ことの発端を思い出せるほど、私の頭は賢くない。万が一、賢かったとしても、思い出したくもないし、たぶん覚えていないだろう。
 それくらいの記憶力しかないくせに、彼のひどく感情を押し殺した「出て行け」という言葉だけは、しっかりと声の震えまで寸分違わずに記憶している。なんとも厄介な記憶力だ。

 私は売り言葉に買い言葉「出て行きますよ、コノヤロー!」と、感情をみじんも隠さず、着替えと財布だけをとりあえずカバンに詰め込み、家を出た。
 正直なところ、この時“もしかしたら、引き留めてくれるかも”という期待がなかったと言えばウソになる。だがその淡い期待はあっさりと切り捨てられ、彼は私に一瞥さえくれなかった。

 外へ出て、私は思わずたたらを踏んだ。そう、雨だ。
 天気予報を見ていなかったのではない。ただただ怒りと勢いに任せ、飛び出したせいで、天候のことをすっかり忘れていたのだ。しかし戻るにも戻れない。いや、戻って「ごめんなさい」とでも謝ればまだ間に合うかもしれない……。
 しかし私はカバンからハンカチを取り出し、それを頭にかぶせ、降りしきる雨の中を駆けたのだった。


***


 そして現在。

 私はたまたま、パチンコ店の前で遭遇した銀時の家に転がり込んでいる。
 ご丁寧に新八くんがタオルを貸してくれ、神楽ちゃんは温かいお茶を淹れてくれた。着ていた服はおろか、カバンに詰め込んだ服さえも、雨で濡れてしまうというありさまで。私は少し窮屈だが神楽ちゃんの服を借り、目の前でジャンプを読んでいる男を盗み見た。

 雨でずぶ濡れになり、小さいとはいえパンパンに詰まったカバンを抱えた私に、銀時は特になにも聞かず「ンな格好じゃあ、風邪引くぞ」とだけ言って、傘の中に招き入れてくれた。
 途中、雨に濡れる銀時の肩に気付いたが、彼はやはり無言のまま、私の方に傘を傾け歩いていた。

「(……こんなヤツだったかな、銀時って)」

 失礼な話、私の中の彼のイメージはだらしがなく、いい歳になってもジャンプから卒業できないマダオだ。しかしどうやら、私の知らないところで彼は成長をしていたようだ。まあ、ジャンプ卒業だけはできないらしいが。
 銀時の成長に感心しているところへ、洗濯を終えた新八くんと神楽ちゃんが揃ってソファに腰掛けた。向かいで銀時がソファを独占している分、こちらは三人で仲良く座る形だ。

「すみません。お茶菓子もなにも出せなくって」
「あ、ううん。大丈夫、気にしないで」
「そうはいかないアル! 新八、今すぐ酢昆布とまんじゅうを買ってくるネ!」
「それ自分が食べたいだけだよね、神楽ちゃん」

 私を挟んで言い争いを始めてしまう二人をなだめ、苦笑する。
 この二人もまた、驚きはしたものの経緯を追求することなく、私を招き入れてくれた。言い争いの最中、ぱちりと新八くんと目が合い、彼は再び「本当すみません」と苦笑いを浮かべた。そしてそのまま言い争いを止め、視線を私から向かいでジャンプを読みふけっている銀時に移す。

「ところで銀さん、今日は仕事ないんですか?」
「あるわけねえだろ。こんな土砂降りの日によォ」
「なんですか。その、雨の日は休みみたいなノリは」

 半眼し呆れたため息を吐いたのも束の間、新八くんは思い出したように「だったら」と、ある提案を持ちかけた。

「洗濯物をランドリーで乾かしてきてくださいよ。まだしばらく雨が続くみたいなんで、溜め込まない内に」
「ンだよ、それ。部屋干しでいいじゃねえか。いま行っても、どうせ濡れるだけだぞ」

 動く気配のない銀時と、引き下がらない新八くん。おそらく進展は望めない。

「じゃあ、私が行くよ。お世話になってるし」
「えっ。そんな、いいですよ! だったら僕が――」
「わーったよ、行けばいいんだろ。ったく、また濡れちまうじゃねえか」

 ちっとも動こうとしなかった銀時がむくりと立ち上がり、私を見据え「テメェも来い」とぶっきら棒に言った。


 少し小降りになった雨の中、近所のランドリーに向かう。借りた傘をくるくると回しながら横目で銀時を見やるが、彼は前方だけを見据えていて、なにを考えているのかよく分からない。そしてそのまま会話らしい会話もなく、無人のランドリーに到着する。
 チャリン、と数枚の小銭を投入し、唸りをあげ始める乾燥機。隣の乾燥機も同じように唸り始めた。乱暴に回転する洗濯物を目で追う内、無意識にため息を一つ零した。

「……またケンカしたのか?」
「んー、まあ、そうかな」

 原因も思い出せないくらいの些細なケンカだ、曖昧に答える私に銀時は呆れた息を吐く。

「犬も喰わねえとはよく言ったもんだぜ。今度はなんだ? 味噌汁の具か? ソースか? 醤油か? いい加減どうでもいいことでケンカすんじゃねえよ、コノヤロー」

 ため息混じりにわしゃわしゃと私の髪を掻きむしっていく大きな手は、乱暴なわりに酷く優しく、目頭が熱くなる。

「銀時って、こんなに優しかったっけ?」
「なに言ってんだよ、銀さんはいつだって優しいんですー」
「いや、いつもはもっとチャランポラン」
「ちょ、人がせっかく慰めてやってんのにその言い方は酷いんじゃねえの?」

 不貞腐れる銀時に自然と頬が緩んだ。銀時はバツが悪そうに頭を掻き「俺だってケンカして凹んでるなまえなんて見たかねえよ」と聞こえるか聞こえないかの声量で呟く。
 ばっちり耳に届いたのだが、それは聞こえなかったフリをして、私はぐるぐると回転する洗濯物を目で追うことに専念した。


ラストはやっぱりハッピーエンドで


「……なんで、ニヤついてんだよ」
「それは、ねえ」

title 箱庭