これが綺麗な世界の終極

千星は悠舜が死んだ後、悠舜の言いつけを守るかのように一度も悠舜の柩に近寄らなかった。
それは悠舜の葬儀の日も変わらず。

「千星」

「……なあに」

「行かなくていいのか」

「いいの。ちゃんとお別れはしたし、きっとまた泣いちゃうから」

悠舜の葬儀の日は雲一つない青空の広がる日に執り行われた。場所は王宮の一角で行われるそう。宰相の葬儀ということで、基本的に公務は休んで官吏達はほぼ全員参列することとなった。また、悠舜に関わりがあり葬儀に参列する者は例外的に今日だけ王宮への立ち入りが認められている。茶州からも州府の者だけでなく、何人か悠舜を弔いに貴陽を訪れているそうだ。
だが、彼女はもうすぐ悠舜の葬儀が始まるというのに出掛ける気配すらない。貴陽のはずれに構えるとある貴族の屋敷で、彼女は窓から城の方角を眺めたままそこから動こうとはしない。悠舜がいる方を感情のない目に映し、ただそこにいるだけ。
彼女は悠舜が死んだ日から全てを拒否し始めた。毎日一刻程睡眠を摂ればいいほうで、元から白い面には青白い隈が出来て不健康そうな顔をしている。食事はこの屋敷の主と俺が交互に無理やり食べさせているが、どう考えてもあれで足りているわけが無い。あの日以来彼女の瞳に星は戻らない。奈落の底から抜け出すことができず、けれどもがくこともせずに受け入れてしまっている。泣き喚くこともなくまるで生きることすら拒否するかのように、無気力に呼吸と静かな瞬きだけを繰り返していた。
泣きも喚きもしない彼女は異様だった。
凛姫や静蘭、多くの人々が心配そうにこの部屋を訪れては何も声をかけずに去って行く。声をかけられなかった、の方が正しいかもしれない。ただ悠舜の方を向いて空を見つめたままの彼女は、まるで精巧な人形になってしまったかのようで。

「燕青は」

小さな声で俺の名を呼んだ彼女の視線はこちらを見るでもなく、相変わらず空を見つめたまま。美しい人形の口元だけがはくはくと動いているよう。

「燕青は行かなくていいの?燕青だってちゃんとお別れしたいんじゃないの」

「もう少ししたら出るさ。ここの人今みんな出ちゃってんだろ?誰か戻ってから……」

「私のことは気にしなくていいから。行きなよ」

俺の言葉を遮る冷たく突き放すような言い方に思わず怯んで何も言葉を返せなかった。
なんだか無性に腹立たしくなって、無性にやるせなかった。地団駄を踏んで喚いてしまいたいくらい。
「(どうして)」
こんな風にずっと悲しんでいたって悠舜が喜ぶはずもない。悠舜は彼女の笑顔が好きだった。実は良いとこのお姫様なくせして大口をあけて笑う彼女が悠舜は好きだった。お上品に笑うでもない、言葉遣いだって俺と同じくらい実は悪かったりする。いつだって怪我人病人を追いかけて走り回って無茶ばっかりして、たくさんの人々を助けてきた凄いやつ。そのくせ人一倍自分に自信がなくて臆病。口の悪さに騙されがちだが、心底優しいやつでどんなときだってどんな奴だって手を伸ばしてしまう天性のお人よし。他人の顔色ばかり窺ってしまうそんな、奴、で。
こんな風に誰かを突き放せるやつじゃねえんだ。意地っ張りだから決して素直に言うことはないが一人が苦手なくせに、こんな時ばかり傍にいるやつを突き放してどうするんだ。

「(こんな時悠舜なら…)」

こんな時悠舜ならどうするだろう。どうしていただろう。
考えてみても分からない。いつだって彼女を救ってきた悠舜はもう、いない。


「この子を頼みますね」


ああ、助けてやりたいよ。悠舜との約束がなくたって俺は彼女を助けたかったし、俺が彼女の心の拠り所になってやりたかった。悠舜のように、とはいかないけれどそれでも。
けれど、どうしたらいいのか分からねえよ。こういう時どうしたらいいのかくらい教えていってくれよ。俺じゃあどう足掻いたってお前の代わりは務まらねえんだ、悠舜。
俺は驕っていたのかもしれない。彼女のことを分かった気になっていたんだ。10年前彼女と悠舜と茶州で出会い、たった10年ぽっち一緒にいたくらいで彼女のことはなんでも知っている気になっていた。それ以前の彼女のことなんて全く知らないくせに。悠舜が時折彼女に向ける憂いの理由とか、ふとした時に見せる彼女の脅えた表情の真実だってなにも、なにも知らないくせに。
近すぎて、何も知らなすぎたんだ。そんな俺が言える事は何もない。


「知らないことを言い訳にしてはいけません。知らないなら知る努力をなさい」

「知らないからってどうして落ち込むの?これから知っていけばいいじゃん。まだ遅くなんてないよ」



「(そうだ)」

知らないなら、知ればいい。
いつかの悠舜と彼女の言葉が頭の中に響いた。あれはたしか俺が茶州の州牧になってすぐの頃だったはず。あの時も政なんて何も知らない俺が口を出すべきではない、悠舜に任せるべきだと思い違いをして悠舜に諌められたのだ。
そう、思い違い、だ。

「……なあ。俺、お前を助けてやりたい」

「……」

「もっと上手く助けてやりたかったんだけど、どうしたらいいのか分かんねえし」

「……」

「何も知らない俺が言えることは何もないって」

「……」

「そう思ってたんだけど。……でもさ、知らないことを言い訳にすんなって悠舜に言われたことあって」

「……うん」

「だから、千星のこと知ろうと思った」

「……うん」

「千星が何処で生まれて誰と過ごしてどうやって生きてきたのか」

彼女の顔は見れなかった。

「俺は知りたい」

こんな貪欲な気持ちはいつぶりだろう。晁蓋を殺してやりたいと思っていたあの頃の気持ちが一番似ている気がする。
10年も一緒にいたけれど彼女は自分のことは一切語らなかった。言いたくないことや思い出したくない事をわざわざ話させる必要はないと今まで思ってきたけれど、知らないふりはもう続けられない。
彼女が頑丈に鍵をかけ杭まで打ち付けていた箱に手を掛ける時が来たのだ。

「……聞いたら、泣いちゃうかもよ」

「泣かねえよ」

「私のこと」

「……」

「嫌いになっちゃうかもよ」

少しだけ震えた声に、思わず顔を見た。
今にも泣き出しそうにそれでも笑っていた彼女を、抱きしめたくなった。

「全部、全部受け止めてやるよ」

抱きしめることはできないから、彼女のほっそりとした白魚のような手を取った。彼女は紅も何も塗られていない唇を小さく開いた。
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