きみとおんなじ心臓がほしかったんだ

「か、かわいい…!」

くりんとした大きな瞳につるんとしてまろい頬、ちっちゃな手足。どこもかしこもふにゃふにゃしていてまるで綿菓子のよう。頬が緩んでいくのがわかる。邵可の腕に抱かれた一番下の弟は私をじっと見つめたままきょとんとした顔をしていた。
一番下の弟に初めて会ったのは、彼が産まれてから一年程経ってからだった。義母様が産まれたばかりの弟を片時も手放すはずがなく、私はなかなか彼に会うことが出来なかった。今回邵可がこうして弟を連れて来てくれたのは、義母様が体調を崩してしまったからである。

「義母様のお加減はどう?そんなに悪いの?」

「…いや、大丈夫だよ。ただの夏バテだって」

「そう。水分だけじゃなく、ちゃんと塩分も摂るようにお伝えしてね」

「分かったよ、伝えておく」

「あ、私が言ってたっていうのは…」

「分かってるよ。そんなこと子供の君が心配する必要はないんだ」

「邵可だって子供じゃない」

「君よりは中身も外見も大人だよ。ほら」

君が会いたいって言ったんだろう、そう言いながらそのふにゃふにゃした綿菓子のような弟を無造作に渡してきた。

「えっ、ちょっと待って!ど、どうやって抱えればいいのおとしちゃう!」

「ここに手を入れて」

「…こう?」

「そう。それでこっちの手はここを支えておけば大丈夫。ほらね」

「ふおお…!」

ふにゃふにゃした綿菓子ブラザーは最初私の抱き方が気に食わなかったようで小さく身じろぎしていたが、邵可に教わった通りの抱き方にするとぐずることもなくその大きな瞳をぱちくりと開いて私をじっと見つめている。くっそお、食べちゃいたいくらい可愛いってのはこういう事か!こんなに小さな子供を抱いたのは前世も含め初めてのことだったので少し感動する。赤ちゃんてこんなにあったかくてちっちゃいんだ。

「黎深、はじめまして。千星です。よろしくね」

黎深はなにが面白かったのかきゃっきゃと笑いながら手を伸ばしてきた。そっと膝の上に黎深を降ろしてその手をとってやる。小さくて、でも思ったより力強くて。なんだか嬉しくなって黎深と一緒に笑った。

「君の」

「ん?」

「千星のそういう所、凄いと思うよ」

「?どういうところ?」

「…怖がらないところ」

「なにそれ。こんな可愛い黎深の何を怖がるっていうの」

邵可は大きなため息をこぼすと少し乱暴な手付きで私の頭を撫でた。わしゃわしゃわしゃ。
邵可があまりにも頭を撫で回すものだからはらりと一房紅家特有の漆で塗込めたような黒髪が滑り落ちた。その髪を黎深が遠慮なく引っ張るものだから痛いのなんのって…いた、いたたたたたたた!

「痛い!」

「…何やってるんだ君は」

「いや、元はといえば邵可のせいたたたたたた!」

邵可は黎深の手を優しくつかみするりと私の黒髪を引き抜くと背後に周り、慣れた手つきで髪を結い上げ直していく。

「髪、伸びたね。少し揃える程度に切って上げようか?」

「ほんと?もう、暑くって暑くって。せめて邵可くらいまで短くしたい」

「馬鹿じゃないの。駄目に決まってるだろ、女の子なんだから」

「えー」

「もう少し紅家の姫らしくしてくれ。君、見た目はそこそこなんだから」

「見た目はってなによ」

邵可はひょいっと片手で黎深を抱えあげ、反対の手で私の手を掴むと庭へと降りていった。

「ほら、黎深持ってて。そのまま動かないで」

「はあい」

黎深は外に出れたことが嬉しいのかキョロキョロ周りを見渡しては、不思議そうに色んなものを見ている。

「黎深はあんまりお外に出たことないのかな?」

「母上が外に出たがらないからね」

「乳母も黎深のことお散歩に連れていかないの?」

「うーん、あんまり見たことないな」

「だめだよ。ちゃんとお日様浴びないとおっきくなれないんだよ」

「どういうこと?」

「お日様は骨を成長させる手伝いをしてるから、お日様あんまりにも浴びなかったりすると大人でも病気になったりするの」

「そうなの?」

「うん、本に書いてあったよ」

「ああ、君よく書庫にこもって本読んでるもんね」

「ここ、色んな本があって面白いよ」

「僕も本を読むのは好きだな」

しゃきん、しゃきん。みーんみーん。かなかなかな。
遥か彼方に水墨画のような美しい紅山の連峰を望み腕の中には可愛い弟を抱いて鋏の音と蝉や茅蜩の合唱を聞く。こんなに穏やかで心が凪ぐような日はいつぶりだろう。するりと梳く櫛の感覚と邵可の暖かい手の温度が羽根のような軽さで頭や肩に落ちていく。

