音は余りある程の愛情だとか後悔だとか、そういう彼女に対するすべてのものをひっくるめてそっと宝箱に仕舞いこんだ音だったようだ。

――――――――ただ彼女自身を除いて。

「……ああ、約束するよ。千星のこと、ずっと守る」

そう言うと、悠舜は本当に安心したように小さく息を吐いて俺の腕の中にいる彼女の頬をなでた。





次の日、王と凛姫に看取られて悠舜は逝った。
そこに彼女の姿はなかった。
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