「はあ……」

 大きなため息をひとつ。なまえは重たい雨雲を見上げて、ツイてない、と濡れたカバンやスーツをハンカチで拭った。「午後の急な雷雨にご注意ください」そう言っていた朝の天気予報を信じなかったせいなのだが、さっきまでの晴天を恨めしく思ってしまう。
 ただの通り雨だろうが、結構な雨量に足止めを食らわざるを得ない。あとは帰社して書類をまとめるだけなのに。早く帰りたい気持ちで空を睨むなまえの背後で、不意にベルの音がした。

「あの、よかったら使ってください」
「えっ?」

 差し出されたのは一枚のタオル。「あと、雨宿りでしたら、中へどうぞ」そう言われて、はたと気づく。雨を凌ぐため咄嗟に入った屋根の下は、ちょうど喫茶店だった。
 チラリと再び空を見ても、一面鈍い色でまだ止みそうにもない。タオルを受け取ったなまえは「ありがとうございます」と、店内へ足を踏み入れた。店内はなまえと似たような客が何人かいて、思い思いに時間を過ごしている。

「ホットコーヒーをお願いします」

 カウンター席に腰かけ、タオルを渡してくれた男性店員に注文をすれば、彼は笑顔で「かしこまりました」とカップに手を伸ばす。程なくして、芳ばしい香りと共にコーヒーが目の前に置かれた。

「お待たせしました」
「どうも」

 ふう、と熱い湯気に息を吹きかけるなまえは、その向こうで店員が微笑んでいることに気づく。
 なんだか気恥ずかしいな、思わず顔を逸らして冷ましたコーヒーを一口飲む。

「……おいしい」
「ありがとうございます」

 こちらが照れてしまう笑顔に、どぎまぎとしてしまう。しかしそれ以上、特に会話があるわけでもなく、店員が仕事をこなす姿を眺めながらなまえは冷めつつあるホットコーヒーを飲んでいた。

 三十分ほど経っただろうか。屋根に当たっていた雨音が薄れ、かすかに日差しがガラス窓に反射している。
 待ってました、と言わんばかりに雨宿りをしていた客たちが会計をして店を後にする。なまえも例外ではなく、会計待ちの最後尾に並び、やっと帰れる、と安堵の息を漏らしていた。

「雨、上がってよかったですね」
「えっ。ああ、そうですね。これで帰れます。……タオル、ありがとうございました」
「いえ。困ったときはお互いさまです」

 レシートとお釣りを受け取り、相変わらず笑顔の彼につられ、笑みで返してしまう。すると「やっぱり」突然、そう言ったかと思えば、店員はなまえの顔をマジマジと見つめて頷く。

「お姉さん、笑顔のほうがステキですよ」
「えっ」
「安室さーん。こっち手伝ってくださーい!」
「あ、分かりました! じゃあ、また来てくださいね」
「えっ、」

 安室と呼ばれた店員は、食器の片付けに参戦すべく、戻っていく。なまえはどうしようもなく出なかった言葉を飲みこんで、店を後にした。


入れなかったお砂糖の話
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