「黎深、これはちょうちょ」

「うー?」

「これははっぱ。これはお花。空。雲。木。池。」

「あー?」

目につくものを順繰りに指差しては言葉にしていく。

「あと、邵可」

「?」

「しょ、う、か」

「……何をやってるんだ。まだ黎深は分からないよ」

「きっと分かるよ。黎深頭良さそうな顔してるもん」

「(頭良さそうな顔って)」

「しょうか。邵可だよ。邵可」

何度か根気強く邵可、と繰り返していると不思議そうな顔をしていた黎深が似たような音を口にした。

「しょー?」

「!ほらね!」

あまりにも嬉しくてドヤ顔で振り向くと邵可は呆れた顔をしている。

「はいはい」

「む。なにその投げやりな感じー。黎深は頭いいねえ。きっと賢い子になるよ。でも頭だけ良くても駄目だからね、お日様の下を駆け回るスポーツ少年になりなよ。きっとモテモテになるから」

「(すぽーつ?)ほら、終わったよ」

邵可は何度か毛先の方を払うと、簪一つで器用に結い上げていく。するすると迷いなく動く手はまるで魔法みたい。

「ありがとう。邵可ってばほんと器用だよね」

「まあ、君よりはね」

「へー。まあ私は邵可みたいに嫌味とか言わないけどね!」

「千星には嫌味なんて言う語彙力がないだけだろ」

「ああん?おぬし喧嘩売っとんのか」

「ほらね」

「ムキー!」

実年齢も精神年齢も邵可より上である筈なのにいつも私の方が軽くあしらわれてしまう。精神年齢に至っては遥かに邵可より年上である筈なのに!
邵可は生まれた時から子供らしさ、というものがあまりなかったように思う。いつだって兄のように振る舞い、いつだって私は邵可の庇護の対象であった。別にそれが悪いことだとは思わないが、10にも満たない子供がすでに子供らしさを捨てているというのはなんだか勿体無い気がしてしまうのだ。どうせ何時かはどんなに嫌でも大人にならなくてはならない。だったらそれまでは子供でいればいいのに。幸いにも紅家なんてご立派な一族に産まれたんだから今すぐ働きに出なくちゃいけない訳でもあるまい。

「(まあ、邵可を庇護する人がいないのは確かであるけれど)」

父様は玉環大叔母様の影に薄れて当主というには少し立場が弱いし、何故か私ばかりを構うので邵可の「父親」をやっているところを目にしたことがない。義母様は義母様で主に私虐めに忙しいし、姉であるはずの私はこんな感じだし。
子供でいられなくなっても仕方ないのかなあ。
邵可が時折疲れた大人のような表情を覗かせるとどうしようもなく申し訳なくなる。私がもっと普通だったならあなたの姉になって守ってあげられたのかもしれない、もう少し子供らしく息をさせてあげられたのかもしれない。
けれど、それはどんなに考えたって有り得ない。
私はどう足掻いたって「普通」には成り得ない。

「……そろそろお家に戻ろうか。黎深汗かいてきたみたいだし、日陰に入って水分とろうね」

「そうだね。だいぶここ最近涼しくなってきたとはいえまだ暑いのにはかわらないし。ほら、黎深貸して。君が黎深持ったまま歩いたら落としそうで怖い」

またしてもひょいっと黎深を片手で抱えあげると、反対の手で私の手を掴む。それがなんだかこそばゆくて小さく笑ってしまう。なんだかんだ言いながら庇護される立場というのは心地がいいものなんだ。きゅうっと手を握り締めて私より幾分か背が高い邵可を見上げる。

「今度は夜にお散歩にこようね、黎深に星も見せてあげよう」

「そうだね、もう夏も終わりだしお月見でもしようか」

「うん!あと私…」

「ん?」

これは言っていいのかどうか分からなくて思わず口篭る。父様には何度も駄目だといわれている。まだ私にはこの世界の常識というものがこの屋敷の中で学んだことしかわからない。前世では普通だった事もここでは普通ではないのかもしれない。私が口にする願いもここではただの異端になるのかもしれない。
分からないということは恐怖でしかなかった。
だから少しでもこの世界のことを知りたくて沢山本を読んだ。情報源なんてテレビやインターネットがあるわけではない。人の噂話と本でしか情報を得られるものがなかった。でも、そういうものを合わせて考えてみても、これは大丈夫なことだと思うのだけれど…。

「なんだい、言ってごらん」

邵可が優しく笑うから小さな声で呟いた。

「…屋敷の外に出てみたい」

「ん?なんだ、そんなこと?いいよ、今度近くの市場にでも行こうか。新しい着物を自分で選んでもいいしね」

「……ん?」

「ん?」

「今私結構な覚悟で言ったんだけど」

「……はあ?」

「だって!父様に言ったら絶対駄目だって……」

最後のほうは尻切れトンボになってしまった。だって。だってあんなに駄目だって言われてたのに。お外に出たい、そう言っただけなのにいつもの優しい父様からは想像もつかないような怖い顔でいつもきつく叱られていた。父様は私を甘やかしてばかりで叱ることなんてないのに、この時ばかりはひどく強い口調で叱るのだ。だからこの世界では子供が屋敷の外に出ることはタブーにでもなっているのかと諦めていたのに。

「父上が?」

「うん…。いつもお外に出たいって言うと怖い顔で怒るの」

「……そう。じゃあ今度黎深と三人でこっそりお出掛けしようか」

邵可は何事か少し考え込んだあと、いつも以上に優しい顔でそう言った。三人なら怖くないだろう、なんて珍しく悪戯っ子のような笑みを見せるものだからまだ見ぬ世界に期待で胸をふくらまし邵可に飛び付いた。
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